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「華を織る」
05


 ――いや、と男は心の中で呟く。
 あの時のざわめきは、こんなに陽気で愉しげなものではなかった。
 むしろ正反対、いいや正反対などと言う生易しいものではない。同一線上にはあり得ない、まるで悪夢に迷い込んだ様な歪な空気は。



 咽返る血の匂い。
 突如起こる逆巻く風。
 罵声、怒声。
 恐怖に引き攣る悲鳴。


 ‥‥そして扉の向こう側、驚愕に見開かれていた幼い瞳。




「前菜盛り、お待ちどうさま!」
「、」
 突如目の前に勢い良く皿を置かれ、男は我に返る。
 運んで来た店員に礼を言い、添えられた箸を手に取る。立ち上る湯気と食欲をそそる匂いに、微かに男の頬が緩む‥‥が。
「‥‥」
 ――あの化け物が。
 もう何度繰り返したか分からない台詞を、もう一度、刻み付ける様に心の中で呟く。
 あの夜に全てを失った男にとって、その言葉を繰り返すことがたった一つの生き甲斐となっていた。忘れない様に、薄れさせない様に、強く強く心の中で呟く。


 ――あの化け物が。
 箸を持ったまま、男はそっともう片方の腕を触る。もう二度と動く事は無い、血の通わない偽りの腕は、布越しだと言うのにひんやりと冷たく、そして固い。
「‥‥」
 やがて男は全てを押し込める様に首を振ると、相変わらず呑気に湯気を上げ続けている目の前の皿に改めて箸を伸ばした。



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あきゅろす。
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