あなたの手を取って3
彼からもらった名刺を財布の中に忍ばせて園を出たのは七時半だった。
お迎えの時間は七時なのだが、掃除・戸締り・明日への連絡事項の書き残し等で、遅番の日は大体この時間になる。
これでも他の園に比べたら早いほうだ。
 最近は寒くなってきて、息を吐けば真っ白な蒸気が空中で溶けて消える、を繰り返す。かじかむ手のひらをポケットに突っ込んで、鍵を閉め、それから駐輪場へ。
 この時期の自転車通勤は辛いな、だなんて考えながら歩いていれば、見覚えのある人影を発見してしまって、僕は歩みを止めてしまっていた。

「お父さん……?」

 そこには、つい一時間前ほどに会った彼がぼんやりを空を眺めながら立ちすくんでいて、びっくりした僕はうっかり間抜けな声を上げてしまう。
その声に気づいた彼はこちらを見る。
その瞳は真っ暗で、すべての感情がどこかに行ってしまったんじゃないかというほどだった。
 僕が眉を下げたとき、彼は泣きそうな顔をして呟いた。

「先生、やっぱり今日飲みに行こう」
「………え?」
「それとも保護者とこういうのは園的にまずい?」
「いえ、その……」

 どうしよう、なんと断ったらよいものか。
彼は首を傾げながら明日は早番?だなんて聞いてくる。
明日は幸い休みだから時間を気にする理由はない。
ただ、こういう展開は長い間保育士をしていた中で初めての体験なのだ。
 僕がえっと、と言葉を濁していると、彼はどうしても僕を誘いたい様子でこう言った。

「誰もいない家に、今日は帰りたくないんだ。………寂しくて」
「――――あ、」
「だなんて、大の大人が言ってる台詞じゃないよな、恥ずかしいやつでごめん」

 無理言ってすみません、と彼は頭を下げた。
すぐに顔を上げて弱弱しく微笑むと、今日はどこかで適当に時間つぶします、と呟いて僕に背中を向ける。
 今からどこか高い場所から身を投げそうな、はたまた寂しさゆえに出会い系にでも連絡を入れそうな彼を見て、僕は焦る。
元、とはいえ、担任を持っていた子どもの保護者なのだ。彼を放っておく訳にはいかない。
 咄嗟に彼の手首をつかんだ僕は「お付き合いします」とだけ言った。
そうすれば、彼の暗かった瞳に少しだけ明かりが灯る。

「ありがとう、先生」

 今にでも泣きそうに瞳を潤ませた彼は儚く笑って、奢るからたくさん飲もう、と言ってくれた。
さすがに保護者に奢ってもらうのはまずいからお断りして、その代わり話を聞くことだけを約束する。
 先を歩く彼の後ろを付いていけば、雰囲気の良い居酒屋にたどりついた。
彼曰く、先日上司に連れてこられて以来気に入って、何度も訪れているらしい。
 暖色系の暖かい雰囲気の店内に入り、二人ともとりあえずビールを注文する。
すぐに出てきた冷たいビールをいきなり一気に飲み干した彼は、次の焼酎を注文してからお勧めの料理を頼んでくれた。

「どれも美味しいから、たくさん食べてください」
「あ、はい。お父さんも、その、あまり飲みすぎないでくださいね?」
「あはは、善処します」

 だなんて言いながら、出てきた水割りをまるで水のように体の中に流し込んでいるものだから、僕は気が気でならない。
大丈夫だろうか、いや、自分の限界くらいなら把握しているだろうし、そもそも大人なんだから他人に迷惑になるような飲み方はしないだろうと、そのときは思っていた。
 飲みながら彼は子どものことを話してくれた。

「あいつですね、連れ子で俺の血なんてこれっぱっちも入ってないんだけど、凄く賢くて、可愛くて、俺のことお父さん、だなんて呼んでくれて……一番の宝物だって言っても過言ではないくらい俺はあいつが大事だった」
「そう思ってもらえて、彼は幸せだったと思いますよ」
「それがさ……いろいろあってさ」

 彼は情けなさそうな顔をしてへにゃりと笑う。
ロックの日本酒に入っている氷をカランカランと鳴らしながら、その水面をずっと見つめて。

「ほんと、幸せだったのにどこで間違ったんだろうなぁ……今日からさ、帰っても誰もいないなんて、寂しい、苦しい、嫌だ」

 ぽつり、と小さく呟いた彼の目元にまた涙がじわりと滲む。
あ、と思ったときには彼の眦からは涙が溢れ出していて、頬の上を流れ落ちていった。

「帰りたくない……」

 何度も小さく呟きながら、彼はくい、と酒を飲み下すとまた新たに酒を注文して。
彼の前に並んでいるグラスの山に僕はもうそろそろ止めたほうがいいのではないかと思い始めていた。
いくらなんでも飲みすぎである。
 居酒屋の女将さんが持ってきたグラスを彼から取り上げてもうそろそろやめておいたほうがいいのではと提案してみたが、彼はそれを寄越せ、と手を彷徨わせる。
たったそれだけの動作なのにこれだけふらふらなんだから、よっぽどだ。

「だめです、帰れなくなりますよ」
「だって、帰りたくないんだ……」

 未だに涙で濡れた瞳で僕を見上げると、僕からグラスを取り上げてぐい、と酒を煽る。
もう止めようが無くて、僕は彼の様子を見守ることしか出来なかった。




続く


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