あなたの手を取って2
事件が起きたのは、保育園閉園前の午後六時五十分だった。
 思いもしなかった人物が、今日お昼寝後に母親に連れて帰られた彼を迎えに来たのである。
それは、彼の父親だった。
 母親が迎えに来ているのだから当然父親である彼には連絡が行っていると思っていたのが。
ひたすら保育室の中をきょろきょろと見渡しているものだから、掃除をしていた僕は彼に声をかけた。

「今日はお母さんがお迎えに来られましたよ」

 それを聞いた彼の動きが一瞬止まる。
と、次の瞬間彼はその場に崩れ落ちた。
びっくりした僕はその場に駆け寄って、彼を抱き起こす。

「どうなさいました、か………」

 そう言って覗き込んだ彼の顔は情けないほどに歪んでいて、びっくりしてしまう。

「お父さん、どうされたんですか……?」

 そう聞けば、彼は弱弱しい笑みを浮かべてぺらり、と一枚の紙を僕に見せてくれた。
薄いその書類を一瞬見ただけで、僕はそれがなんだか分かってしまう。

「離婚……されたんですか?」
「……そう、なんですよ。もともとあの子は妻の連れ子だったので俺に親権が渡ることはないんです。だから、最後に会っておこうと思って、仕事終わってから急いで来たんだけど……」

 相当遅かったですね、と彼は苦笑いをする。
彼と彼の息子が血が繋がっていないことは知っていたが、夫婦が不仲だったとは知らなかった。
 彼は憔悴しきった様子で頭を下げると今までお世話になりました、と小さく呟いて。

「息子の退園手続きは俺が責任もってしますので、また後日お伺いします」

 とだけ言って帰っていた。
 仕事が終わった後に担任保育士に聞いて見れば、先ほど言いかけた内容はそのことだったのだと言われ、おやつの時間のことを思い出す。
あの時は母親に急かされて言えなかったとか。

「可哀想よね、二歳児には理解できないことだから残酷だわ」
「そうですね……彼は、大丈夫でしょうか」

 まだ二歳だというのに、二度も父親から離れるというあまりあってはならない経験をしてしまっている彼の行く末を気にしつつも、僕はもう一人の心配をしていた。
彼の父親だ。
 最後に顔を見ることが出来なかったのはショックだったろうし、これから先、二人が再開できる日は来るのだろうかと自分のことのように苦しい気持ちになる。
 憔悴しきった彼の顔を思い出しながら、僕はエプロンを外した。
さかさまにして畳もうとすれば、ポケットの中から何かが転がり落ちる。
 かさり、と下に落ちた白い紙を拾い上げれば、それはあの子が今日の午前中の自由遊びの時間にくれた手紙だった。
 開いて見てみればかろうじて丸の形を保った顔の中に丸やら点やらたくさん描いてあって。

(せんせの、おかおだよ)

 そう言って笑顔で手渡してくれたのを思い出して少し、涙が滲んだ。






 翌日、彼の父親はまたしても遅い時間に園にやってきた。
退園届けを取りに来たのだという。
 幸い今日も遅番だった僕は彼と話す時間を持つことが出来た。
 保育室で彼の保育用品を渡すと、退園届けとボールペンを渡す。
彼はというと印鑑を取り出してその紙をじい、と見つめた。

「……先生、俺さ、自分の子じゃないけどすっごい可愛かったんだ」
「そう、ですよね……とても、優しい眼差しで見られていたから僕も知っています」
「そっか……」

 眉を下げてそう言った彼は、さらさらと綺麗な文字で退園理由の欄に「家庭の事情のため」と記入すると、印鑑を押して僕に手渡した。

「今までお世話になりました、ご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ、こちらこそお世話になりました」

 ぺこ、と僕も頭を下げる。
こういうときなんて言ったらいいのだろうか、あまり気を落とされないようにして下さい、とか元気を出して、とか言ったほうがいいのだろうか。
 保育用品を持って立ち上がった彼の後を追って、僕も外に出る。
靴を履きながらそういえば、と口を開いた彼は僕のほうを振りかえってずっと聞きたいことがあったんだ、と言った。

「先生さ、北高出身じゃない?それでもって、今二十七歳?」
「……え?なぜご存知なんですか?」
「あ、やっぱり。俺、同級生だったんだ、特進だったのになんで保育士やってんのかなってちょっと気になって」

 ほら、先生顔良いからちょっとした有名人だったし、と笑って言った彼はどうにか元気を出そうと無理して笑っているのが見て取れて、僕の心臓を締め付けた。

「一度だけ委員会が一緒でさ、ほら、美化委員」
「――――っ、あ!」

 そこで僕はようやく思い出す。
あまり接点はなかったものの、いつも気だるそうに第一ボタンを外してネクタイを緩めていた彼。
一緒に美化委員になっていた同じクラスの女の子、確か涼宮さん、だっただろうか。
彼女にいつも振り回されていたような。
 僕が思い出した様子を見た彼は分かっただろ?と首をかしげて言うと、いつか飲みに行こうぜ、と胸ポケットから名刺を取り出して。

「古泉先生……時間があったら連絡くれ」

 同級生と会えるだなんて嬉しくってさ、積もる話もあるし迷惑じゃなかったら、と彼は言うとぺこ、と頭を下げてもう一度お世話になりました、と言うと保育園から出て行った。





続く


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