気づいて10.5
とにかく早くこの場から退散したくて、僕は鞄を机の上に置く。
どこかの喫茶店か何かに入って、ゆっくりと落ち着いて考えたい。
「どうしても、外せないんです」
「それでもだ、後五分くらい待っておけ」
それくらい出来るだろうと、いつもにない真剣な表情で言われて。
僕は仕方がないという風に頷くと、椅子に深く腰掛けた。
なにをそんなに必死に会社に引き留めておく必要があるのだろうか。
僕はレジュメ原稿を手元に手繰り寄せ、パソコンに打ち込みを始めた。
どれだけ打ち込みをしただろうか。
なにやら部署内が騒がしい。
思わぬ来客があったようで、騒ぎ立てている。
どうせ僕には関係ないことだ、とパソコンに向かっていると。
「おーい古泉、嫁さんだよ!」
「え?」
僕は驚いて立ち上がった。
瞬時に彼と目が合う。
どうしたのかと混乱していると、彼はづかづかとこちらに向かって歩いてきた。
なにやら凄い気迫を感じて、ぼくは少しだけ後ずさる。
「ど、したんですか…」
「やっぱり、離れるのは嫌、一緒がいい」
昨晩言っていたこととは全く真逆のことを言ってのけ、彼は僕の前にたった。
周りは好奇の目線で見ている。
中には夫婦喧嘩だ、とにやにやしながら指さす奴もいた。
そんな視線にさえ、彼は動じない。
机の上にあった離婚届を毟り取ると、力任せに破り捨てた。
「何なんですかあなたは!どういうつもり、」
「お前こそ何なんだ!何で俺に嫌がらせ受けてるって何で言わないんだ!」
「…ッ、それは…」
なぜそのことを彼が知っているんだ。
僕はとっさに谷口君に目を向ける。
予想通り、ぱっとそらされた。
やはりか、と僕は谷口君を一回睨みつけるとまた彼に視線を戻した。
彼は未だに険しい表情で僕を睨みつけている。
「俺ってそんなに信頼無いのか?」
「違います、余計な心配かけたくなかったんです」
「気持ちはよく分かるよ、でもお前は俺の立場になって考えたことはあるか?」
その言葉がぐさり、と心に突き刺さった。
彼の言うとおりだ、僕は彼の立場になって考えていない。
隠しておくことが、幸せへの近道だと思っていたのに。
それはどうやら間違いだったようだ。
「ごめんなさい…」
「おれ、は…凄く不安で…!」
表情を歪ませて、彼は切実に訴えてきた。
甘い匂いがしたこと。
夜帰りが遅くて心配したこと。
相手してくれなくて寂しかったこと。
口紅がべったり付いていて、泣きそうだったこと。
たくさん、好きと言って欲しかったこと。
包み隠さず全部話し終わる頃にはお互い涙腺が緩んで、ぐちゃぐちゃの顔になっていた。
「ちょっと、古泉君の奥さんが男って!どういうことなのよ!」
いきなり後ろから甲高い声が響きわたる。
僕が嫌そうな顔をしたのを見て悟ったのだろうか。
彼は僕の前に立ちふさがると、課長を睨みつけた。
続く
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