気づいて8.5
ぱたり、と倒れた彼を見て僕は呆然とした。
気を失った彼をただ、ぼんやりと見つめる。
何を今頃、好きとか、言えるんだ。
嘘でも本当でも聞きたくなかった。
頭が混乱する、彼のそばにいるのがいやで僕は風呂場に逃げ込んだ。
シャワーコックを捻ると、まだ冷たい水が頭から降り注ぐ。
そんなこと、気にならない。
むしろ心地が良いのは、熱くなりすぎた体と頭を冷やしてくれているからだろう。
「もう、うんざりだ…」
こんなにも愛しているのに、こんなにも悲しくて空しい。
心も体も、疲れてしまった。
考えることもやめてしまいたいほどに疲弊している。
壁に手をついたまま、僕は長い間シャワーの下で動けなかった。
しばらくしてはっとした。
だめだ、もう終わったことをうだうだ考えるのはやめにしよう。
風呂から見える空も徐々に明るくなってきて、もう会社に行く支度をしなければ。
先ほどの情事の後が色濃く残る部屋になんて、行きたくないけれど。
そっと部屋の扉を開けると、未だにそのままの状態で倒れ込み、寝息をたてている彼が目にはいる。
するりと入り込み、クローゼットから背広と真新しいシャツを取り出した。
なぜか毎日毎日、新品ではないかと疑いたくなるような真っ白なワイシャツ。
なぜ、こんなものが用意されているのかなんて疑問にも思わず、僕はそれを身につけると。
「行ってきます」
小さな声で呟いた。
「…も、仕事?」
不意に、閉めかけのドアから声が聞こえる。
はっとして、振り返ると眠たそうな目をした彼がこちらを見ていた。
しかし、ここ何週間かで変貌してしまった彼とは全く違う、昔の彼だ。
だって、僕を見て泣きそうな顔はしない。
「ね、古泉…忘れ物…」
ちょいちょい、と手招きされて僕は吸い寄せられるように彼の元へ歩み寄った。
顔を寄せろ、とさらに手招きされて、僕はしゃがみ込んだ。
一体何なんだ、と眉をひそめていると。
突然彼の顔がドアップになって。
唇に暖かいものがふれた。
「あ…?」
「へへっ、いってらっしゃいの、きすー…」
うとうとしながら彼はにこりと笑う。
不意に視界が滲み始めた。
目頭が熱い、焼けるほどに熱い。
頭の奥もじんじんと痛んできた。
そして何より胸が痛い、苦しい。
そんなざまの僕には気づけない、寝ぼけた彼は笑みをたたえたまま。
「いってら、しゃ、い…」
「…いってきます」
いつものようには笑えなかったけれど、精一杯微笑んだところで彼は再び眠りの世界に引きずり込まれた。
早足でリビングに向かう。
乱暴に、僕たちの関係を簡単に終わらせることのできる紙を鞄に突っ込み。
袖で目元をごしごしと拭うと。
僕は我が家を飛び出した。
続く
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