【空】ただ夢を見ていた
いつもと変わらない目覚めだったように思う。
ただもしかしたら、寝過ぎてしまった休日の午後のような、得体の知れない焦燥感を伴っていたかも知れない。
とにかく、ありふれた目覚めだった。
何度か瞬きをして、状況を把握しようとする。
ここは……自分の部屋じゃない。ここはどこだろう。
「……名前?」
白い天井を遮るようにして、誰かが私を覗き込んだ。誰か……っていうか、
「あ、お母さん。えっと、おはよー?」
「おは、よう……名前…っ!
私に覆い被さるようにして泣き出したお母さんに、どうして良いか分からず、私はとりあえずお母さんの背中をさする。
白っぽくて清潔な部屋。消毒液の匂い。ここは……多分、病院だ。でも、どうして私、こんなとこにいるんだろ。
……何も思い出せない。
記憶には、ぽっかりと大きな穴が空いている。空虚の輪郭をそっとなぞりながら、私はただぼんやりと、お母さんのすすり泣く声を聞いていた。
それから、しっかりはっきりと目が覚めてからは、予期せぬ忙しさに寝起きの頭をくらくらさせることになった。
お医者さんが来て色々聞いていったり、スーツの人たちが来てやっぱり色々聞いていったり。
最初は何が何だか分からなかったけど、話をしていくうちに少しずつ理解していった。
どうやら私は、数年単位で行方不明になっていたらしい。
とんでもねーな。
そりゃ全国ニュースにもなるわ。
そんな大事になっていたとはつゆ知らず、私は呑気に……
「……呑気に、何してたんだっけ」
自販機で買った紙パックのジュースを飲みながら、ひとり呟く。
お医者さんに何を聞かれても、スーツの人たち(多分、警察の人とか)に何を聞かれても、もちろんお母さんやお父さんに何を聞かれても、さっぱり何も思い出せなかった。
行方不明の間、どこにいたのか?何をしていたのか?どうやって帰って来たのか?などなど……なにひとつとして。
一応、今現在の健康状態は良好らしい。骨折の痕があるとか、かなり衰弱していたとか、色々物騒なことは言われたけど、それすらイマイチ実感がない。
「でも、よく思い出せないなりに、嫌なこととかはあんまりなかったなあーって気がするんデスよねえ。割と楽しかったというか、どっかでのんびり暮らしてたんじゃないかなあ、多分」
「本当?お母さんたちに心配かけまいとして、嘘を言ってない?」
「あなたの娘は、そういう殊勝なタイプの子じゃないでしょ」
「それもそうね」
「いや納得するんかい!」
勢いよく突っ込むと、お母さんは笑って、それから泣いた。私の目が覚めてから、お母さんは泣いてばかりだ。
……それもそうか。何年も行方不明だった娘が、五体満足でひょっこり帰ってきたんだから。
話によると、私は自分の部屋に居たはずが忽然と居なくなり、それからまた自分の部屋で倒れていたところを発見されたらしい。
「心臓が止まるかと思った」と泣き笑うお母さんに「ごめんなさい」と頭を下げると、謝る必要はないと言って撫でられた。
夕方になって、病院の面会時間が終わって、病室には私一人きり。
ベッドから降りて、すっかり夜の帳の降りた窓へ近付く。カーテンを閉めようと手を伸ばすと、窓ガラスに映り込んだ自分と目が合った。
ひどく、悲しそうな顔をしている。
久しぶりの実感が全くないとはいえ、とにかく久しぶりに家族に会えたんだし、困惑こそすれど確かに嬉しいはずなのに。
それなのにどうして私は、こんなに泣き出しそうな顔をしてるんだろう。
……何も分からない。何も分からないことが、悲しくてたまらない。
「……どんな夢を見てたんですか?」
ガラスの中の自分に問い掛ける。
――忘れたままで良い。
頭の中で誰かに、優しく諭された気がした。
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