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涙霞




雲ひとつない青空が広がっている

沙慈は牧草の上に大の字になって横たわっていた

牧草の匂いに混じって、風が運ぶ山からの樹々の新芽の香りもする

遠くで馬のいななきが聞こえた

身体を起こすと、さっきまで横にいたルイスが牧場の柵の近くで馬と戯(たわむ)れていた

沙慈は大声でルイスの名を呼んだ

しかし聞こえないのか、ルイスは振り返ろうとはしなかった

ルイスが馬の背に乗った

しかしよく見るとそのルイスの姿は三年前、アロウズに入ったばかりの時のルイスだった

濃い緑を遇(あしら)った軍服を着ている

沙慈はもう一度大声でルイスの名を呼んだ

その時、ルイスを乗せた馬が突然走り出した

ルイスが悲鳴を上げている

沙慈は必死で馬とルイスを追った

しかし足は空回りするように動かなかった

見る見るうちに、ルイスを乗せた馬が山裾のほうに小さくなってゆく




ルイスの名を絶叫した時、沙慈は目を覚ました

運転席のローラが振り返った

「夢……か」

「そうですか。誰か、女性の名を叫んでましたよ」

皮肉っぽく言って、ローラがヘッドライトの先の暗い道路に目を戻した

車の窓を少し開けた

吹き込んできた風に潮の香りが含まれている

そろそろカンノザキだろう

時計を見ると十一時半になろうとしていた

窓を閉め、痛む唇の端をそっと指先で押さえる

端が妙にヒリヒリした

身体を動かした時、脇腹の上に鈍痛が走った

痛みはさらに酷くなっている

車に乗った時、顔の傷を見てもローラは何も訊(き)こうとはしなかった

無言のローラに、沙慈も口を閉じた

空港の脇を走っていた記憶はある

眠りに落ちたのはその辺りからだろう

「着きました」

ぶっきらぼうに言って、ローラが車を止めた

道路灯の明かりに浮かぶ光景に見憶えがあった

車を出て後ろに目をやると、五十メートルほど離れた所に灯(あか)りを点けたままの車が一台駐(と)まっていた

「さすがに寒いね」

肩を並べたローラに、と言うより呟くように沙慈は口にした

沙慈もローラも、コートは着ずにスーツ姿のままだった

左手遥か先に、煌々(こうこう)と光る密集した明かりがある

多分ヨコハマ界隈の街の灯りだろう

目の前に広がる海は、ただ黒い塊が横たわっているようで、時々走る灯台の明かりで初めてそれが海であるのが分かるほどだ

黙って海のほうに目をやっていたローラがスーツの襟を立て、ぼそりと言った

「わざわざここまで来たのは、何か話があったからでしょう?」

「コートを取ってきてくれませんか」

立っているだけで冷や汗が出てくるほどの脇腹の痛みだった

それを微塵も見せずに、ローラに目をやる

頷(うなず)いたローラが車から沙慈のコートと自分のとを持ってくる

袖を通そうとした時、脇腹に激痛が走った

それを見て、初めてローラは沙慈の身体の異常に気づいたようだった

「どうしたんですか?」

「こうされて当然のことを告白して、こうされただけのことです」

袖を通す沙慈の身体をローラが支えてくれた

ローラは何も聞かない

沙慈も何も言おうとはしない

「ありがとう」

「いいえ、仕事ですから」

「仕事じゃなければついて来てくれなかったの?」

苦笑した沙慈から手を放し、ローラもコートを着た

「それで…私に用件とはなんですか?」

「君に話しておきたいことがあるんだ」

沈鬱(ちんうつ)な面持ちで話を続ける沙慈の顔を、彼女は苦い反応をし窺(うかが)う

「話?」

「うん、二つだけ」

「具体的にお願いします」

具体的にと言ったが、ゴホゴホと咳込む沙慈の説明は至ってシンプルだった

「ひとつはガンダム襲撃事件のこと」

ローラの眉がピクリと動く

「もうひとつはアロウズについて」

「…アロウズ」

独立治安維持部隊アロウズ

治安維持とは名目上だけで、実際は悪政と謳(うた)われる世界を束ねてる気になっている烏合(うごう)の衆だ

「民間人を襲撃したガンダム。だがあれは似て異なるものだ」

「異なる?」

「この事件にソレスタルビーイングは一切関与していない」

「どうして分かるのです?」

沙慈のその一言に、ソレスタルビーイングの存在を復讐の糧として生きてきたローラは怪訝な表情を向ける

「僕がソレスタルビーイングの元へいた時に調べたんだ。襲撃したのはガンダムスローネの中の一機、スローネドライ。当時スローネは三機とも擬似太陽炉を搭載していた」

「つまりその件に関してソレスタルビーイングは一切関与してないってことですか?」

「分かりやすく言うと…、そういうことになるね」

話をする沙慈の声はさりげなく、柔らかい

「そんなの……ただの言い訳よ」

突っかかるような物言いに沙慈は苦笑する

「実際…私の両親はソレスタルビーイングに殺されたようなもの」

ローラの中では怒りが渦巻いていて、何かのきっかけがあれば噴(ふ)き出して荒れ狂いそうになる

「私はまだ許せないわ…ソレスタルビーイングを」

燻(くすぶ)る怒りを抱えこむローラに沙慈はただ深く息をつく

「話を続けよう。二つ目はアロウズについて」

ローラは憮然(ぶぜん)として黙る

「この際だからはっきり言っておく。ローラ、そこから今すぐ離れた方がいい」

「どうしてです?」

「リボンズ・アルマーク」

思いがけない名を出してきた沙慈に戸惑う

「勿論、君も知ってる名だよね」

知ってるも何もローラはリボンズに誘(いざな)われてアロウズに入隊したのだ

イノベイターに関わりを持つ人間ならば、知らないはずがない

「彼は君を彼等の仲間と同類にするつもりだよ」

沙慈は構えたところのない、飾らない口調で続ける

「言っている意味がよく分からないのですが」

「だからね、彼の坩堝(るつぼ)にまんまとハマったってこと。恰好の餌食ってワケ」

「そんな事……」

ローラの心にふと、不安が忍び込む

「現に彼は世界にしか目を向けていないし他の物には大して興味は無い」

だが、改めて考えてみてもリボンズについて行ったことが間違っているとは思えなかった

それとも――間違っているのに自分にはそれが分からないのだろうか

いや、自分は間違っていない

リボンズが救いの手を差し延べてくれた手を取り、家族の仇を討つ為アロウズに入隊したことの何がいけないと言うのだ?

ローラは不安を押し殺し、敢えて意固地に胸を張った

「確かに貴方の言うことは的を得ている。でも、もう私には選択肢なんて残されていない」

真正面から沙慈の目を見据(みす)える

彼の目が翳(かげ)った

「僕としては一緒について来てほしい」

「どうしてそう思うんです?」

「君が変わってるようでちっとも変わってないからさ」

沙慈の言い方にローラはもどかしいような怒りを覚える

「私は変わりました。少なくとも五年前の自分よりは」

「結局、僕の願いを聞き入れてはくれないんだね」

沙慈はこちらの心の奥まで見透かすような目で、ローラを見つめる

「君と二人で…。そうどこか静かな場所で穏やかに暮らしたい」

天を仰ぎ夢物語を描く

「どうせだったら海辺がいいな。真っ白なオープンテラスがある家で」

夢は微睡む暇さえ与えてはくれず、時は優しいだけの痛みを日々この身に焼印を呉れる

「笑ったり喜んだり。時には、怒ったり泣いたり」

空の碧を疑った過去をそっと目蓋の裏に映しながら、進む足は留まる事を知らず、風の流れるままに明日へと向かってゆく

「そんな幸せをいつも夢見ていたよ」

その目の奥に漂う感情に、ローラは戸惑う

「ルイス」

「沙慈……」

いきなり視界が百八十度回転したかのようだ

「知らないふりしてたの?」

ルイスの微弱な声音に沙慈は黙って頷いた

「最初から知ってたよ。ローラ・カレイソンがルイス・ハレヴィだってことも」

与えるものを持たぬ指

壊すためだけにある爪先


それでも一度触れた優しさを忘れられるはずがないのだ

「もう引き返せないし戻れもしないってことも…」

まだ見ぬルイスを探して還りたい――

そんなことを考える自分の愚考さに嗤(わら)う

「これは僕からのささやかな忠告。後は君の好きなようにすればいい」

歪む地平線に夜を浮かべたならば私はいつか救われるかもしれない

「話は終わり。これだけは君に伝えておきたかった」

死の上を歩くというのに、首謀者が虚言の隙間に呑み込まれそうになるのも実に滑稽な話だ

「それで……貴方は?」

余計な詮索をされない様、ルイスは努(つと)めて平常心を装(よそお)い素っ気なく聞く

「沙慈はこれからどうするの?」

「なにもかも終わったら、しばらく日本を留守にするつもり。ひとりになってゆっくり考えてみたい」

「そうですか……」

じっと海を見つめていたローラが、聞こえるか聞こえないかの声で訊いた

「まさか、死ぬというんじゃないでしょうね」

「僕が命を絶てば、君も同じことをするって言うんでしょう?」

沙慈は小さく笑った

「忘れないでくれればけっこうです」

背後で蠢(とどろ)く絶望を忘れたわけではあるまい

「ねぇルイス」

「何?」

「指輪、まだ持ってる?」

「捨てました」

哀切めいた表情を目にして、彼女の胸の奥にある罪悪感が微かに疼(うず)く

「それか、どこかに落としたか無くしちゃったかもしれません」

ルイスは嘆息混じりで小さく肩を竦(すく)めながら答える

「持っててくれているんだね」

ヨコハマの夜景から視線を転じて、ローラに目をやった

「嘘よ…全部嘘………」

ローラの頬に光るものがあるのを見て、沙慈は再び夜景に視線を戻した

「捨てられるわけ……ないじゃない……」

「ルイス」

沙慈は感情の赴くままルイスの腕を引き寄せ、固く抱きしめた

彼女も沙慈の背中に縋りつく

ルイスの小さな肩が小刻みに震えていたのを沙慈は見逃さなかった

切ない感傷を捨てて、ただ哀だけを両手で包み込んで、わたしはあなたの体温に想いを馳せる

嗚呼、愚かと云わないで

これが愛しむと言う事なのだから

ルイスの胸に古い埋(うず)み火がまた燃え上がる

「聞かせて。なぜ貴方は生きなければならなかったの?」

そう聞くと沙慈は黙ってコートの上から青いシャツの袖をめくる

よく見ると沙慈の左腕には咎人の烙印が刻まれていた

人の血を絞って作った金で生きていた

理解を超えた、肌が粟(あわ)立つような気持ち悪さ

焔は咎、土は贖罪

交錯する、罪跡

「じゃあ……」

一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したあとルイスが喉を詰まらせながら言った

「じゃあ、死ねないね」

沙慈はルイスに目をやった

濡らした頬をなぞるように、ルイスの目からは涙が零れ落ちていた

「それは、ローラじゃなくルイスに言いたいことだ。君はこの世で一人ぼっちなんかじゃない。そのことだけは、今日ルイスに教えておきたかった」

諭すように言うと、ルイスの頬に光るものがあるのを見て、沙慈は彼女を優しく抱きしめたまま再び夜景に視線を戻した



涙霞



(私達は一蓮托生の身、二人で一緒に地獄を見るの)



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