レイン・オブ・テラー『望むな、安らかな死を』
静かな夜だった。
誰も知らない。
郊外から離れたこの田舎の贅をこらした有力者の屋敷が、間もなく死と混乱に満ちている事を。
堅個な鉄の門の前にアサルトライフルを携えた二人の男、互いの眠気をこらす為に話し込んでいる。
「…あの変態旦那は今夜もお楽しみの様子だな。
チッ、オレたちはこんな寒い中サッカー中継も観れずに、野郎二人で健気に仕事をしてるのによ」
「これが終わればいくらでもプッタ(※娼婦)を抱けるさ。
それにお下がりだが旦那が、あの女を俺達にくれるかもしれねぇだろ?」
「ああ、ありゃあいい女だ。
あのうなじ見たか?ふるい付きたくなる肌だったぜ。
あの肉厚の唇、たまんねぇよな。あれでオレのをしゃぶりつかれて舐めつくされたら………っ。ああ、そうしよう。
それで他の野郎達より誰より先にあの可愛らしい顔をオレの精液で他の奴等がぶっかける気も失せるくらい汚してやる……っ。
しっかし、気の毒なこった。
親が金の払えねぇクズなばかりによ」
「まぁ、あんな親が大量にいるから、オレ達はおいしい思いが毎回出来るんじゃあねーか」
「…残念だが」
男の肩に触れる手。
何も気配も足音もしなかったそれに、慌てて振り返ろうとする。
だが急に手にかかるライフルの重みと、何か枯れ木の割れたような音…それが自分の腕と足首が折れた音だと気付いた時には、身体から力が入らずしゃがみ込んでしまった。
よく見えない視界で見えたのは、相棒の泣き出しグシャグシャになった顔。
しきりに自分に向かって、指をさしながら後退りをしている。
自分の真横から伸びるスタームルガー(※発射時の爆発音が小さく、暗殺に適した小型の銃)を握ったスーツに包まれた腕。
「…もう女の肌には触れられねぇ」
衝撃でそれは一瞬ゆらぎ、サイレンサーによって限りなく小さくなった銃声、仲間の頭に一点の穴があき、血が一筋こぼれていた。
状況を把握する前に、肩を激しく地面に叩きつけられ、カチャリという音と共に己の口の中に何かが突っ込まれる。
「たまには、テメエがしゃぶったらどうだ?」
己の口に押し込まれたそれが拳銃だと言うのに気付き、血走った眼を開き、潰れた声で喚く。
「きっと興奮するぜ」
迫り来る死の足音。逃げる術は、ない。
無慈悲に発射された銃弾は、男の口頭を真っ直ぐ貫くと脳幹を破壊し、脳髄をぶちまけさせて、地に灰色と赤の染みを作る。
「…どうだ?天にも昇る心地じゃねえか?」
銃口の血をハンカチで拭いながら、死体を見下ろす彼は皮肉の混じった笑みをニッと浮かべた。
「…ああ、違ぇか。
昇るんじゃねえ。
落ちるんだ、地獄に、な…」
…ツー・ツー・ツー………………。
最初に仕留めた男の胸元から、通信機の呼び出し音が鳴るのを耳にする。
それを手に取り、通話ボタンを押せば、仲間の上司らしいかさついた男の声がする。
「…どうだァ様子は?」
(数はそこそこ……、…だが酔ってる…かなりの具合で…。サッカー中継………大音響でかけてやがる……………。
……おめでたい奴等だ…油断しやがって……、主人が寝返られたとは、微塵も思っちゃあいねえのか…………)
相手の背後から聞こえる音と話し声から様子を大体推測すると、彼は口に手をあて何度か咳き込み通話口に唇を寄せる。
「『…変わらない。
普段通り、同じだ』」
あの見張りと全く同じ声を発して。
諜報活動もしていた事がある。
筆跡を変えて文章を偽造する事も、こうして声を変えて相手を騙す事も、彼にはとても容易かったのだ。
それから間もなくして。
月明かりだけが照らす豪奢な部屋に、彼はたどり着いていた。
乱れた寝具の際立つオーク材のベッド。
オートクチュールのスーツ、絹のスカーフ、引き裂かれた真紅のドレス、黒い艶やかなハイヒール、宝石の散りばめられたネックレス、濡れた下着、血のこびりついた鎖、それが無造作に散らばっている。
事後の男女の匂い。その中には血の香りも混じる。
かすかに聞こえる女のすすり泣く声。
それ以外は静寂。
ジャガード織りの絨毯にワインボトルが転がり、その中身は零れている。闇の中で絨毯に広がるそれは、キリストの血のように。
この部屋の主、くぐもった男の声に今は誰も気づかない。
といっても、扉の向こうに控えていた男達は既に事切れていたのだが。
ナイトガウンを中途半端にはだけさせ、顔半分を屈強な力で掴まれたまま壁に押し付けられ、何も出来ず呻く中年の男。
彼こそこの屋敷の主人、ターゲット本人だった。
「(何だ……なんだ…………っ!
どうなってるんだ、私は…。
力が…出な…い…、
眼が…かすむ…………、
耳が……音が……聞こえない…
歯か…歯なのか…………
この手も………私の、私の手は……こんな枯れ木のようだったか?
足元のは……私の髪?……こんなに白かったか…………?こんなに乾いていたか……っ!
私は、
一体
どうなってるんだ!!!)」
男の恐怖に歪んだ顔。
その顔の鼻より下半分を覆う右手は、いくら暴れても決して力を緩めない。
その手は、磁器を思わせる滑らかさで月の光に淡く照らされている。
芸術品を思わせる繊細な指先から視線を移せば、冷たく輝く暗殺者の双眸。
深い海の底をたたえる青い瞳の男。
月光に照らされるその男は、恐ろしく人間離れした雰囲気を醸し出していた。
「…どうやらテメエの死に顔も、美しくねぇようだな…」
男…プロシュートが忌々しげに呟くと、彼は己の腕に、グレイトフルデッドの多数の目玉が光る腕をダブらせて能力を全開にする。
「……………ぁああッッ………ウッ……………ァぁあァ…………!!!」
腹をぶるぶると震わせ、くぐもった悲鳴をあげた男は、乾いていく身体をがくがく痙攣させる。
更に乾ききった唇の端からは、泡だった唾液が黄色い汁と共に吹き出し、眼を剥いて心臓を抑えて苦しみ出す。
断末魔の苦しみに、老人とは思えない力で暴れて足をばたつかせても、プロシュートは凍てついた眼で、掴む手に更に力を込めて壁に押しつける。
そうするうちに男は、ばたつかせた足をピクリと止めると、糸が切れた人形の動きで崩れ落ちた。
男は苦しみながら死んだ。
生きたまま一瞬のうちに更に何十年もの月日を過ぎ去らせて。
水気の失われた皮のこびりつく骸骨に近い姿は、手を離せば、前のめりに倒れ叩き付けられる。
それを蹴り飛ばして、グレイトフルデッドを解除すれば、苦悶の表情を浮かべた以外は、元の姿に戻った男。
外傷はない。
死因は心臓発作だと誰もが認めるだろう。
…30年後に迎える死に様をほんの少し早めただけだが。
己の手の汚れをぬぐうと、男のひきつった死に顔を小型カメラに写し証拠写真を撮る。
それを胸ポケットにしまい、立ち去ろうとした、その時だった。
「…あなたは…………天使様?」
不意に澄んだ声が響いた。静かに顔を向ければ、裸の少女が暗闇の中で立ち尽くしていた。
白い裸身には、いくつもの噛み傷、鬱血の痕が刻まれ、白濁した液体で汚された痩せた腹の下を伸びる二本の足の間から流れる赤と白。
彼女は真っ赤になった目元を潤ませて、虚ろな眼でプロシュートを見つめている。
おそらく入口の見張りが話していた少女は彼女のことだろう。
その様子に敵ではないと判断した彼は、片目をしかめ近づき、少女の顔を覗き込む。
「…違うと言ったら、
どうだ?
翼なんか生えてやしねえだろ?」
そう聞けば、少女は激しく首を振る。髪がたなびき、目をぎゅっと閉じながら否定するその動作は、成熟した体とひどくアンバランスで、妙に幼さを感じるものだった。
…妹を思い出した。
その嫌がる仕草も、その壊れてしまいそうな儚くたよりのない雰囲気も。
「いいえ、いいえ。
貴方はそんなに綺麗なんだもの……天使様に決まってる。
だって、貴方は、その悪魔を殺してくれた……………、
私を………、…地獄にっ、落としたこの悪魔を……っ……!」
うつむき嗚咽を漏らす少女。
その首にぶら下げた銀のロザリオを強く握り、その握りしめすぎた手からは血がこぼれる。
「……選びな」
プロシュートは、足元に落ちていた彼女のものらしきコートを拾い、それを少女の身体にかけてやりながら、反して感情のこもらない声で少女に問いかける。
「…このままこの場で死ぬか、オレを見なかった事にして、走って逃げて永遠に今夜の事を忘れるか…。
本来はお前も殺すべきだが、単なるオレの気紛れだ。お前はオレの知り合いに似ている。
それだけだ。
だが、早く決めねぇと、気が変わるかもしれねぇがな」
コートに包まれ、自分自身を彼女は抱きしめる。
その震える唇から出た言葉は…
「……殺して、ください」
死の望みだった。
顔をグシャグシャにし、半ば狂いそうに身体をかきむしりながら、少女は叫ぶ。
「私は両親に売られた……。
愛していたのに。愛している、お前は必ず守ると言ったのに!
裏切られた
その瞬間に私は死んだ。死んでしまったの。
この悪魔に身体を奪われて、何も出来ずに誇りも奪われた………ッ、何度も犯されたッ。
叫んだら口の中に汚らわしいアイツのものをくわえさせられたッ。
やめてって言ったのに、中に出された!何度も!何度も何度も何度も!
あんなにされたら、子供が出来るわ…………っ、あの悪魔の………………いやっ、たえられないっ。
今……ここから逃げてもツテのない私が生きていくのに、身体を売るしかない…。
小さな子を押し退けてごみ溜めから残飯を漁らなくちゃならない……。
そんな事して…まで………生きたくない。
私は…………そこまで、強くない…………醜く生きたくない…っ。
……私は……これ以上汚れたくない。……遠くなってしまう……御元に召されなくなる………………っ。
だから、お願い………殺して……」
少女の頬を両手で包み、瞳を見つめる。
…それは、凍えきった天使の涙。
空虚。
絶望の闇。
死への憧れ
それだけ、だった。
何も残らない。
助けても無駄だと語る瞳。
彼女の死への堅い決意。確かに心で理解した。
「…そうか。
なら、眼を閉じな」
「はい………。
あの、一つだけ聞いて…」
「いいぜ、言ってみろ」
「ねえ…お願い天使様。
…キスをして、祝福の………っ」
言い終わるか言い終わらない前に、彼女の望みは叶えられた。
腰を引き寄せられ、唇をやわらかく食むように覆われると、後頭部を軽く抑えられ、甘く何度も優しく口付けられる。
ジンとした頭の痺れに少女が涙を溢し幸せそうに笑うと、プロシュートは少女の細い指を己の手で包むと、己の胸にその可憐な顔を埋めさせた。
(『グレイトフル・デッド』)
「あ…………あっ……………」
握られた手が瑞々しさを失う。
怖くないように彼が静かに撫でる背中はかすかに震え、その赤く艶やかな髪は、ゆっくりと白く変わっていく。
いつの間にか彼の背中に少女の片腕が周り、しっかりと抱き締めていた。
少女の顔は、彼なりの配慮だろう。
彼の首元に隠され、自分の老いた姿が分からないように抱き締められていた。
胸の鼓動がゆるやかに、刻むのを止めていく。
しがみついた老いた身体は力を失い、ゆっくりと倒れていく。
彼はその身体をそっと支えると、壊れ物を扱う手付きで床に横たえさせてやる。
そうして彼女は死んだ。
先ほどの男と違い、少しも苦しまずに安らかな老衰によって、死後の希望と死への幸福を心に満たして。
長い白くなった髪から見えるその表情は、薄く笑みを浮かべていた。
その指を胸に組ませてから再び唇に口付けると、能力を解いて、少女を元の美しい姿に戻してやる。
「…ああ、お前の死に顔は美しいな…」
そう言って、彼はやわらかく微笑んだ。
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