プリンセス・オブ・フォーリン5
桃子をお嬢と慕い、なにかにつけては彼女の周りをグルリと囲む若いモン達。
「いいか、テメエら。
俺の命はコイツの命!!
同じものだと思えッ!」
彼らは組長の草薙桜仁郎からの孫を守れという言葉を忠実に守り、大事な組長の孫娘に悪い虫がつかないように、これまでなら桃子に近づこうとする男を怒鳴りつけては、相手の態度が悪質ならば
「テメエこの野郎!!
お嬢に近づくなんざ一万年早えんだよッ!!」
沢山サンドバッグを扱うよう可愛がってやり、下着一丁にして門の外へ放り出したものだ。
自分たちは腕に自信もあった。
だが、彼等の失敗は、目の前の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた相手である金髪の外国人の男プロシュートを見た目だけで判断してしまった事だ。
いや、こんな事、この日本という平和ボケした国に住む人間には思いもよらない。
「『随分手厚い歓迎じゃねえか…嬉しくて涙が出そうだぜ』」
まさか、ただの桃子へナンパしたように見える優男。その本性がイタリアで一二を争う組織パッショーネに所属するマフィアであり、更に凄腕の暗殺者である事を。
胸ぐらを掴まれて怒鳴られれば、挨拶がわりとばかりに鳩尾に拳を抉りこませるのがこの優男の通常スタイルであるのも。
まさか誰も思いはしないだろう。
それは掴み上げた時の勢いで彼のシャツのボタンがひとつ弾け飛んで、庭の池にぽちゃんと音を立てて落ちた、その一瞬のうちに起きた。
ブンッ!!
胸ぐらを掴んでいた角刈り頭の春雨という男は、その細腕の外国人が自分の腕を掴んだ瞬間に、ゴリッと万力で挟まれたような異常な握力で腕を捻じ上げられ、190cm越えのそれなりの重さの自分の身体が軽々と宙に浮いたのを感じた途端、
ドッゴォオオオオオオンッ!!!!
腹にフルスイングで重石を殴りつけられたような衝撃を受けて池の中に叩き落とされていた。
何が起きたか分からず呆けた水浸しの春雨のもとへカツカツ近寄る足跡。
視線を向ければ、あの男が自分の仲間2人の首を掴んで持ち上げたままやって来るところだった。
男の右手と左手には、仲間がそれぞれ白目を剥いたままぶら下がっている。
よく見れば自分の周囲でも、何人かが気絶して転がる姿が確認できた。
絶句する周りと春雨の様子に満足げに男がハンッ!と憎々しく笑うと、掴んでいた2人をそこら辺に生ゴミを捨てる勢いで放り投げる。
そして彼は楽しそうにさあ散歩にでも行くかというような軽いノリで、ギラギラした目つきで春雨を見下ろし、英語ではない早口の言葉でこう言った。
それは言った本人しか分からないが、大体こんなことを言っていたのだ。
「『Alea iacta est アーレア・ヤクタ・エスト(賽は投げられた)』だぜ。
起きてこい、クソ野朗…。
ちょうどいい、準備運動だ。
オレァ飛行機でおとなしく座ってたせいで足腰がバキバキでよ。鬱憤が溜まってた矢先で誰かにぶつけてやろうかと思ってたんだ。
売られた喧嘩は買う主義でな…元々血の気なら釣りが出るくらい有り余ってんだ。
売値の倍以上で買ってやる。嬉しいだろ?泣いて喜びやがれ。
なあおい?なにボンヤリしてやがるんだ?
こんな細っこい腕の男がまさかやり返すなんて思ってもいなかったのか?随分おめでたいヤツらだ。
さっきぶん投げた感じとその反応みる限りじゃあ、どうやらオメーの脳みそから身体の芯まで立派な発泡スチロールで出来てやがるみてえだな。
池にプカプカプカプカ浮かびやがって…ったく邪魔くせえ!自然の景観が乱れちまうだろうがっ!とっとと上がってきやがれッ!
このオレが直々に真っ二つに圧し折ってリサイクルゴミに出してやるぜッ!!!」
何を言ってるかはわからない。だが春雨はこのやたらキラキラした俳優から猛獣に変化した男の目付きに、自分は目の前の男の力を見くびっていたとようやく理解した。
だが、ここで負けを認めるわけにはいかない。
桃子を自分たちは守らなくてはならない。この胡散臭い男から。
「テメエら!!
油断するんじゃねえッ!!!
こいつを捕まえろ!!」
そう叫んで、池から飛び起きると、再びプロシュートに向かって襲いかかっていった。
(オレの蹴りをくらってゲロを吐かねぇのはリゾット以来か…なかなか骨がある野郎だ)
プロシュートからしたら角刈り頭には肋(あばら)を数本いかれるぐらいの気持ちで手加減した蹴りをくれてやったが、常人なら胃液と涙と鼻汁を一気に吐き出すレベルの威力がある。
それでもなお怯まない春雨の様子が気に入ったのか、プロシュートは片目を細めて麗しく笑うと、コートを素早く脱いで戦闘態勢を整えた。
任務前で誰にも手の内をみせたくないのと、この冬空の下、体温によって老化のスピードの決まるグレイトフルデッドをその場に出すつもりはない。
とっとと蹴りをつけて相手を動けなくしたら、自分のボタンを回収して、さっさと帰るつもりだった。
それに自分のスタンドを出すのはつまり…。
プロシュートはちらりと桃子を目にした。
プロシュートは瞬時に相手をどれくらい潰してしまおうか決めている。
例えば車に乗ろうとして
『動くんじゃあねえ…そのまま両手を上にあげな』
と後頭部に銃を突きつけられれば、振り向きざまに相手の眉間に車のキーをぶっ刺して息の根を止めると、
『悪いな、デートの誘いは先約済みでな』
と軽口をたたくように。
そうして今回さっさとこのいくら痛めつけてもしつこく食いつくにちがいない目の前の男達を殺さずに戦闘不能にするには、と彼が考えたのは。
相手の1人が自分に振り下ろしてきた拳を右手でブロックして、相手の手首をガッシリ掴み、自分の方へグイッと引っ張り寄せて体勢を崩させると、スキが出て剥き出しになった顎に向かって掌底をくらわせて脳震盪を起こさせる。
「テメエー!このメリケン野郎!チョコマカ逃げやがって!」
組み掛かろうと伸ばす何本もの腕を避けきって顎や喉に一撃を与えて失神させる。
「オメエら!コイツの真正面にたつな!!
場慣れしてやがるッ。
一気にせめねえとやられちまうぞ!」
殺すなら簡単だ。
急所もスキもすぐにつけるが、今は勝手が違う。
動けなくするのが目的だ。
そう簡単にはいかない春雨や他の数人には合間に彼らの顔に少しずつダメージを蓄積させながらも、わざと彼らを疲れさせる。
その間のプロシュートも疲労がたまるが、相手を怒らせる為なら構わない。
そうして、相手がだんだん怒りと焦りと疲れで顔を真っ赤にして、はあはあ息を吐き出したらこちらのものだ。
プロシュートは突然ジャケットを脱ぐと、彼に突進してきた男の頭にバサリとかぶせながら背後に回り込み、むき出しになっている相手の首をガッシリと掴み、
(『グレイトフルデッドッ』)
直触りをくらわせてやった。
「…ッ!」
「な、なんだっ!おいっ、玄米(くろべ)が急にぶっ倒れちまった!!」
ばたりと顔にジャケットをかぶったまま襲いかかった男は倒れ、他の人間からは何が起きたかわからないまま、男の体はプロシュートの真っ直ぐに振り下ろしたエルボーにより地面に叩きつけられる。
次の相手がくる前に、彼は相手の顔に巻いたジャケットをはがす時にはスタンドはすぐに解除していたので、傍目からみればいきなり気絶したように見えるだろう。
(さて、とっととやっちまうか)
そうして警戒心の強い春雨以外の者をプロシュートは同じような手を使って、手早く片付けていった。
『我は至高にして誇り高き貴婦人の構え
すべての攻撃を打ち破るもの
そして我が守りは汝を切り裂く
汝がすべきことは一つ、我よりも長き剣で戦うことのみ』
中世の武術書に書かれた14世紀後半の剣士フィオーレ・ディ・ヴィエーリの説く戦いの韻文。
「いいか、プロシュート。
これは古くから残されたものだが、黴の生えた遺物だと馬鹿にしてはならない。
過去から今まで生き残るものには、現在の我々に通じる不変の教えが込められているのだ。
心に刻みつけろ。
感じ方はお前の思うがままでいい。
過去の賢人の言葉はやがてお前を形作るだろう」
プロシュートがパッショーネに入った幼き頃に、親代わりとなり彼を教育したあの幹部の老人が教えた言葉を彼は今でも覚えている。
この韻文自体はロングソードの構えの秘技を弟子に伝える為に記述された物だ。
だが、構えとは心構えへと繋がる。
この「憤怒の構え」と別名を持つ言葉をいつしかプロシュートは己の生き方に重ねて、共に妹を思い出す。
そして何が1番大切なのかを考えるようにもなった。
ただのボタンと言われるだろう。
失くしたと知ってもたとえ妹は
『お兄ちゃんの身代わりになってくれたんだよ!』
と言うだろう。
それでも、どうしてもそのボタンを探さずにはいられなかった。
パッショーネのうわべだけの付き合いで贈られたものよりも、女たちから甘い言葉と下心と共に渡されたものとは比べものにならない。
銀よりも黄金よりも宝石よりも勝れる物。
ただ1人の彼の家族、彼の生きる幸福の証には。
「ああ、もう…っ、プロシュートさんもみんなも何やってるの…!」
桃子は目の前のプロシュートと若いもん達の大乱闘に途方に暮れていた。
この郊外の坂道の上にたつ自分の家は、広大な敷地で無駄に広く、隣家に行くのもかなりの距離があり、こんな騒ぎも気づかれはしない。
桃子が何とか警察を呼ぼうとして電話をするのに家に行きたくても、いったん誰かに助けを求めようと外へ行こうともしても、プロシュートに殴り飛ばされ吹っ飛んでくる若衆たちや、色んなものがビュンビュン飛び交うので、今の彼女はかろうじて庭石の後ろに隠れて事の次第を見守るのがやっとだ。
(この人、絶対かたぎじゃない!!)
夢の中でプロシュートが逃げ出そうとする自分を捕まえた身のこなしや、彼女が日本刀で切りかかったのを彼が掴み取った時から、薄々そう思っていたが、今こうして確信した。
こんなに最小限の所作で素早く動くなんて思わなかった。
片手で殴ってくる拳を簡単に受け止めて、カウンターで相手を殴り飛ばす拳は重すぎる。
彼が腕を振りかざす度に誰かが吹っ飛ばされる。
あんなにさっきまで食事をした時は、エグゼクティブの階級の人々のような完璧な所作でナイフとフォークを扱っていたのに、今は春雨にむかって馬鹿にするよう笑って頭突きをくらわせるこの男は本当に同一人物なのか。
(ああ、どうしよう。
みんな頭に血が上ってるからいくら言っても話を聞いてくれないわ…。
でも、プロシュートさんもあんなに怒っているんだから、きっと耳を貸してくれない…)
その時だ。
桃子の目の前に、アメジスト色にキラキラと輝くバイオレット・ヒルが一羽と現れたのは。
「え?どうしてここに…?!」
桃子は思いもよらず現れた淡い光に包まれた紫の蝶に戸惑う。
普段は自分が意識的に呼び出しているので、こんなことは初めてだった。
桃子が自分のスタンドにむかって手を伸ばすと、揚羽蝶の姿をしたそれは突然サファイア色に光る青い蝶に変化した。
青い宝石を板状に薄くしたような羽根。
それはトロイア戦争でトロイの木馬を戦略として敵を滅ぼした軍将ユリシーズの名をいただく蝶、大瑠璃揚羽ユリシス。
ふと見れば、自分の肩にも別の一羽の揚羽蝶の姿をしたままのバイオレットヒルがとまっている。
青い蝶が素早い動きで池まで翔んでいき、池のある一角までいくとその水面の上をひらひら舞っていた。
「呼ばれてる…」
桃子は隠れてた庭石から大してはなれてないそこへ向かってみる。
そうしなくてはならない気がしたからだ。
そして、ユリシスがいる真下を見てみればそこには…
「これは…ッ」
青い蝶の下、闇の中で水面からきらきら銀色に光るボタンが、ゆらゆらと揺らめいていた。
「!」
肩にとまるバイオレットヒルが急に熱を帯び、同時に彼女の心に直接誰かの声が聞こえてきた。
泣きたい程の歓喜の感情が流れ込むのと共に。
それは可愛らしい少女の声だった。
『いいの!
あたし、しばらくドルチェは買わないことにしたのっ。
だ、ダイエット…
じゃないけど、だって食べたらなくなっちゃうよ。
お金なくなっちゃう。
食べたらなくなっちゃうドルチェじゃないの。
あたしのこのお小遣いは立派な使い道があるんだから。
う…、ギアッチョの意地悪…ッ。
あなたが見せつけてパクって食べちゃっても…
うん、負けないよ!』
『お兄ちゃん!
お兄ちゃん!!
お誕生日おめでとうっ!
はい、これプレゼント!!』
誰の声かは知らない。
けれど、その声と共に感情が彼女の心に響く。
『馬鹿だな…オレはお前が大好きなもんを食って喜ばせる為に金をやってたんだぜ。
お前、あのドルチェ大好きじゃねえか?
何ヶ月も我慢しやがって。
そんなに腹がグーグー鳴りやがってたのに。
何の為かと思えば、オレの為に我慢していたのか?
オレを喜ばせる為に?
ったく。
本当に…オメエはバカで…嘘をつくのが下手くそで、オレを喜ばせるのが上手で、
世界一可愛いヤツだよ…』
それを感じた直後の彼女の行動にはためらいが一切なかった。
「お嬢!!!
何してんですかァアァアーー!!!?」
「おいオメエー!何やってんだ!!!」
一対一となり殴り合っていたプロシュートと春雨は、自分たちの背後でザブンと聞こえた水音に、振り上げていた拳を止めて振り返り、同時に目にした。
冬の凍えるような十二月の寒空で、桃子が腰のあたりまである深さの池にジャブジャブと入っていって、振袖をぐっしょり濡らしながら、池の中で何かを探して手を動かしているのを。
それが昨日の出来事だった。
そうして、翌日にいたる。
おかしなやつだ。
プロシュートはあの時からそう思った。
いや、この日本人が変わり者なのか?
『PROSCIUTTO CRUDO?』
『ああ、それがオレの名前だ。
なんだかんだ言い損ねちまってたな』
『それでは、あなたの事はクルードさんとお呼びすれば宜しいでしょうか?』
『いいや、プロシュートでいい』
『え?』
『便宜上使ってる苗字でな、そこらへんで適当に拾ってきたんだ。
その名前で呼ばれてもあまりピンとこねえんだよ』
彼の本当の苗字はかつてプロシュートが一族を皆殺しにした際に、地下の墓石に刻まれた歴代の祖先の名前を破壊しつくしたと同時に捨ててしまい、この今の苗字は目に付いた墓から取ってきたものだが、そこまでは言う必要はない。
ただ仕事柄、本名だとなにかと不便だという適当なことを言うと桃子は首を傾げながらも一応納得はしたようだ。
『プロシュート…さん。
わかりました。
そう呼ばせていただきますね。
生ハム、おいしいですよねぇ。
私大好きですよ。
特にオードブルにメロンにのった生ハムが出ると嬉しくなっちゃって、生ハムとメロンの組み合わせって最こ…いひゃいいひゃいいひゃい(痛い痛い痛い)!!
ほっへはひっはらはいでふだはいっ(ほっぺた引っ張らないでください)!』
『うるせえ!こんなとこまで来て、変態野郎のツラを思い出させんじゃねえ!
オレァあのツマミ見るだけでムカッ腹が立つんだよッ』
桃子は何気なく話題に出したが、生ハムメロンはプロシュートにとっての地雷だ。
あの変態が時々サッカー観戦でアジトでホルマジオと眺めてる際に、おつまみだと作っては兄貴に包まれるオレ!と気色悪い事を言っては、これ見よがしに目の前でじっくり舐るように食す気色悪い光景を見せつけるのだ。
その度に〆てはいるのだが、いっこうに懲りる様子もなく兄貴の暴力は毎回エスカレートするばかりだ。
ペッシはその地雷原を踏んではならないと真っ先に学習したまでに。
『へんはいっへなんのほとでふはぁ〜(変態ってなんのことですかぁー)!?』
それはタクシーの中での会話だったか。
プロシュートが目覚める直前みた夢は、何気にイラっとくる発言をしたので両手でほっぺたを引っ張った彼女の顔で終わった。
思ったより、もちっとしてミヨーンと伸びる頬がモッツァレラチーズを思い出させた。
「……。
そういや、ここは日本だったか」
目覚めて最初に目をしたのは、見慣れない木の天井と草葺きで作ったと思われる床に、その上に直接しいた白い寝具。
カバーも枕もおろしたてで、これは昨日桃子がわざわざ出してきたものだ。
普段アジトの自分の部屋で寝起きする時は、なんやかんや一日中さわがしい誰かしらの話し声や何かをしてる物音の中で眼が覚めるものだが、ここはあまりにも普段に比べたら静かだったので、少し慣れない気分だった。
イビキをかいてグースカと呑気に寝てる弟分もいない。
やっかいな天然パーマをドライヤーやワックスで悪戦苦闘して最終的にブチ切れるギアッチョの怒鳴り声もない。
アレがないこれがない!誰かオレのやつ勝手に使っただろ!と怒るイルーゾォもいない。
猫にフンギャーと威嚇される声のあと、またふられちまったと手に新しい引っかき傷を作って、薬箱から消毒薬を出してるホルマジオもいない。
書類を完徹してカチカチキーボードを叩いて作ってるリゾットもいない。
イチャコラしながら、朝食のコルネットを互いにアーンとしてキャーキャーはしゃぐソルベとジェラートもいない。
そして何よりも。
『お兄ちゃん!Buon Giorno!!』
朝いつも笑顔で抱きつきながら挨拶する、赤い目に白い髪の天使のようにとびきり可愛い女の子も、今プロシュートのそばにはいない。
(物理的な距離まで、遠くなっちまったな…)
プロシュートはふっと目を細めて苦笑いをした。
そうしてこれまで何度めかと同じように彼の心にスッと穴のようなものが開いた。
ふと小鳥の声が聞こえる静かな朝の光の中、とんとんとんと規則正しく包丁の音が聞こえたので、軽く身支度を整えると音の聞こえる部屋へ向かっていく。
そこには昨日知り合ったばかりの桃子がいた。
「おはようございます、プロシュートさん。
よく眠れましたか?
あの…お風邪は召されてませんか?」
「問題ねえよ。あれくらいで体調はくずさねえんだ」
「よかった…。昨夜は申し訳ございませんでした」
プロシュートがきたのに気づいたのか、大量の野菜の下ごしらえをしていた桃子は振り返ってペコリとお辞儀をした。
「申し訳ありませんが…、朝食はもう少しお待ち下さいね。
あ、お待ちの間お茶をお飲み下さいね。
お入れします。
えーと、緑茶…はお口にあいませんよね。紅茶かコーヒーのどちらになさいますか?
…きゃっ!」
「おいおい、気をつけろよ」
プロシュートにお茶を淹れようと、割烹着の帯に挟んだ手ぬぐいで手を拭き、カップをとろうとしてズルッと足を滑らせた桃子。
プロシュートはとっさに彼女の体を支えると同時に、落としかけたティーカップを上手いことキャッチした。
「すみませんっ」
困ったように眉を寄せて顔を真っ赤にして(これは普通の女が同じことをされた時の反応ではなく、あくまで申し訳ない恥ずかしさからの赤面で)謝る姿に、プロシュートは謝るほどでもないだろと言って、自分の腕のなかにいて見上げる彼女の黒い瞳をじっと見つめた。
何故だが目が離せない。
彼女の瞳から。
気弱そうな、弱々しい表情。
妙に煽られる。
わなわな震える淡い桃色の唇も。
花の薫りの気持ちいい黒髪も。
「あの…ちょっと…もう!」
彼女はそんなプロシュートがガン見するのにオロオロして目をそらし、そそくさと離れた。
「は、はれんちですよっ」
と日本語でそこだけ呟いて。
桃子は仕方ない事とはいえ、また密着したプロシュートに焦ってしまった。
距離の近さだけでない。
本当に強烈だ。
(この人、す…すごく目に毒…っ)
色男の浴衣姿は。
彼のキャリーバッグはすでに送ってしまったと言ってたので、桃子が寝巻きとして渡した父親の浴衣。若い男性のパジャマはなかったので、丈を折って調整すれば背の高い彼でも着れるだろうと出してみたのだ。
灰銀色の生地に白い帯の無地のもの。
それが彼の金髪と不思議に似合っていて、まるで月の光で紡がれた衣服をまとっているように見える。
端正な顔立ち、その着物と髪と肌の色合い、合わせ目から見える男らしい首筋から滲み出る凄まじい色気。
形の良い唇と腰に響く男らしい声。
その長い腕が自分をすっぽりとおさまると、見た目よりもしっかりとした屈強で広い胸だと気付く。
見下ろす瞳は朝日の中、寝起きだからか、淡いゴーシェナイトの透明がかった色彩をしている。
プロシュート本人はモネの妻が歌舞伎役者の着物に扇でポーズをとった絵画『ラ・ジャポネーズ』と同じように、自分が着ても似合わないと言っていたが。
(顔がいいと何でも似合ってしまうんですね…)
桃子はこの男と知り合って実感した。
今の彼が好みでない自分もやたら胸がドキドキしてしまうのだ。
おそらく普通の女性ならば、この姿の彼を見ただけで心臓の動悸が激しくなるだろう。
(ハレンチってなんだよ、そりゃ)
プロシュートは離れる桃子にかすかに眉をしかめた。
確か夢であった時に言っていたような、昨日も彼女は言っていたが、イラッとくる意味だったような気がする。
初対面から今まで、プロシュートは彼女が自分に向けた言葉がやたらハレンチだとか謝罪の言葉ばかりだと思っていた。
本当にイメージのままだ。
日本人は謝罪の言葉をいくたびにも事あるごとにワンクッション挟んで使ってくる。
この桃子もわずかな間にプロシュートに何回言っていたのか?
彼の国では違う。
謝罪をすれば損をする。
自分が悪い立場でも決して謝らない。
金を失ったり、相手にやりこめられてしまうからだ。
(イタリアじゃあ、たちまち身ぐるみ剥がされちまうな、コイツじゃ)
それが普通だと思っていたのだが、プロシュートは昨日の夜のことを思い返した。
「すみません…っ、
泥がついてしまいましたが…、
なんとか見つかりました」
あの謝る彼女の姿を。
真っ赤な頬。
真っ白な息をハアハア言わせて。
かじかむ指に泥水のはねた着物。
少しくずれた髪型。
半分泣きそうになりながらもやり遂げたと語る笑顔。
いつのまにか彼女は、プロシュートが大乱闘をして夢中になってる間に真冬の池に迷わずに足を入れて冷たい水で体を冷やし、泥に着物を汚しながらも、一生懸命に頬を蒸気させて池の底をさらって探し出したのだ。
プロシュートがブチ切れた原因のそれを。
冷え切って赤くなり、まだ拭いきれない泥が少しついた桃子の右手には、
『Buona fortuna(あなたに幸運を)』
あの妹の愛の言葉が刻まれた小さなボタン。
それは月の光で仄かに光っていた。
なんてお人好しの馬鹿な女。
今知り合って間もない、見知らぬ、得体の知れない外国人の男の為にする事でもないだろう?
あまり知らない男のたかがボタン一つで。
「プロシュートさん、
うちのものが大変失礼いたしました。
どうかお許しください。
あなたの怪我の病院代とお洋服は私が弁償いたしますっ。
あの、まずはこのボタンをおつけしたいのでシャツを貸していただけますか?クリーニングにもお出ししたいので。
どうか…っ。
無礼を働いてしまって不愉快な思いをさせてしまって申し訳ございませんでした…」
遠い国へ単身行くのだからと、妹がお小遣いをはたいて、さらに自分の無事を祈って付けたボタンのついた思い入れのあるワイシャツを着ていった。
それが先程襟を急に掴まれたせいでボタンが千切れ飛び、なくなったと思った瞬間から頭に血がのぼっていた。
桃子はそんな事情は知らないはずだのに、真っ先に彼女は探しにいったのだ。
冬の冷たい池に。
謝り涙ぐむ桃子の頬に少し泥がついていてたのに気付き、プロシュートは顔をわずかにしかめた。
「泥、ついちまってるぜ。
馬鹿だなあ、着てるやつだってオメエの一張羅なんだろう?」
「あ…!つい、夢中だったものですから…っ」
彼女の着物はおそらく相当上等なもののようだろう。先程話を聞いた時に、あそこにいたのはお見合いだったと言っていた。
生地にほどこされた刺繍も見れば見るほど細かなもので、彼女を飾る小物や帯も安物には見えない。
それが水と泥で汚れてしまい、タクシーでプロシュートがなおしたばかりの真珠の髪飾りも取れかけて髪もいくらかほぐれかけている。
そんなにまでなって、どうしてわざわざ探してくれたのか?
「あなたの様子で、なくしちゃ困るものだと思ったから…。
あの、お見苦しい姿をお見せしてますが…。
その…大切なボタンなんでしょう?
何となく分かるんです、私…。
…はっくしゅん!
す、すみませんっ」
プロシュートは呆れたようにため息をつくと、自分のコートを持ってきて、寒さにふるえる彼女の肩にかけた。
「貸してやる」
「え!いいですっ、あなたのコートまで濡れてしまいますよっ」
「いい、気にするな。オメーに風邪ひかれた方が後味悪いんだよ」
「ありがとうございます…。こちらもあとで綺麗にしてお返しします…」
(変わったヤツだ)
服装も髪型もみだれても、そう簡単に言ってしまう本当におかしな、日本人。
(だが)
それがなんて面白くて、そのころころ変わる表情もペコペコ頭を下げる姿も可愛らしいのだろう。
その瞳は何て綺麗に輝くのか。
今まで目にしたブルートルマリン、グリーンガーネット、シャンパンカラーダイアモンド、オニキス。
そのどんな女のものよりも、彼女の瞳の黒真珠は飛び抜けて美しく見える。
後になって思い返せば、この時にはすでに、いや、ホテルで現実の桃子に初めて逢った時には、もう、そう思っていたのだろう。
その奥底にある感情がかすかに燻っていたのか、プロシュートの怒りはもうとっくになくなっていた。
ただ桃子への興味が尽き果てないばかりで。
「日本のやつは、本当に馬鹿にお人好しなんだな。
だが、」
プロシュートは皮肉に口の端をゆがめた癖のある笑みをして、そこで言葉を区切ると、桃子のボタンがのった手のひらを自分の両手で包み込み、彼女の額に自分の額をそっと当てて囁いた。
「Grazie,桃子。
…これはオレの命よりも大事なものなんだ」
そうしてどんな女も見ただけで蕩けてしまいそうな熱を含んだ眼差しで桃子に嬉しそうに微笑みかけた。
「な…っ、
な!!」
桃子はプロシュートのその行動に、またしても以前と同じように彼女のキャパシティがいっぱいになってしまったようだ。
この人に自分なりに精一杯謝罪は出来た。
しかし、まさか彼の感謝の行為の思わぬ距離の近さに頭がクラクラして先程とは別の意味で体温が急上昇していく。
いくら好みの顔ではないとはいえ、相手は目眩がしそうなまでの色男なのだ。
それを間近で、あまつさえ額が触れ合うまでに、彼の睫毛が数えられる近さに、桃子は彼のフェロモンにあてられてしまい、そして…、そして…!
彼女はこの互いの距離の近さに耐えきれなくなった。
彼女はもともと一メートルより中に異性が近づくと逃げ出したくなって、学生時代に手を握ってダンスをする授業となると毎回冷や汗をかいて、何かにつけて余った女子と組むようにしていた。
そんな背景の彼女がのちにやらかしたと後悔したあとでも。
そんなプロシュートの背後。
それは、たまたま運悪く池である。
このクラクラするような艶男から出来るだけ距離を取りたい。
ということは、テンパりだす桃子が無意識にやりだす行動は、
「このっ!
ハレンチ男ォオォオーーーっ!!!!」
「うおっ!!?」
ドッパーーーーン!!!!!
プロシュートを池に向かって思い切り突き飛ばす、それ一択だった。
瞬間湯沸かし器になったかと思えば、すぐに彼女のテンションはバニラアイスが筒の中で作れるまで急激に冷やされるもので。
桃子は顔を真っ青にして、今やらかした光景をまざまざと目にした。
「きゃあああああ!!!
ごっ、ごめんなさい!!!」
池に背中からダイブして、文字通りの水がしたたるどころか、ビッシャビシャに濡れてしまったプロシュートの姿を。
(クソッ!オレとしたことが!前回のコイツの件を忘れちまってたか…!)
プロシュート自身は油断した自分にイラついていたのだが、池から身を起こして外にでると、彼は思いもよらなかった桃子を目にする。
「ごめんなさい!
すみません!!
申し訳ございませんっ!!!
大変ッ失礼いたしました!!!!
こんなっ、ああ!
私ったらッ!馬鹿ァア!!
許してください!
この償いになんでもいたしますから!!
ひとまずお風呂に入って!風邪ひいちゃう!ご案内いたしますっ!!
うひゃあ!!」
焦りは更にヒートアップした彼女。
慌ててプロシュートのもとへ走り寄ろうとしたが、振袖だったのを忘れてしまい、そのまま足元から転んでしまう。
何が起きたかわかった後に怒涛の謝罪の言葉を浴びたプロシュート。
自分のブチぎれた原因となった、妹からもらったシャツはスラックスと共にびしょ濡れになり、本来の彼なら怒った瞬間に相手の延髄に蹴りを叩きこんでいただろう。
それが桃子の思い切りずっこけた間抜けな姿と、自分の手にしっかりとあの大事なボタンを握ったままなのが分かった直後、プロシュートは妙におかしくなってしまった。
「……(何だコイツ。
間抜けな女だな。
だが)」
彼は彼女の地べたに正座からの何度も頭をぺこぺこ高速で下げる、生土下座を思わず見てしまった事と「何でもいたしますから」という言葉を聞くなり、理解不能という表情から一転して意地悪そうにニヤリと笑う。
(ったく、なんなんだ。
本当に、面白いヤツだ。
この女はよォ)
そして、今の朝の状態にいたる。
あの後、
「あなた!!
なに失礼なことしてんのよォオーー!!
ほらっ!早くお風呂にご案内してッ!
ついでに泊まってもらいなさい!!
こんな事してしょうがない子ねっ、そもそも男の人へいつまでもそんな態度じゃダメでしょ!
お詫びにこの方に東京案内してやんなさい!
それで少しは男の人に慣れるのよ!!いいですね!」
彼女の叔母の梅子がやってきて、彼女とボロ雑巾の若いモンたちを叱りつけると、強引にプロシュートに泊まるように言えと彼女に命じたのだ。
私のところに泊まってほしい。
普段イタリアにいた頃のプロシュートは、数えきれない程同じような申し出を、彼にすっかり参ってしまった女たちに言われ、気が向けば受け、そうでない時はさっさと拒否した。
それでも少し、これまでと今は違っている。
「…こ、こんなこと…、ふ、ふしだらかと、思われるかもしれないけど…っ、
せめてお詫びに…お受けいただけますか…?」
顔が真っ赤で頭から湯気が出そうな勢いでモジモジとした桃子が可愛いと思った。
こんな慌ただしくて、うっかりとやらかして、なのにそれが妙に目が離せない、そんな彼女をもっと知りたい。
会ったばかりの日本人の彼女のことを、いや、女に対してはじめてプロシュートはそう思うようになっていたのだ。
H.30 12.19
突っ込みどころ満載なのは勘弁。
桃子の関係者は食べ物の名前、親族は植物の名前にすることにしました。
何はともあれやっとなんとか続きをあげられました。
これもご訪問とランキングクリックと拍手のおかげです。
もうちょっと付け足しする予定。
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