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小説
IF ENDING 「君の顔が見たいから」





 ポカポカとした陽光に彩られた廊下を、1人の少女がパタパタと走る。


「コラー! 待ちなさーい!」


 そんな少女を、白衣に袖を通した金髪の女性が追いかける。医師である女性の制止の声に耳を貸さず、少女はある一部屋を目指して、まっしぐらに走った。





◆◇◆◇◆





 一方、少女が目指している部屋には、1人の男性がベッドにいた。身体は起こしており、彼は開けられた窓の方を向いていた。


「待ちなさい、ヴィヴィオ!」


 その時、女性の声が彼の耳にまで届いた。その女性の声と、近づいてくる足音に、彼は顔を綻ばせた。それと同時に、彼の病室の扉が勢いよく開かれた。


「パパ!」


 そして、廊下から元気のよい声が聞こえてきた。


「おかえり、ヴィヴィオ」


 ヴィヴィオを、彼―――――ヴィレイサーは笑顔で迎えた。ヴィヴィオは、ヴィレイサーのいるベッドの縁に座る。


「そんなに慌ててどうしたんだ?」

「うん! あのねあのね!」


 興奮したまま、ヴィヴィオは今日の出来事を話そうとする。


「『あのね』じゃありません!」


 しかし、それよりも早く、ヴィヴィオを追いかけていた女性が割って入る。


「廊下は走っちゃダメだって、何度も言ったでしょ!?」

「あまり怒ってやるな、シャマル」


 カンカンに怒る女性─────シャマルを、ヴィレイサーが苦笑しながらも宥める。


「今後は気を付けてね」


 ヴィヴィオに釘を刺してから、シャマルは部屋を出ていった。その後、ヴィヴィオとヴィレイサーは笑いあう。


「シャマル先生、怒り過ぎー」

「ヴィヴィオが怪我したら大変だから、心配して口を酸っぱくするんだよ」

「ヴィヴィオは大丈夫だもん!」


 ヴィヴィオは頬をぷくっと膨らませる。


「そうだな。
 でも、ヴィヴィオが他の人とぶつかったりしたら、互いに痛い思いをするぞ」

「うぅー………気を付けます」


 親のような存在であるヴィレイサーに注意され、ヴィヴィオは凹む。


「分かればよし。
 それで、話したい事があったんじゃないか?」

「そうだった!
 あのね! 今日、ザンクト・ヒルデ魔法学院に行ってきたの!」

「あぁ、聖王教会の………」

「うん!
 そこでね、友達もできたの!」


 嬉しそうに語るヴィヴィオの声を聞き、ヴィレイサーは顔を綻ばせる。


「そうか。
 良かったな、ヴィヴィオ」


 彼女の頭を撫でようと、ヴィレイサーはヴィヴィオの方に手を伸ばす。しかし─────


「っ………」


 ─────ヴィレイサーの手は、“ヴィヴィオに触れる事は無く、彼女の横を通った。”


「“ここだよ、”パパ」


 “ヴィヴィオはヴィレイサーの手を取り、自分の頭の上にそれを乗せる。”


「ありがとう………」


 ヴィレイサーは謝辞を述べてから、ヴィヴィオの頭を優しく撫でる。それを受けるヴィヴィオは、黙って嬉しそうにしていた。

 そんなヴィヴィオとは逆に、ヴィレイサーの顔には悲しい笑みが浮かんでいた。彼の目には今、“包帯が巻かれていた。”





 最終決戦から数日後。

 ヴィレイサーの目は、突発的に起こった“遺伝子の拒絶反応により失明”してしまった。角膜が変形してしまった彼の目には光が差さなくなったのだ。しかしその後、抑制遺伝子を組み込んだ事で、以降の身体への影響は無くなった。生活には、デバイスの補助があるおかげか、そこまで困る事は無かった。

 ただ1つの事を除いて─────





「パパー、今度のお休みになのはママ達と一緒にお出かけしたい!」

「んー、なのは達が許可したらな」

「えぇー?
 パパの鶴の一声とかにならないの?」

「なのは達が心配性だからなぁ。
 それは難しいよ」


 なのはらは、ヴィレイサーが失明した事を気にしており、彼個人での判断を、あまり認めようとはしなかった。出掛ける時、と言うよりは病室から出る時は、必ず同伴を伴う事が条件となっている程だったりする。


「そっかぁー」


 ヴィレイサーの足の上に座り、ヴィヴィオは彼に撫でられていた。髪を滑らせるたびに、ヴィレイサーは寂しく思っていた。今触れている少女の、あどけなさの残る顔を、一切見る事が出来ないからだ。

 それが、前述した“ただ1つの事”だった。誰の顔も見る事が出来ない。時期に忘れ去られていく、仲間の顔。それが、今のヴィレイサーにとって最も恐れている事だ。しかしそれは、否応なしに進んでいく。抗う事などできはしないのだ。










IF ENDING 「君の顔が見たいから」










 しばらくして、扉がノックされた。


「いいかな、ヴィレくん?」

「なのは?
 あぁ、大丈夫だ」


 聞き慣れた声に、ヴィレイサーは少し安心感を覚える。スライド式のドアが開かれる音と共に、足音が聞こえる。やがてヴィレイサーに近づいた所で、それは止まった。


「あ、ヴィヴィオ、ここにいたんだ」


 ヴィレイサーのいるベッドに、彼女は身を竦めてすやすやと寝ていた。


「起こすに起こせなくてな………」


 苦笑するヴィレイサーは、なのはがいると思われる方向に顔を向ける。その方向になのはがおり、彼の表情を確認する事ができた。その目は包帯で隠されているものの、なのはには彼の瞳を想像できた。なのはは、ヴィヴィオを起こさぬようにベッドに腰掛け、ヴィレイサーの手に自身の手を重ねる。


「お前の手はいつも、暖かな温もりを持っているな」

「ありがとう」


 ヴィレイサーの言葉に、なのはは顔を綻ばせ、彼の手を優しく握り直す。


「それにしても、お前は俺の所に来すぎじゃないか?
 ちゃんと仕事をしているんだろうな?」

「なっ!? 私がしてないと思ってるの!?」

「こうも俺の所にばかり来ている事を考えると………」

「そんな事無いもん!」


 そう言ったなのはは、恐らく頬を膨らませているのだろうと、ヴィレイサーにはそう思えた。


「悪かったよ。
 ただ、大丈夫なのかどうか気になったからな」


 自分の手を握っているなのはの手を空いた自分の手で、そっと触れる。


「ふふっ」


 すると、なのはが笑った。


「どうした?
 いきなり笑ったりして………?」

「だって、以前のヴィレくんなら、そうやって優しくしてくれなかったもん。」

「そう……だったか?」

「うん。
 表面的に優しくって事は、特に無かったし」

「お前の考えすぎだ」


 彼女に優しくしているのも、恐らくは目が見えないという恐怖があるからだろう。相手に優しくする事で、少しは相手もそれに応えてくれる。そうすれば、恐怖を僅かな間だけ拭えるから………。図星だったヴィレイサーは、なのはにぶっきらぼうに返すが、それでも彼女はクスクスと笑っていた。


「確かに、ヴィレくんと一緒にいた時間は短いから、考え過ぎかもね」


 創世の書事件の時も、大して長い時間を共に過ごした訳でも無く、更にその事件の解決後は、彼はレーベに行き、そこから家族の元へと戻った。なのは達と一緒にいた時間は、むしろ少ないと言っていい。


「でも、優しくしてくれるのは嬉しいなぁ」


 彼の胸に寄りかかり、頭を預ける。


「いつだってそうなる訳じゃない」


 自分の胸にもたれている彼女の頭に触れ、髪を梳く。


「知ってるよ。 だけど、それでも一緒にいたいな」


 起き上がり、ヴィレイサーの頬に手をあてる。


「俺もお前となら、いつも以上に安心できる気がする」

「うん」

「なぁ」

「なぁに?」

「また、触らせてもらってもいいか?」

「もちろん、いいよ」


 ヴィレイサーの手を取り、なのはは自分の頬にそれを持ってくる。相手の顔を忘れないようにと、なのはが言いだした事だった。それから、なのはは毎日ヴィレイサーの所に訪れては、彼の手を取って、自身の顔にそれをあてていた。





◆◇◆◇◆





「それじゃあ、今度は夕食の時にね」

「別に来なくても構わないんだが………」

「こないだ来ようと思って、できなかったから。 その埋め合わせだよ」

「病室じゃあ息苦しいだろ。 そっちに行くよ」

「じゃあ、迎えに行くね」

「エターナルがいるから、そこまで気を遣わなくても………」

「またね〜♪」


 ヴィレイサーの言葉を最後まで聞かず、なのははヴィヴィオを抱えて出て行った。


「物好きな奴だ」


 そう呟いたヴィレイサーだったが、その顔の端には僅かな笑みが浮かんでいた。





◆◇◆◇◆





「ヴィレくん、あ〜ん」


 恐らくは匙を向けているのだろう。なのはのその声に、ヴィレイサーは溜息を零した。


「必要無いと言っただろ………」


 エターナルを介すれば、食事などの日常生活にはまったく支障は無い。だと言うのに、なのはは何かにつけて世話を焼こうとする。


「誤って零しても知らないよ?」

「今まで無かった奴に言う台詞じゃないな」

「ヴィレくんの意地悪!」

「俺が悪いみたいに言うなよ!」


 なのはが声を荒げたのを皮切りに、そのまま口論に達するかと思えたが………。


「なのはママもパパも仲良くして」


 ヴィヴィオのその言葉に、2人は反省した。





◆◇◆◇◆





 カチャカチャと食器を重ねる音を聞きながら、ヴィレイサーはヴィヴィオを撫でていた。


「エヘヘ」


 嬉しそうにそれを受けるヴィヴィオは、笑顔だった。


「ヴィヴィオ、気持ちいい?」

「うん♪」


 なのはの問いに、ヴィヴィオはすぐに答えた。


「いいなぁ………。 私も撫でてもらいたいなぁ」


 わざとらしく窺うような声で、なのははヴィレイサーの傍に腰掛ける。


「いい年して何を言っている?」


 だが、ヴィレイサーは呆れ気味に言っただけだった。


「私はまだそんなに年じゃないよ!」


 憤慨するなのはは、ぷいっと横を向いた。


「そういう事にしといてやるよ」


 言いながら、機嫌を損ねた事を悪く思い、なのはの頭を探す。すると、艶やかな手触りがした。恐らく、なのはの髪だろう。


「ここら辺か?」


 頬を引っ掻かないように、なのはに聞きながら指を滑らせる。


「うん」


 短く返ってきた声を頼りに、ようやっと彼女の頭に手を置く事が出来た。それから、ゆっくりとその頭を撫でる。


「ありがとう」


 謝辞を述べて、しばらく口を閉ざした。いつの間に寝てしまったのか、ヴィヴィオの寝息だけが、静かに流れた。





◆◇◆◇◆





「無理だと思うが………」

「大丈夫だよ。 私が一緒だもん」


 隣から聞こえてくる元気な声に、ヴィレイサーは自然と笑みを零した。


「じゃあ、しっかり手を繋いでてね?」

「あぁ」


 目の見えないヴィレイサーに代わり、なのはは自分から彼の手を取った。


「行くよ」


 ゆっくりと空に浮き上がりながら、なのははヴィレイサーに“飛ぶ”ように促した。何故ヴィレイサーと共に飛ぼうとしているのかと言うと………。





「ヴィレくん、今いいかな?」


 いつものように空いた時間に病室を訪れたなのはだったが、それに気付いていないのか、ヴィレイサーはずっと開いた窓の方を見ていた。そこから流れ込んでくるそよ風に、彼は何気なく手を伸ばした。その瞬間、その風はピタリと止んだ。


「飛びたいの?」

「ッ!? なのは……か?」

「驚かせてごめんね」

「いや………」


 手を下し、声がした方に顔を向ける。しかし、その顔は相変わらず包帯がされていた。


「それで……飛びたいの、空を?」

「そう見えたか?」

「うん」


 なのはの問いには答えず、ヴィレイサーは再び窓に視線を向けた。長い沈黙が2人を包んだ。しかし、時折流れ込んでくる風のお陰で、息苦しさは皆無だった。


「もしかしたら、そうなのかもしれないな」


 苦笑まじりに返すと、なのははヴィレイサーの手を握った。


「じゃあ、一緒に飛ぼう!」

「は?」


 いきなりそんな事を言われ、ヴィレイサーは戸惑う。


「何を言っている?」

「大丈夫だよ、私も一緒に飛ぶから。
 ちゃんとヴィレくんを守るよ」

「そういう問題じゃ………」


 しかし、ヴィレイサーの言葉に耳を貸さず、なのはは彼の腕を引っ張った。


「行こう」

「お、おい!」


 こうなっては、彼女に引っ張られる以外に道は無かった。そして、2人は外に出て行ったのである。





 ヴィレイサーの手を引きながら、なのはは空を先行する。


「そろそろ手を離そうか」

「ん、あぁ」


 ゆっくりとなのはの手が離れ、ヴィレイサーは一瞬戸惑う。


「隣にいるよ」


 不安が顔色に表れていたのか、なのはが優しく声をかけてきた。


「ありがとう」


 久しぶりに空を駆け、そして風を浴びる。あまり日数は経過していないかと思っていたが、何年も離れていた気がした。


「気持ちいいね」

「そうだな」


 光は差さないが、それでも肌で陽光の温もりを、触れてはすぐ離れる風を─────たくさんの自然を感じる事が出来た。


「あ、ヴィレくんストップ」


 なのはから呼び止められ、ヴィレイサーは制止する。


「にゃはは………危うくぶつかりそうだった」


 2人の目の前には、大きなビルが建っていた。


「おいおい………。
 さすがにこれ以上の怪我は御免だぞ」

「気持ち良くって………」

「それには賛同する」


 互いに笑い、そして隊舎へと戻る事にした。





◆◇◆◇◆





「あ、見えてきたよ」


 なのはに手を引かれながら、2人は隊舎に無事に着いた。

 かと思ったのだが─────


「なのはちゃん! ヴィレイサー!」


 ─────シャマルの怒声が轟いた。


「うわっ!? シャ、シャマル先生!?」


 なのはが慌てて制止した為、ヴィレイサーはなのはの背にぶつかった。


「どわっ!?」

「きゃっ!?」

「………すまん」

「ううん、私こそごめん」

「2人とも、今すぐ下りてきなさい!」


 シャマルの叫び声に、なのははヴィレイサーの手を引きながら下りる。


「何をそんなに怒っている?」

「にゃはは………」


 シャマルの様子を不思議に思うヴィレイサーだったが、なのははそっぽを向いていた。


「勝手に病室を抜けだして………どこに行っていたの!?」

「勝手に? おい、なのは………」

「ご、ごめん! 一緒に飛ぼうって決めて、シャマル先生に断らずに、そのまま………」

「なのはちゃん!」

「うぅ………」

「シャマル。 俺がなのはに確認を取らなかったのも悪いんだし、そこまで叱らないで………」

「何を言っているの! どれほど心配をかけたかも知らないのに!」


 戻った2人には、心配していた仲間達からのお説教が待っていた。それは、数時間にも及んだそうな。





◆◇◆◇◆





「うぅ〜………かなり怒られたねぇー………」

「そりゃそうだ」


 シャマルからのお叱りから解放されて、なのははヴィレイサーが座っているベッドにうつ伏せていた。


「ヴィレくんももっと私を庇う様に弁明してよー………」

「てっきり、ちゃんと許可をもらったと思っていたからな。
 子供じゃないんだから、それくらい気付けよな」

「うぅー………酷いよヴィレくん。
 私が落ち込んでいるのに、励ますどころか更に気落ちさせるなんて!」

「許可を取らなかったお前が悪い。 自業自得だ」

「むぅ………」


 なのはの声色から、なんとなく彼女がどんな顔をしているのか予想ができた。


「剥れているのか? やっぱりまだ子供だな」

「にゃっ!? そ、そんな事ないもん!」

「どうだかな」

「信じてよー!」

「まぁ、空を飛ばせてくれた事には、本当に感謝しているよ。
 もう、一生無理だと思っていたからな」

「ヴィレくん………」


 本来なら、ヴィレイサーの両目は角膜移植を行えば視力は回復する。しかし、先のJS事件の折り、市街地にも甚大な被害が出た為に、移植を行える施設は未だに多くの患者でてんてこ舞いだ。その上、角膜の提供者が皆無と言う、不測の事態に陥っており、手術は不可能だった。


「けど、もう空を飛ぶのはいらない」

「え………? ど、どうして!?」


 ヴィレイサーのいきなりの宣言に、なのはは戸惑う。


「苦しいんだよ………。
 “誰かがいなきゃ、飛ぶ事すら許されない、この翼が”………」

「ヴィレくん………」

「俺の翼は、誰かと一緒でなければ、飛ぶ事も、一対になる事も出来ない………。
 こんな翼に―――――“飛べない翼”に、意味なんてあるのかよ………?」


 自嘲しているヴィレイサーの顔を見て、なのはは「まただ」と思った。


(また、“泣いてない”………)


 手の震えを必死に抑えながら、なのははヴィレイサーの頬にそっと手をやった。


「どうした?」

「ううん。 ただ、“また泣いてない”んだなぁって思って………」


 ヴィレイサーの頬には、涙が乾いた跡すら残されていなかった。


「別に、泣いていなくても不思議じゃないだろ?」

「おかしいよ………。 おかしいよ、そんなの!」

「なのは………」

「どうして!? どうしてヴィレくんは泣かないの?
 一番苦しいのは、他の誰でもない、貴方自身なんだよ!?」


 訴えてくるなのはの目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「どうして………………どうして私ばっかり泣いちゃうの………?」


 嗚咽が混じった声を聞いて、ヴィレイサーはようやくなのはが泣いている事に気が付いた。だが、霞がかった脳裏には、彼女が泣いている姿が現れなかった。もう、なのはの顔すら忘れてしまったのかもしれない。


「なのは………」


 声をかけようにも、何と言えばいいか分からない。手を伸ばそうにも、あるのはただ、暗闇だけ─────なのはがどこにいるかも分からない。ヴィレイサーにはどうする事もできなかった。


「ヴィレくんはもっと、泣くべきだよ!
 いつもそうやって我慢して………。 苦しいって言っていいんだよ!? 怖いって泣いていいんだよ!?」


 涙を抑える事も忘れて、なのはは訴え続ける。


「なら正直に言うが………苦しいんだよ、“お前の優しさ”が!」

「え………?」

「お前の優しさを受ける度にずっと思ってきた………。 “お前と言う翼がなきゃ、俺は飛べないんだ”って!
 さっきも言っただろ? “飛べない翼に意味は無い”! 俺は嫌でもそれを意識させられるんだよ!」

「わ、私は、ヴィレくんの為に………」

「いい加減分かれよ! “お前の身勝手な優しさが、俺を苦しめているんだよ”!」


 ヴィレイサーの叫びに、なのはは呆然とした。良かれと思っていた事が、彼を苦しめていた。その真実が、ただ胸に突き刺さっていた。


「ごめん………」


 しばらくして、なのはそれだけ言って、病室を出ていった。遠ざかる彼女の足音を聞きながら、ヴィレイサーは思った。“もう、2度と飛ぶ事は無い”と………。病室の扉が、2人を別つように大きな音を立てて閉められたように感じた。





◆◇◆◇◆





「なのはママ、どうかしたの?」


 部屋に戻ると、駆け寄ってきたヴィヴィオが開口一番訊ねた。


「ど、どうして?」

「だって、悲しそうな目をしてるもん」


 表情に出ないようにしていたのだが、ヴィヴィオには簡単に見破られてしまった。


「ちょっと、パパと喧嘩しちゃったの」


 心配させないように苦笑いを浮かべながら、なのははヴィヴィオを抱き上げてベッドまで歩いて行く。


「パパと?」

「うん………。
 パパはね、なのはママの優しさが苦しかったんだって」

「んー?」


 なのはの説明に、しかしヴィヴィオは意味が分からずに首を傾げる。


「難しかったかな? えっと、パパは今、目が見えないよね?」

「うん。 ヴィヴィオ、パパの目の代わりになってるよ!」

「そうだね。
 でも、ヴィヴィオがいなきゃパパはまともに歩く事も難しいよね? パパは、ヴィヴィオに頼らなきゃいけない事で、ヴィヴィオに迷惑をかけているんじゃないかって苦しんでいるの」

「そんな事無いもん!」


 それを聞いて、ヴィヴィオは頬を膨らませてはっきりと言った。彼女のその愛らしさに笑みを浮かべ、なのははヴィヴィオの頭を撫でながら続ける。


「パパは自分の事を、“私がいないと空も飛べない翼だ”って言ってた」

「“飛べない翼”………?」

「うん。 ねぇ、ヴィヴィオ? ヴィヴィオは、その“飛べない翼”をどう思う?」

「んーっとねぇ………綺麗な翼だと思う」

「綺麗な………?」

「うん。 パパの黒い翼、凄く綺麗だったもん」

「そっか。 そうだよね、綺麗だったよね」


 飛べなくてもいい………。ただ、そこにあるだけで綺麗だと言える、彼の翼。願わくは、再びその翼を羽ばたかせたいそれを胸に秘め、なのははヴィヴィオを抱き締めた。





◆◇◆◇◆





 カチカチと時計の針が奏でる音を聞きながら、ヴィレイサーは頭を押さえた。


(どうして俺は、あんな事を………)


 ギリと奥歯を噛み、ヴィレイサーは自分を恨んだ。


「なのは………」


 今は霞に隠れてしまった彼女の顔に、罅が入った。見えない彼女の顔は─────心は、どれほど痛々しい傷を作ったのだろうか?分からない。自分が作ってしまった罅が、彼女の顔を、身体を、心を壊している。今こうしている間にも、それが進んでいるのかと思うと、自分の心にも同じ罅が入ってくる気がしてならなかった。だが、今の自分には─────飛べない翼にはどうする事も出来ない。


(いや………“どうする事も出来ない”のでは無く、“どうしようもしない”と言った方が正しいか………)


 目が見えないから、彼女の優しさに甘えて、それが苦しいからと彼女を自分勝手に傷つけたのだ。自分の弱さに、我儘に、ヴィレイサーは己の全てを憎んだ。嘗ては、彼女と共に駆けた、自身の翼も………。


「パパ?」

「ッ!」


 唐突に扉がノックされ、ヴィレイサーは驚いた。


「今、大丈夫?」

「あ、あぁ、大丈夫だよ」


 ノックしてきた人物がヴィヴィオだと知り、ほっとした反面、彼女ではない事に気持ちを沈めた。


「こんな遅い時間にどうしたんだ?」

「パパ、なのはママと喧嘩したの?」

「ッ………」


 ヴィヴィオの率直な質問に、ヴィレイサーは口を閉ざす。ヴィヴィオはせかさず、近くにあった椅子に腰掛ける。


「いや、“喧嘩はしてない”よ」

「ふぇ?」


 唐突にヴィレイサーの口から出た言葉に、ヴィヴィオは耳を疑う。


「喧嘩じゃなくて、俺が一方的になのはを傷つけたんだ………。
 それが証拠に、なのは、泣いていただろ?」

「うん………」

「ごめんな、ヴィヴィオにまで辛い想いをさせて………」

「ヴィヴィオは大丈夫だよ」


 本当に平気だと表すように、ヴィヴィオは明るい口調で答える。


「あのね、なのはママから伝言を預かってるの」

「なのはから?」

「うん」


 頷き、ヴィヴィオは椅子から降りて、ヴィレイサーがいるベッドまで駆け寄る。


「あのね、『ヴィレくん(パパ)の“飛べない翼”は、黒くて綺麗だよ』………って」

「そっか」


 ヴィヴィオを通して伝えられたなのはの言葉は、相も変わらず温もりに満ちていた。


「ヴィヴィオ、頼みがあるんだが、いいかな?」

「う?」


 円らな瞳でヴィレイサーを見上げ、ヴィヴィオは首を傾げた。





◆◇◆◇◆




「なのはママ」

「あ、ヴィヴィオ……おかえり」


 ヴィレイサーの病室から戻ってきたヴィヴィオを出迎え、なのはは彼女を抱き上げる。


「さ、良い子はもう寝ないとダメだよ」

「はーい」


 本当は、ヴィレイサーが言伝てを聞いて、何か言っていなかったかが気になったが、ヴィヴィオに夜更かしをさせる訳にもいかなかった。


「そういえば………なのはママ、パパからお願いがあったよ」

「え?」


 パジャマに着替えてから、ヴィヴィオはなのはに向き直る。


「『なのはママ(自分)の部屋の扉の前で待っていてくれ』………って」

「この部屋で?」

「うん。 それじゃあなのはママ、おやすみ」


 不思議にしているなのはにはそれ以上何も言わず、ヴィヴィオはさっさと寝てしまった。


「どういう事だろ?」


 気になり、なのはは部屋から出ようと思ったが、ヴィレイサーからのお願いを破りたくはなかった。


「ヴィレくん………」


待とう。今の自分には、それしか出来なかった。





◆◇◆◇◆





「さて、どうしたものかな………」


 ヴィヴィオにお願いをしてから数分後、ヴィレイサーは病室から勝手に抜け出した。目的は、なのはの部屋の前まで行く事だ。しかし、それには幾つもの問題がある。目が見えない事が主たる問題だが、それに加えて、なのはの部屋がどこだか分からなかった。


「まぁ、とりあえず進むか」


 もう既に決めた事だ。今更引き返す道など、どこにもなかった。壁伝いに進む彼の足取りは、やはり覚束ないものだった。だが、その顔は─────視線は、しっかりと前を見据えていた。





◆◇◆◇◆





「ここ………かな?」


 やがてヴィレイサーは、1つの部屋の前で立ち止まる。他の部屋よりも、少しだけ扉の造りが違う事に気が付き、足を止めたのだ。ここがなのはの部屋ならありがたいが、間違えれば恥ずかしい。


(まぁ、シャマルに見つからなかった事の方が今はありがたいが)


 てっきり巡回しているものと思っていたが、勝手に抜け出すとは思われていないのか、はたまた今日は巡回していないのか。どちらにせよ、会わずに済むのならそっちの方がいいだろう。


(なのはの部屋でありますように!)


 普段なら神頼みなどしない所だが、間違えたくはなかった一心で、つい神頼みに出てしまった。手探りで扉にあるインターフォンに触れる。


《はい?》


 やがて聞こえてきた、インターフォン越しの声に、ヴィレイサーは安堵の息を漏らした。なのはの声だ。


「いきなり、悪いな………」

《ヴィレくん?》

「あぁ」

《い、今開けるね》

「いや、このままでいい」


 慌てて扉を開こうとするなのはに、ヴィレイサーは開けないように頼む。


「少し、このまま話さないか?」

《……うん、いいよ》


 なのはがそれを了承してくれた事に、ほっと胸をなでおろす。


「………」

《………》


 しかし、話そうと言った矢先、ヴィレイサーもなのはも、何も言わずに黙り込んだ。話したい事は─────特に、謝りたい事は、あんなにもたくさんあったのに。


《ヴィレくん………》

「何だ?」

《ぁ………ううん、なんでもない………》

「そうか」


 またも、2人の間に沈黙がおりる。


「なのは………」

《なぁに?》

「………いや、なんでもない」

《そう………》


 今度はヴィレイサーからなのはに声をかけ、しかしまた口を閉ざした。


「なんか、変だなぁ………」

《え?》


 そしてしばらくして、またヴィレイサーから唐突に口を開いた。


「話したい事………って言うか、謝りたい事が、あんなにもたくさんあったはずなのに、ここに来て何も言えなくなっちまったよ………」

《私もだよ。 ヴィレくんに謝りたい事、いっぱいあったのに………》


 扉越しに聞こえてくる彼女の声は機械を通しているはずなのに、普段耳に直接届くあの声色のままだった。


「なのは………」

《うん?》

「また、俺を空へと導いてくれないか?」

《私なんかでいいの?》

「お前じゃなきゃダメみたいだ。 俺は、お前がいい。」

《………うん、いいよ。 また一緒に、飛ぼうね?》

「あぁ………」

《その代わり………って訳じゃないんだけど………》

「何だ?」

《ヴィレくんの黒い(綺麗な)翼、また見せてもらってもいいかな?》

「飛べない翼だぞ………」

《いいよ、それでも。
 私が見たいのは、ただそこにあるだけで、私を安心させてくれる翼だから》

「分かった。 お前が飽くまで、ずっと見せてやるよ」

《うん、ありがとう………》


 なのはが頷いてから、再び静寂に支配される。


「なのは、おやすみ」


 扉から背を離し、ヴィレイサーは歩きだした。


《ヴィレくん、待って!》


 しかし、なのはが呼び止めた事で、ヴィレイサーはその場に立ち止まる。


《“また、明日”ね》

「あぁ、“また明日”な」


 そして、今度こそヴィレイサーはなのはの部屋から離れた。

 ヴィレイサーと、改めて明日会う事を誓い、扉越しの会話は終わった。彼を見送りたい気もするが、恐らく、病室まで連れ添ったとして、彼はなのはが1人で部屋に戻る事を認めないだろう。送って、送られて………いたちごっこになるのは火を見るより明らかだった。なのはは、ヴィレイサーが去ったと思いながらも、目の前にある扉にそっと手を当てる。まるで、向こう側にいるヴィレイサーも、同じ事をしていると分かっているかの様に………。


「ヴィレくん………」


 彼の名を呟き、やがてなのはは扉から手を離し、ベッドに潜り込んで目を閉じた。胸にある温もりを感じながら。





◆◇◆◇◆





「ど、どうしよう………」


 翌朝。

 なのは、頭を悩ませていた。


(どんな顔をしてヴィレくんに会えばいいのかな?)


 昨晩は扉越しで済んだから良かったものの、今日は直接顔を合わせる事になる。それ故に、どんな顔をして彼と会えばいいか分からなかった。よくよく考えれば、ヴィレイサーは失明しているのでそこまで気にしなくても良いはずなのだが、今の彼女はそれすら気付けなかった・


「と、ともかく、行かないと!」


 これ以上ヴィレイサーを待たせる訳にもいかず、なのはは自室を出た。


「ふぇ………?」


 その瞬間、彼女の眼前にはヴィレイサーが立っていた。


「なのは?」

「な、ななな何で!?」


 ヴィレイサーが目の前にいる事を認識して、しかし冷静にはいられずに慌ててしまう。


「落ち着け、なのは」

「ぁ……う、うん」


 ヴィレイサーは溜め息混じりに彼女に落ち着く様に言い宥めると、ようやっと深呼吸をし始めた。


「吸って……吐いて」

「すぅー………はぁー」


 なのはの呼吸する音が聞こえたので、ヴィレイサーはそれに合わせる様にリズムを定める。


「吸って……吐いて………吐いて……吐いて………」

「苦しいよ!」


 ヴィレイサーのボケにも気が付かず、なのはは息を吐き続けたが、苦しさを覚えたところでようやっと理解し、怒りだした。


「いや、もっと早くに気付けよ」


 笑みを零すヴィレイサーにつられて、なのはもはにかむ。


「おはよう、なのは」

「……うん! おはよう、ヴィレくん♪」


 ヴィレイサーが挨拶をしてくれた─────それだけで、なのはは嬉しかった。


「来てくれて、ありがと」


 なのはに手を引かれながら外に向かう途中、彼女は唐突にそう言った。


「私、ヴィレくんとどんな顔をして会えばいいか分からなくて、ずっと悩んでいたの」

「俺、目が見えないのにか?」

「そ、それは! その………」


 言い淀むなのはは、足を止める。故に、ヴィレイサーも必然的に歩みを止めるしかない。そして、繋いだ手からは緊張を示す様に汗と強張りが感じられた。


「まさか、忘れてた……とか?」


 彼女の今の状態からそう察するのは容易かった。


「ち、違うの! わ、忘れていたりなんてしないよ!?」


 ヴィレイサーに言われた事が図星だったなのはは、あわてふためき、バタバタと忙しなく両手を振って否定する。


「ただ、その……そ、そう! 度忘れしちゃっただけなの!」

「もっと悪いだろ………」

「あ、あぅ………」


 ヴィレイサーの指摘に、なのはは真っ赤にした顔を誰にも見られぬ様に俯かせる。


「そ、それよりも! ヴィレくんはどうして、私の部屋の前にいたの?」


 話題を逸らすべく、なのははわざと大きな声で気になっていた事を問う。


「もしかして、心配してくれたの?」

「悪いかよ」


 心配した事を包み隠さず、ヴィレイサーはつっけんどんに返すのだった。


「悪くないよ。 とっても嬉しい」


 手を離し、なのははヴィレイサーを優しく抱き締める。


「ヴィレくん、ありがとうね」

「礼を言われるほどの事じゃない」

「うん………それでも、ありがとう」


 なのはの嬉しそうなその声を聞いてふと、ヴィレイサーは彼女が嬉しそうに笑んでいる姿を想像してみる。だが、もうそれは難しくなってしまった。


(どんな……顔だったっけ?)


 もう、なのはの笑顔がどんなものだったのか思い出せない。分かるのは、可愛らしい笑顔だったということだけ。


(なんだ………? 思い出せない………)


 しかし、見えるのはぼやけたなのはの顔。しかも、輪郭が浮かぶだけだ。


(忘れちまったのか……アイツの、顔………)


 心の底から、何かが込み上げてくる。


(笑顔も、驚いた顔も、泣き顔も……なにもかも、全部………)

「ヴィレ、くん?」


 気付いたら、泣いていた。見知った人の顔が、消えていく。その恐怖に、ヴィレイサーは初めて押し潰された。


「なのは……すまない」

「どうしたの?」

「すまない……すまない………!」


 何かに取りつかれたみたいに謝り続けるヴィレイサー。なのはは、そんな彼を優しく抱き締めるしか出来なかった。





◆◇◆◇◆





「ヴィレイサーはどう?」

「今は落ち着いて、ぐっすりです」


 シャマルに問われて、なのはは扉の向こう側で静かに眠っているであろうヴィレイサーを想像しながら答える。


「急に泣き出しちゃったらしいけど………」

「私の顔、忘れちゃったみたいで……多分、それが原因だと思います」

「そうなの」


 ずっと顔に触れてきたなのはの顔すらも忘れてしまったと言うのは、相当ショックだろう。


「治療出来ればいいんだけど、移植する角膜もないし、病院はどこもてんてこ舞いだから、こればかりはどうしようもないわね」


 シャマルも……否、シャマルだけではない。ほとんどの友が、空いた時間にヴィレイサーへの治療法を模索していた。だが、結局角膜移植を行うしか手立ては見出だせず、溜め息が零れるばかりだ。


「ヴィレくん………」


 とぼとぼとした足取りで、なのははどこか宛がある訳でもなく、六課を歩き回っていた。


「もう、ヴィレくんに思い出して貰えないんだ………」


 自分の顔を忘れないようにと、いつも優しく当てられた彼の手。今後はきっと、触れただけで互いに泣いてしまうだろう。

 ヴィレイサーは、【触れても思い出せないから】。

 なのはは、【彼に忘れられたから】。

 もしかしたら、触れて貰えることすらあり得なくなるかもしれない。そう思うと、とても悲しかった。


「……ふぅ」


 色々と考え過ぎて頭がパンクしてしまいそうだ。いつの間にか、庭のベンチに腰掛けていた。

 もうすぐ夕刻に迫ると言うことで、陽が傾き始めていた。


「少し、飛ぼうかな」


 空を飛ぶのが大好きだから、なのははレイジングハートに命じてバリアジャケットを展開して空を駆けた。


(うん、気持ちいい)


 飛翔し、天駆ける純白の光芒。風を一身に受けても平気な速度で飛行していく内に、ヴィレイサーのことで頭がいっぱいになっていく。


(ヴィレくん、もう一緒に飛んでくれないよね………)

《Master!!》

「え? わわっ!?」


 レイジングハートの焦りを滲ませた声でようやっと我に返った時、六課の隊舎に近づいていた。このまま直進を続けていたら、ぶつかっていただろう。


「危なかったぁ……ありがとうね、レイジングハート」

《Take care.》

「うん」


 改めて前を見据えて、あることを思い出す。


(そういえば、ヴィレくんを連れ添った時も、ぶつかりそうになっちゃったっけ)


 ヴィレイサーと一緒に空を飛んだのは、あれっきりだ。


「寂しいなぁ」


 気丈に言ったつもりだったが、目尻に浮かんでいた涙が零れた。頬を伝い、泣いていることを分からせてくる。


「ひっ、く……えぅ、うっ………」


 止まらない嗚咽。周囲に誰もいなくて良かったと思う反面、“彼”にすがることも出来ず、止められない。次第に大きくなっていく凄咽を堪えようとするが、言うことを聞いてくれない。本当はこのまま、わんわん泣き続けたいのに、“彼”に心配をかけさせたくないと必死になってしまう。だって─────。


(だって、私が泣いたら……ヴィレくんのこと、しっかり支えてあげられないから………!) 





◆◇◆◇◆





「泣きすぎちゃった」


 苦笑い混じりに言ってみるが、誰もいないから返事はない。気を利かせてくれたみんなとレイジングハートに謝辞を述べて、部屋に戻ることにする。泣きじゃくっていた所為で、辺りは宵闇に覆われて暗くなっていた。


「あ………」


 着地する手前で、なのははヴィレイサーが使っている病室を見る。灯りを点けておらず、真っ暗な一室。窓辺には、空に視線を向けている彼がいた。


「ヴィレくん」


 小さな声では聞こえないだろう。しかし、ゆっくりと窓に手を伸ばしていく。それに合わせて、ヴィレイサーも手を伸ばした。見えないはずなのに、互いの手は窓を隔てて結ばれた。





◆◇◆◇◆





「シャマル先生……お願いがあるんです」


 シャマルを前に、なのはは深々と頭を下げる。


「ダメよ……ダメ。そんなの、絶対にダメよ!」


 だが、シャマルは首を縦に振ることはなく、なのはがある結論に至ってしまったことに驚きと悲しみを抱く。


「なのはちゃん、貴女がそんなことをしたら、みんな悲しむわ。ヴィレイサーだって………!」

「でも、私が彼にしてあげられることは、これ以外にないんです。
 この方法を取ってからこそ、してあげられることがたくさんあるんです」


 頑ななのは、彼女も同じだった。互いに一歩も譲ろうとはせず、睨み合う。


「どうしたん?」


 そこへ顔を出してくれたのは、幸か不幸かはやてだった。もう、手当たり次第に頼んでいくしかないなのはは、いきなり頭を垂れる。


「はやてちゃん、お願いがあるの」

「なんや、改まって?」

「なのはちゃん!」


 シャマルの怒声に驚くはやて。だが、すぐに表情を真剣なものへと切り替えた。


「私の角膜を、ヴィレくんに移植して欲しいの」


 その言葉に、絶句する。本来、角膜の移植の際には亡くなった人のものを使う。生きている人に移植して貰えば、その提供者は失明してしまうのだ。


「それは絶対に認められん」

「はやてちゃん……でも………!」

「なのはちゃん!」


 尚もすがろうとするなのはを一喝したのは、今度ははやてだった。


「ヴィレくんのこと、大切にしているんは分かるよ。けど、それでなのはちゃんの目が見えなくなったって知ったら、ヴィレくん、どないすると思う?」

「それは………」


 彼も、自分と同じ気持ちを抱いてくれていると仮定するならば、かなり落ち込んでしまうだろう。


「分かったら、もう2度とそないなこと言わんといて」


 黙したなのはを一瞥して、はやてはシャマルと共に出ていく。


「なのはちゃんには悪いけど、しばらく危ないことしないか監視しておいた方がええかもしれへんな」


 溜め息混じりに言うはやての顔には、はっきりと苦悩の色があった。彼女とて、ヴィレイサーの視力を取り戻すためなら協力は惜しまない所存だ。だが、今回ばかりは何があっても力添えしたくない。なのはの視力を代価に、ヴィレイサーの視力を取り戻すなど無茶苦茶だ。


「はぁ………」


 もう1度だけ深い溜め息を吐いて、はやては部隊長室に戻った。


「やっぱり、ダメだよね」


 自分でもとんでもないことだとは思っていた。だが、彼にはどうしても自分の顔を忘れては欲しくなかったのだ。


「ヴィレくん……やだよぉ………」


 気付けば、自分はまた泣いていた。彼がいたらきっと、こう言うだろう。『お前はまた、泣いているんだな』。


「だって、ヴィレくんが泣かないから……だから、その分私が泣いているんだよ」


 いつも言ってきた答えを反芻して、なのはは伏せていた顔を上げる。


「……諦めないよ!」


 例えこの選択で総てが悲しい結果になろうとも、いつか彼が笑ってくれるのなら、何もかも糧にしてでも叶える所存だ。





◆◇◆◇◆





「……片目だけ、ね」


 はやてが聞かされたのは、片方の目にだけ角膜を移植すると言うものだった。


「これだけは絶対に譲らないよ」


 なんと言われようと、頑としてこの提案を呑ませるつもりのなのはは、真っ直ぐにはやてを見下ろす。


「なのはちゃん……この選択は絶対、後悔することになるで」


 はやての鋭い眼光に、なのはは思わず言葉を詰まらせる。


「今ももう、ずっと後悔しっぱなしだよ。だから、後悔だけで終わりたくないの!」


 互いに一歩も譲らず、頑なに退こうとしない。


「……ヴィレくんのこと、そんなに大事なんやな」


 やがて、はやては大仰に溜め息を吐いた。その表情には、苦笑い。


「うん。だって私、ヴィレくんのこと………」

「皆まで言わんでええよ」


 なのはの口元に手を当ててやんわりと制止する。


「せやけど、やっぱり認めることは出来ん」

「そんな………!」

「せめて……せめて、私に命令させてや」

「え?」


 立ち上がり、はやては頭を下げた。


「高町なのは一等空尉、ヴィレイサー=セウリオンへの角膜移植を願います」

「……はい! 高町なのは、承りました」


 はやての措置に感謝し、それを伝えようと口を開いた矢先、涙が零れてしまった。はやてだって、本当は苦しいのだ。なのに自分は、彼女に計らいまでさせてしまった。自分の我儘を叶えてくれたはやてに抱きつき、泣きわめく。そんななのはを、はやてはただただ優しく抱き締めていた。





◆◇◆◇◆





「角膜移植を?」

「うん。ただ、片目だけだから、どっちの目にするかちゃんと考えないとダメだよ?」

「あぁ」


 結局、ヴィレイサーには自分の角膜を移植することは伝えていない。どんな叱責を受けようとも構わない。彼の目が、見えるようになるのなら………。


「ヴィレくんは右利きだから、やっぱり右目が見えた方がいいのかな?」

「そうだな」

「じゃあ、右目に移植するって伝えてくるね」

「……なのは」

「なに?」

「お前、何か俺に隠していないか?」

「え………?」


 思わず足を止めて、振り返る。


「俺に、何か隠していないかと聞いているんだ」


 怒気はないが、威圧的で冷ややかな声色だった。思わずその場に立ち尽くしてしまい、なのははどうすればいいか分からず言葉を詰まらせる。


「やっぱり……隠し事、しているんだな」


 だが、その沈黙は肯定と同義となってしまった。顔を俯かせたままのなのはのことなど知らず、ヴィレイサーは溜め息をつく。


「何を隠している?」

「それは、その………」


 言えば、ヴィレイサーは治療を受けてくれない気がして、なのはは変わらずに黙っている。


「答えろ!」


 怒声が飛び、なのはは身を竦めてしまう。もう、ヴィレイサーを怒らせたくなかった。言わなくても、彼は『治療を受けない』と言ってしまいそうな勢いだ。


「あの……ね」


 やがてなのはは、とつとつと語っていく。自分の片目の角膜を移植したいこと。一緒にまた、空を飛びたいと願っていること。総てを、語った。


「なのは、お前……本当に、それでいいと思っているのか?」

「本当は、怖いよ……でも、だって………だって!」


 また泣いてしまった。彼の前では、自分はいつも泣き虫だ。


「なのは……っと!?」

「ヴィレくん!」


 ベッドから出たヴィレイサーは、なのはに近づく途中で足を縺れさせてしまう。慌てて、なのはが彼を抱き止めて、そのまま抱擁する。


「ヴィレ、くん?」

「なのは……すまない!」


 その時、自分の頬を何かが伝った。それは、一筋の雫。涙と言う名の結晶だった。


「俺……俺は………!」


 だが、それはなのはの涙ではない。ヴィレイサーの涙が、擦り寄せていた頬を伝ってきたのだ。


「俺は……本当は、なのはを怒らなきゃいけないのに………!」

「ヴィレくん………」

「なのに、なのに俺っ! なのはから視力を分けてもらえるって喜んで、なのはの顔を見られるって嬉しがって……なのはが辛いこと、まったく、考えていなかった………!」

「ううん、いいの。いいんだよ、ヴィレくん」


 彼も、苦しいのだ。再び色彩に満ちた世界を歩く………そうしたいだけなのに、こんなにも難しくなるとは思わなかった。


「だってヴィレくん、泣いてくれてるもん。それだけ私のこと、大事に想ってくれているってことだよ」

「なのは………」

「ヴィレくん……────」


 耳元で囁き、なのはは病室を出た。これ以上あの場に留まっていたら、自分も耐えきれず泣き出してしまっただろう。そして遂には、彼への角膜移植さえ止めてしまいそうだった。


「お願いします」


 治療室で待っていたシャマルを始めとする医務員に、深々と頭を下げた。




















「ヴィ〜レくん♪」

「っと」

「ふぇ!?」


 後ろから捕まえようと思っていた背中が、急に消えた。


「もう、避けなくてもいいじゃない」

「むやみやたらに抱き着いてくるなと、いつも言っているだろ」

「むぅ……ヴィヴィオには許可してるくせに」

「アイツはまだ子供だ」


 一蹴し、決して寄せ付けようとしないヴィレイサーの瞳。左目は濁りを湛えたままだったが、右目には光が戻っていた。なのはの角膜移植が成功したのだ。


「なのはママ、パパ!」


 地上から自分達を呼ぶ声が聞こえてきた。聞き親しんだその声は、愛娘のもの。なのはとヴィレイサーは手を繋いでおりていく。


「ぎゅ〜♪」


 着地した瞬間、ヴィヴィオは2人に駆け寄って両手をいっぱいに開き、抱き締める。


「じゃあ私も。ぎゅ〜♪」

「なのはママ、苦しいよ〜」


 きゃっきゃと無邪気に笑う2人を見て、ヴィレイサーは微笑する。だが、すぐにその笑みを消した。


(こうして笑顔を見られるのは、全部なのはのお陰だが……代償は、大きすぎたな)


 なのはの右目は、もう見えない。

 ヴィレイサーへの角膜移植のために、右目の角膜を失ったのだ。


「むに」

「なっ、なんだよ、いきなり」


 物思いに耽っていると、なのはに頬をつねられた。


「また、私の目のことを気にしているんでしょ、どうせ」

「……うるせぇ」


 図星だったから、ついぶっきらぼうに返してしまう。


「あのね、私の今の夢……なんだと思う?」

「知るかよ」

「もう……ちょっとは考えてから答えてよ」


 即答したヴィレイサーに膨れっ面で返しながら、なのははヴィヴィオを抱っこする。


「私の夢はね、ヴィレくんと一緒に空を飛んだり、ヴィレくんと一緒にヴィヴィオと遊んだり、ヴィレくんと一緒に……ずっと、幸せでいることだよ」


 満面の笑みで語られる夢(ねがい)。何も言わないヴィレイサーに怒るでもなく、なのはは言葉を紡いだ。


「だから、ヴィレくんも笑顔でいて」


 差し出された手。今は鮮明に捉えることが出来るそれは、果てしなく続く闇に呑まれた時からずっと探していた、温かくて、優しくて、自分を支えてくれるいとおしい手だ。


「……分かったよ」


 溜め息混じりに言い、頭を掻く。面と向かって『笑って』と言われると、なんだか気恥ずかしい。

 ヴィヴィオがザフィーラを視界に捉えたので、彼女はなのはに下ろしてもらって元気よく走り出した。それをしばし見詰めてから、なのはは再び手を差し出す。


「何だ?」

「さっき、繋いでくれなかったから」


 苦笑いしている彼女は、今一度言った。


「ヴィレくん、笑って。それで、一緒に幸せになろう」

「……あぁ」


 なのはの手を取り、そして彼女を自分の方に引っ張る。


「ふぇ!?」


 ヴィレイサーに抱き締められる形となって、僅かに頬を朱に染める。


「なのは」

「な、なに?」

「愛している」


 それ以外に、何を言えばいいのか分からなかったと言うのが本音だが、この気持ちに嘘偽りはない。


「私も、愛しているよ、ヴィレくん」


 何れまた、苦しい時が訪れるだろう。その時、泣いてしまうかもしれない。挫けてしまうかもしれない。

 だけど─────


「ヴィレくん……大好きだよ」


 ─────だけど、自分には最上の伴侶がいる。

 だから、大丈夫だ。

 幽風がそよぐ。風に優しく抱かれる中で、2人は最後の距離を詰めた。


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