「んっ、は! ぅんっ……くっ、うぅっ……!」
背中が、焼けるように熱い。まるで熱湯をじっくりとかけられているみたいに、強い熱が何度も肩と対角に伸びた一筋の線の上を行き来しているようだった。
「はぁ、はっ……! ヴィレイ、サー……!」
闇に伸ばされた華奢な腕。いつもは白磁のように白く美しい肌膚には、じっとりと多量の汗が滲んでいた。
「嫌…いや、ぁ……! 行かない、で……!」
その汗は留まるところを知らないのか、腕だけでは飽き足らず背中や額、胸や足にも広がっている。全身が、嫌な汗で濡れていた。
「…はっ、はぁ……」
やがて覚醒した時には、額に張り付いた金色の髪が鬱陶しく思えるほどだった。
(また、あの夢を見るなんて……)
カリムは、何気なく窓の外を見上げる。広がる闇に浮かぶ、大小様々な星々。そして、暗く冷たい闇を払うかのようにその存在を誇示するのは満月だった。明る過ぎる月華に、カリムは少し寒気を感じて身震いする。
「2時……」
時計を見ると、時刻は夜半を差していた。今日は早めに就寝したこともあって、5時間は眠れた。二度寝は、すぐにはできない。出来れば、汗を流してから寝たい。
「…はぁ」
部屋に備えられているバスルーム。聖王教会の騎士で、若くして時空管理局の理事官を勤めているだけあって、カリムは待遇がいい。それを妬む者は滅多にいない。古代ベルカ式の継承者でありながら、努力を怠らず、なにより誰にでも分け隔てなく接する彼女の仁徳の良さがそうさせるのだろう。
脱衣場で寝間着を脱ぎ、黒い上下の下着を外す。少し肌寒いが、温かなお湯を一身に浴びればそれもすぐに忘れる。
「ん……やっぱり、気のせいよね」
背中に手を伸ばすと、一筋の傷があった。そこに恐る恐る触れてみるが、先程まで感じていたはずの痛みは嘘のように消えている。それが、カリムにとっては心苦しかった。まだ悪夢に苛まれている事実が、自分と……なにより“彼”を傷つける。
カリムの背には、肩から対角線のように伸びている大きな傷跡があった。刃物によるその傷は、かなり深かったことを明かしている。
「…ふぅ」
シャワーだけ浴びて、カリムは丁寧に髪を拭いていく。水滴がバスタオルに拭われ、金色の長髪は明るさを取り戻していく。艶めかしい体躯も同様に、本来の美しさを宿していった。
黒い寝間着に袖を通し、ヴィレイサーを彷彿とさせる紫色のストールを羽織る。このまま寝ようかと思ったが、今日は満月だ。きっとヴィレイサーも目覚めるだろうと思い、カリムは夜風を浴びに外へと出ていく。あまり長居は出来ないが、なんとなく彼がもうすぐ起きてくる気がした。
「綺麗なはず……なのにね」
愁いを帯びた双眸が、冷たい光を放つ満月を捉える。春霞によって朧月へとなったそれは、カリムの心をざわつかせるには充分すぎた。
「…風邪をひくぞ」
声をかけられて、カリムは弾かれたように後ろを振り返る。そこにはヴィレイサーが立っていて、ロングコートを手渡してくれた。
「大丈夫。長居はしないから」
そう言いながらも、ロングコートを受け取った。自分が話したいと暗に訴えていることを察し、ヴィレイサーもカリムと同様に欄干に身を預ける。
「…眠れないのか?」
その問いに、カリムはどう答えようか迷ってしまった。嘘は言いたくなかったが、正直に答えれば彼は曲解して自分を苛むだろう。それを分かっていても、嘘を言って一時の幸福を手にするのは何か違う。
「違うの。偶々偶然、起きてしまって……」
言葉を選びながら答えたつもりだった。だが、ヴィレイサーは予想通り悲しそうな表情でカリムの顔を覗き込む。
「傷が、疼くのか?」
まただ。また、彼は総てを自分のせいにしようとしている。ヴィレイサーは“あの頃”から極端に罪に対する考えが強くなりすぎてしまった。
「大丈夫よ、ヴィレイサー」
果たして自分は、そんな彼に何をしてあげられるのだろうか。考えても、カリムには明確な答えが出せなかった。だから───。
「もう、怖くないから。だから、大丈夫だから……ね?」
優しく抱き締め、頭を撫で、ともかく甘やかすしかない。罪で自分を隠しきってしまうより早く、カリムが本当の彼を少しでも見つけださなくてはならない。この方法が間違っているかもしれない──そう思うと、急に怖くなっていく。ヴィレイサーが、もう手の届く場所からいなくなってしまうような恐怖が、カリムにはあった。
「…ん」
小さく返し、ヴィレイサーはすぐにカリムの抱擁から離れる。
「あ……」
寂しそうにするカリムを、彼は横目で一瞥しただけ。やはり、彼は随分と変わってしまった。だが、それでも抱いた気持ちは変わらない。彼にだけ向けている愛慕。それはいつの間にかカリムの中で芽生え、その存在を明確にしていた。
「ヴィレイサーは、怖い夢を見たの?」
「どうして、そう思うんだ?」
「寝汗が酷かったから」
「…悪い。気分を害したな」
「そんなことないわ。だから、そんなに思い詰めた顔をしてはダメよ」
優しく言い聞かせるように、カリムは両手でヴィレイサーの頬を左右から優しく包み込む。彼はそれに甘えたりせず、視線を逸らすだけ。
「満月の夜は、眠れない」
「…そう」
彼の言葉に、カリムは内心で同意する。彼女もまた、満月の夜は眠れないでいた。だがそれは教えられない。答えてしまったら、ヴィレイサーが更に自身を苛むと知っているから。
今から3年前の、新暦69年───。
カリムが罰を受けた日──その日は、今日みたいな満月だった。
◆◇◆◇◆
「どう、かしら?」
「とてもよくお似合いですよ、騎士カリム」
「ありがとう、シャッハ」
黒のセーターに、同じ色のキュロットスカート。本来、聖王教会の騎士たるカリムがスカートなど以ての外だが、今回は大目に見てくれたようだ。
「いいですか、ヴィレイサー? 騎士カリムをきちっと守ってください。それが、貴女の大事な責任なのですから」
「…了解」
「今回は別に任務ではないのだから、そこまで気負わなくていいのに……」
カリムが呆れるのも無理はない。今回は、せっかくの休日だ。仕事ではなく、プライベートで街まで出掛けるのだから、責や義務を意識しなくていいではないかと思ってしまう。
「案ずることはありませんよ、騎士カリム。プライベートなことは分かっていますから」
「良かった♪ エスコートをお願いね、ヴィレイサー」
「それは……期待しないで頂きたいですね」
苦笑いするが、彼はカリムにそっと手を差し出す。彼も黒で統一された衣服を纏っており、一見して重苦しい雰囲気を持っているが、カリムのように艶やかで美しい金髪がそれを廃している。
「では、参りましょうか」
「えぇ」
手を繋いで歩いていく2人の背を見送り、シャッハは溜め息を零す。
「これで、良かったのでしょうか……?」
「2人とも、分別は弁えているよ」
近づいていくカリムとヴィレイサーの距離。それを危惧するシャッハと、対してのんびりとしているヴェロッサ。2人とも、カリムとヴィレイサーが進み過ぎないことを信じてはいるが、それでも心配しないわけではない。
◆◇◆◇◆
「んー、楽しかった」
大きく伸びをして、カリムは息を吐きながら今日のことを振り返る。単に街を適当に散策し、アクセサリー店を覗いたり喫茶店に入ったりしたぐらいで、快活なことは特に何もしていない。それでも彼女は満足したらしく、隣に立つヴィレイサーも安堵する。
「それはなにより」
「ヴィレイサーは、楽しかった?」
「もちろん。ただ、カップルに間違われたことには驚いたけど」
喫茶店で、店員にカップル専用のメニューを勧められた時は流石に驚いた。しかも、カリムはメニューを変えるどころか件のカップル専用の品を注文したのだ。驚かされてばかりな1日だった。
「ヴィレイサーは、嫌だったかしら?」
「そんなわけ、ないだろ」
上目遣いに問われて、ヴィレイサーは頬を赤らめる。それを悟られまいと視線を逸らしたが、それが逆効果なのは言うまでもない。
「それより、そろそろ帰らないと流石にまずいんじゃないか?」
時刻は午後8時。あまり長居すると、今度の休みには外出許可が出されない可能性が高い。カリムのためにも、そろそろ帰宅した方がいいはずだ。
「お願い、もうちょっとだけだから」
「…しょうがないなぁ」
こうして甘やかしてしもうのも、好意故なのかもしれない。だとしたら、今後のために改めた方がいい。甘やかしてばかりでは、いずれ過ぎた行動を取ってしまうことだってある。それは避けたい。
「…綺麗」
カリムが感嘆の言葉を漏らす。その声につられて面を上げると、満月と星空が見えた。夜景のスポットでもありながら、高台に位置するここは星見にも適している。ただし、夜道は危険と言う意識もあって頂上まで足を運ぶ者は少ない。
「…あら?」
「どうした?」
怪訝な声がしたので振り返ると、カリムが女の子に駆け寄っていくのが目に入った。
(やれやれ……相変わらず行動の方が先、か)
困っている人を見ると、カリムは誰にも言わず行動することが多い。少し悩み所ではあるが、美点でもある。
「迷子になってしまったのですか?」
優しく声をかけると、泣きじゃくっていた少女はゆっくりと面を上げた。
「大丈夫ですよ。お姉さんとお兄さんが、ちゃんとお母さんの所まで案内しますから」
「…ほんと?」
「えぇ」
子供をあやすのも、何故か慣れていた。元からある母性がそうさせるのか、はたまたカリムの努力かは知らないが、ありがたい。自分では怖がられるのが関の山だ。
「…ん?」
そこでふと、ヴィレイサーは奥にある茂みに小さな光を見つけた。
「危ない!」
ヴィレイサーが叫んだのと、件の光が飛来したのはほぼ同時だった。
「…大丈夫か?」
「え、えぇ」
間一髪だった。放たれた魔力弾が着弾するより、ヴィレイサーがカリムの前に立った方が早かった。
「何者だ!」
茂みに問うが、返事はない。その代わりのつもりなのか、多数の魔力弾が飛来した。
(色は全て同じ……敵は1人か?)
このままでは埒があかない。愛機にエリアサーチを頼み、自分は魔力弾の回避に努める。
「ヴィレイサー!」
「大丈夫だ、案ずるな」
カリムから、既にシャッハへ連絡が通っているはずだ。防戦を強いられているが、エリアサーチが完了するかシャッハが来れば形勢は逆転するだろう。しかし───
《Error!》
「なにっ!?」
───エターナルからの回答は、まさかのエラー。どうやら、強いジャミングが発生しているようだ。
(流れの違法魔導師か!)
ジャミングと暗闇からの襲撃を得意とする魔導師が指名手配されていると、先日のニュースで聞いていたが、よもやこの辺りに潜伏しているとは思ってもいなかった。
(このままってのは、流石にまずいな……)
シャッハが来るまで大した時間はかからないと思っていたが、ジャミングが発生しているとなるとそうも言っていられない。
「え? な、何っ!?」
「カリム!?」
戸惑う声に振り向くと、カリムの体躯にバインドが施されていく。術者は、カリムが抱えている件の少女だ。
「しまった!」
共犯者だったと気付いた時には、ヴィレイサーが相手をしていた敵の魔力弾が彼女へと迫っていた。
「させるか!」
《Load Cartridge.》
カリムから教わった、移動系の魔法。遮蔽物があっても追尾できるだけでなく、移動速度も速い。カリムの前まで来ると、分厚いシールドを展開して魔力弾の到達を阻む。
「邪魔だ!」
次いで、カリムを捕縛している少女を足蹴する。
《Breaker.》
それと同時に、剣尖を当てていたバインドが音を立てて罅割れた。ヴィレイサーは、攻撃魔法よりもこう言った補助魔法に秀でている。シャッハとのバランスを考えた際、攻撃は彼女に任せて、ヴィレイサーはカリムを護衛することを優先するよう訓練されていた。
「退くぞ」
自分だけで戦うのは荷が勝ちすぎている。カリムを抱き抱え、高度を上げてやり過ごすために中空へ身を踊らせた。
「ヴィレイサー!」
「くっ!」
だが、少女がバインドを展開する方が早く、動きを翻弄される。それを逃すはずもなく、未だに茂みに隠れている仲間が、再び数多くの魔力弾を放った。
「チッ!」
カリムを抱えたままでは、大きく動き回れない。詰め将棋のように少しずつ、しかし確実に距離を詰められていく。
「あ……!」
耳元で、カリムが小さく声を上げた。彼女の眼前に迫る魔力弾を、ヴィレイサーは身を翻して立ち位置を逆にする。
「ぐあっ!」
「ヴィレイサー!」
最初から狙っていた一撃だったようで、その魔力弾は通常のものよりも強固に出来ていた。バランスを崩し、危うくカリムを離してしまいそうになる。
「カリ、ム……!」
なんとか繋いだ互いの手。しかし、それを認めまいとするように次弾が放たれた。ヴィレイサーの腕に当たり、痛みによって手が開かれた。重力に従って落下していく華奢な体躯を、冷たい風が撫でる。
「エターナル!」
愛機がすぐさま緩衝材を展開してくれた。カリムはその上に落下し、事なきを得た。だがそれは、本の束の間だけ。
「しまっ……!」
傍に降り立った瞬間、待っていたと言わんばかりに数多のバインドが包囲してきた。雁字搦めにされ、カリムはいつの間にか茂みから出てきた射手に捕まってしまう。
「上玉を連れてこんなとこに来た自分を恨みな」
如何にも柄の悪そうな男に、ヴィレイサーは怒りを募らせる。
「彼女を離してくれ」
「はっ! それが人に物を頼む態度かよ。
まぁ、そんな状態じゃあ土下座もできはしねぇか」
男はそれだけ言うと、カリムを品定めするかのようにじっくり眺める。
「いい女だな」
「触るな!」
「おいおい、そんなこと言うと逆効果だぜ」
ヴィレイサーが吠えても、全く動じる気配がない。彼は再びカリムに手を伸ばし──しかし、触れることは叶わなかった。
《Breaker.》
バインドを瞬時に破壊し、移動魔法を使ってスピードをつけると一気に距離を詰め、男の顔面に膝蹴りをくれてやる。
「カリム!」
吹っ飛んだ男を気にする暇などない。カリムの手を取り、走り出そうとする。その矢先、足が止まった。
(またバインドか!)
だが、足に施されたバインドは2種類だった。少女が施した方はすぐに破壊できるが、彼女とは違う魔力で構成された方は少し時間がかかる。
「やってくれたじゃねぇか、ガキが!」
はっとした時には既に、件の男が刀を手にヴィレイサーの目の前まで迫っていた。月華を照り返す刃。デバイスとしての飾り気がまったくない、人を殺めることに特化した刀だった。その一太刀で絶命するかもしれない──そう思うと、恐怖心がヴィレイサーの動きを無理矢理止めた。
「ヴィレイサー!」
それが誰の叫びだったのか、その時のヴィレイサーにはまったく分からなかった。目の前で広がる光景が、真実だと思いたくなかったがために、頭が勝手にそう錯覚させたのかもしれない。
「ぁ……カ、カリム……?」
舞い上がるのは、彼女が持つ美しい金色の髪だけではない。背中から溢れだした真っ赤な血が、満月を覆い隠すみたいに吹き出す。そのまま、糸が切れた操り人形のようにぐったりとヴィレイサーへと倒れこんだ。麗しい髪も、次第に赤く染まっていく。服もキュロットスカートも、血を吸って染みを作っていった。
「─……な!」
血刃を気にしない男が追撃の刃を振り下ろすより先に、ヴィレイサーが魔力で作ったスティレットを放つ方が速かった。
「やったな!」
たった1本だけ放たれたそれは、男の身体へと突き刺さった。しかし刺さった場所は、怯ませるための手足などではなく、心臓。心の底から殺意に呑まれたヴィレイサーには、一切の躊躇いなどなかった。
「カリム、しっかりしろ! もうすぐシャッハが来てくれる!」
少女の方にはバインドを厳重に施し、逃げられないようにしてある。男がリンカーコアを破壊された今、ジャミングも機能しなくなっただろう。
「ヴィ、ヴィレイサー……」
「カリム!」
ふるふると、弱々しく伸ばされた手。本当に細くて、あんなにも多量の仕事をこなせる力がこの小さな体躯のどこにあるのかと思ってしまう。
「だ、──……か、ら」
息苦しいのか、カリムの声はかなり小さい。聞き取ろうと、彼女の口元に耳を近づける。
「大丈夫、だから」
その瞬間、ヴィレイサーの中で何かが壊れた───。
◆◇◆◇◆
「…ヴィレイサー」
「シャッハ、か」
大聖堂に入ってきた相手を見ずに、ヴィレイサーはずっと視線を虚空へ彷徨わせていた。その双眸が何を捉えているのか、シャッハには分からなかった。
「騎士カリムの治療が終わりました。命に別状はありません」
「…ん」
短い返事。カリムのことを気にかけていない訳ではないのだろうが、彼らしくない素振りだ。
「ヴィレイサー、騎士カリムを守ってくださりありがとうございました」
「…何が、守っただ!」
大聖堂に声が木霊する。立ち上がり、振り返ったヴィレイサーの瞳には確かに怒りや憎しみが浮かんでいた。シャッハはそれに戦慄し、しかし逃げてはならないと決意し、彼と向き合う。
「あんなの、守ったと言えないだろう! 俺は、カリムを傷つけた……!」
「貴方の気持ちもわかります。ですが、ご自分を責めたところで騎士カリムの容体が変わったりはしません。
今は、ご自身を責めるよりもすべきことがあるのではないですか?」
「それでも……! だとしても、俺は!」
「…騎士カリムが目を覚ましたら、またここに伺います」
頭を下げて、シャッハは出て行った。ヴィレイサーは彼女に謝辞も謝罪も出来ぬまま見送ってしまう。後からそのことに気が付いたが、追いかけて言葉をかける気にはなれなかった。
「カリム……」
両手をきつく結び、ヴィレイサーは深く溜め息を吐く。自分のミスだ──それだけしか、考えることができなかった。カリムを守り通すことができなかった自分が、今もこうして聖王教会に身を置かせてもらっている配慮にまで考えが及ぶはずもなく、ヴィレイサーはどんどんと闇に誘われていく。
満月が雲に隠れ、大聖堂は一切の光を通さなくなった。黒一色に支配された暗中。ヴィレイサーは目を閉じ、カリムが斬られた時のことを思い出す。
(俺の、せいで……!)
倒れたカリムの感触を、今でもはっきりと思い出せる。暗闇の中で手を見ると、そこだけ血に濡れたかのように真っ赤に染まった気がした。
(これは罪だ……カリムを守り通す責を、義務を果たせなかった俺の罪だ)
幼少期に人を殺し、今度はカリムを傷つけた。もう、罪に塗れたことを認めるしかない。幾ら走っても抜け出せない真っ暗なトンネル。暗がりから幾つもの眼が、こちらを見ている。
『お前は罪深い』
『お前は大罪人だ』
そう、言われている気がした。
(逃げられないってことか……)
贖罪の意識があれば、懺悔すれば、それでいいと思っていた。赦してもらえるのだと思っていた。
しかし、誰かはそれを赦さないようだ。その誰かが神様か、はたまた聖王なのか。それとも現実なのか。そんなこと、分からない。分かったところで、どうしようもない。
「もう、逃げない……!」
罪から逃げられないのなら、受け入れよう。
記憶転写クローニング技術──プロジェクトF。その技術で生まれた時点で、自分は罪で穢れていたのだ。そして罪からは、もう逃れられない。ならば受け入れるのだ。ただひたすらに罪を認め、罪を受け入れる。そうすることが、カリムのためになる。
「恐れるな。罪を、飼い殺しにしろ……!」
内に秘めるものが怪物だと分かっているのなら、飼い殺しにできるはずだ。
カリムのために、この身を穢そう。罪を恐れず、飼い殺しにして、そしていつか訪れるであろう罰を──咎を受けよう。
満月の夜、ヴィレイサーは罪と罰を受け入れた。
それから3年が経過し、今に至る。
ヴィレイサーが変わったことに戸惑い、カリムは彼との距離が開いていくことが自身に齎された罰だとすぐに気付いた。それでも傍に居てくれることに少なからず安堵し、この繋がりが絶たれてしまわないよう躍起になる毎日だ。それが彼を縛り付けているのだと分かっていても、カリムは彼を離せないでいた。
「…もう戻った方がいい。風邪をひくと面倒だ」
「待って、ヴィレイサー」
踵を返しかけたヴィレイサーの腕をぎゅっと取り、離してしまわないよう必死に訴える。瞳が揺れ、涙が頬をゆっくりと流れ落ちた。振り返り、指でそっと涙をすくってやる。ヴィレイサーは黙ったままカリムを見詰め、カリムもまた、ヴィレイサーと視線を絡める。
「嫌……行っちゃ、嫌なの……」
「あまり我儘を言うものじゃない」
「でも……! 私、怖いの」
声が、繋いだ手が震える。それでも、ヴィレイサーは動じることはない。罪に穢れている今、カリムに甘えることも彼女を甘えさせることも赦されない。もう、彼女を好きになってはならないのだ。
「お願い……今日だけは、一緒に居て」
涙ぐむカリム。それを目の当たりにして、ヴィレイサーはつくづく自分が現金な人間だと実感した。
(俺は、まだまだ甘い)
結局、カリムを拒むことはできなかった。自分にはカリムが必要だと分かっている。だからこそ、自立の意を持たせてまで罪と罰を自身に叩き込んだはずなのに。
「…俺はソファーで寝るから、お前はベッドを使え」
「えぇ、ありがとう」
毛布を頭まで被ったカリム。すぐに、くぐもった声が聞こえてきた。
「どうして泣く?」
「分からない……分からないわよぉ……」
泣きじゃくる姿を見るのは、確かこれが2度目だ。
(前は、いつだったかな……?)
ぼんやりと考え、そして思い出す。彼女がこうも泣きじゃくったのは、確か事件から数日が経過してからだ。ヴィレイサーが変わり過ぎたと、自身を責め立てていた。自分のせいで変わってしまった。変えざるを得ない状況を作ってしまった──それに気が付いたカリムは、それから毎晩泣いていたと記憶している。
「泣くな」
なるべく優しく言い聞かせると、ヴィレイサーはカリムが眠るベッドに入り込む。前に泣きじゃくっていた時もこうしていたはずだ。
「お前の泣き顔なんて、見たくない」
後ろから抱き締めると、カリムはその腕をすぐに振り解いて胸に顔を埋めてきた。
「ヴィレイサー……ヴィレイサぁ……!」
「…あぁ、カリム」
お互いに罪と罰を受けた満月の夜が、今日も更けていく。
◆──────────◆
:あとがき
ヴィレイサーとカリムの過去編でした。
ヴィレイサーが殺意に呑まれたり、カリムが自分が怪我をしたせいで彼を変えてしまったり……などなど、2人にとって忘れてはならない、忘れられるはずのない出来事です。
このことを切っ掛けに、“今度こそ”カリムを守ることを誓ったヴィレイサー。
それが例えどんな手段であっても……そんな心持ちです。
もっとも、これをカリムが知っては当然ながら止めますし、彼女も葛藤することを避けられないでしょう。
なので、ヴィレイサーは距離を取ろうとしますが、その理由を話さないので却ってカリムは離れようとしませんが(笑)
次回は嘘予告と小話を1つ投稿する予定です。
なんだか本編進めずに寄り道してばかりですけど……いいですよね!
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