寒空に浮かぶ満月。外気と合わさって、冷徹に輝いている。
「うっ、はっ……! はぁ、は……はぁ……!」
ベッドで眠っていたヴィレイサーは飛び起きる。息苦しさが全身を支配していた。寝間着は汗を吸って濡れており、鬱陶しさが増していくばかりだ。
「また、か……!」
片手で頭を押さえ、苛立たしげに舌打ちする。汗は背中だけに留まらず、額や四肢にも多量の汗が滲んでいた。拭うことも、二度寝することもせず、ヴィレイサーは壁に背中を預ける。
(また、あの夢かよ……)
そう思いはするものの、ヴィレイサーはこの夢を見る気がしていた。満月の夜は、必ずと言っていいほど何度も見る悪夢。それは彼の罪を象徴するもので、カリムから言わせればヴィレイサーが変わってしまった切っ掛けでもある。
(あれから、3年か)
もう1度寝ようと思っても、眠れない。こういう時は、夜風でも浴びて気分を変えた方がいい。もうずっとそうしてきたから、自分がすべきことは分かっている。
「…カリム?」
窓の外に広がる夜天。そこに春霞を纏いながら浮かぶ朧月が憎い。そこから視線を下げると、小さな人影が見えた。この闇の中でも、それを振り払うほどに鮮烈な金色の髪。見慣れた華奢な背中。それがカリムだとすぐに分かった。
彼女はヴィレイサーと同様に月を見上げている。黒い寝間着に、ヘアバンドと同じ紫色のストールを羽織っていた。
(あいつも、あの夢を見たのか……)
拳を握る力が、更に強くなる。全身が強張り、息が詰まるのも構わずヴィレイサーは自身を苛んだ。カリムがああして起きているのは、自分のせいだ。彼女を壊したのは、誰であろう自分なのだから───。
(俺は……これからどうすべきなんだろうか?)
罪に穢れ、罪を更に背負い、やがて来るであろう咎に総てを委ねるつもりだった。なのに今は、それがまどろっこしい気がしてならない。カリムの傍に居て、彼女を守りとおすことが自分に科せられた、ただ唯一の贖罪の方法だと決め込んでいたのかもしれない。
「カリム」
「あ……ヴィレイサー」
欄干に両腕をついて空を見上げていたカリム。声をかけると、弾かれたようにヴィレイサーの方を向いた。申し訳なさそうに顔を伏せるカリムの頬に手を当て、面を上げさせる。
「…風邪をひくぞ」
「大丈夫。長居はしないから」
彼女の微笑みは、どこか儚げだった。無理をしているとまではいかないが、弱々しいのは間違いない。
「…眠れないのか?」
「違うの。偶々偶然、起きてしまって……」
「傷が、疼くのか?」
心配そうな表情で顔を覗き込むヴィレイサー。これが優しさではないことは、カリムにもよく分かっている。罪の意識──彼は、それが極端に強すぎる。
「大丈夫よ、ヴィレイサー」
そっとヴィレイサーを抱き寄せ、優しく頭を撫でてやる。彼の髪をそっと梳いて、言い聞かせる。甘えるように胸に顔を埋めたままのヴィレイサーは、何も返事をせずにカリムの言葉に耳を傾ける。
「もう、怖くないから。だから、大丈夫だから……ね?」
子供をあやすように、静かに、優しく語られる言の葉。このまま耳を傾けていれば、きっと自分を赦せる。だが、赦してはならない。赦したりしたら、罪を忘れてしまうかもしれないから。
「…ん」
しかし、それをカリムに悟られてはいけないのもまた事実。気のない返答だけして、カリムから離れる。
「あ……」
その際、彼女が少し寂しそうにしたのはきっと、自分の願望だろう。
「…ヴィレイサーは、怖い夢を見たの?」
「どうして、そう思うんだ?」
「寝汗が酷かったから」
「…悪い。気分を害したな」
「そんなことないわ。だから、そんなに思い詰めた顔をしてはダメよ」
頬を、温い手が左右から包み込んだ。笑いかけるカリムに、ヴィレイサーはぎこちない笑みを浮かべるよりはましと、視線を逸らした。
「満月の夜は、眠れない」
「…そう」
悲しそうにするのは、ヴィレイサーがあの時のことを未だに罪だと認識していると知ったから。
今から3年前の、新暦69年───。
ヴィレイサーが罪を背負った日──その日は、今日みたいな満月だった。
◆◇◆◇◆
「ねぇ、ヴィレイサー」
「何でしょうか?」
「私、また外に出たいわ」
「…はぁ、またですか……」
カリムの言葉に、ヴィレイサーは大仰に溜め息を零す。
新暦69年の10月───。
この頃のヴィレイサーはまだ、カリムに対して柔和な態度を取れていた。彼女の底抜けの明るさと、シャッハの指導。そしてヴェロッサの言葉巧みな話術。それぞれが作用していたと考えていいだろう。差し金にかかったと言われても否定できないが、別に恨んでなどいない。もし3人の協力がなかったら、間違いなく沈んだままだっただろう。カリムの世話係をする以上、それは流石にまずい。
「騎士カリム、それは流石に……」
「むぅ……」
「? どうかなさいましたか、騎士カリム?」
「二人きりの時は、騎士とつけないでと言ったでしょ?」
「そ、それはそうですが……」
「ふーんだ。二人きりの時まで『騎士カリム』と呼ぶ人の言うことなんて聞きません」
「…分かり、じゃなくて……分かったよ、カリム」
カリムの命令にはどうしても逆らえない。元から逆らう気などないが、やはり相手は立場のある人間だ。この接し方が日常にまで浸透してしまうのはあまりよくない。
「それでいいわ、ヴィレイサー」
とは言え、彼女の笑みに勝るものはない。ヴィレイサーはいつからか、カリムに淡い恋心を抱いていた。シャッハとヴェロッサには既に知られている可能性が高いが、カリム本人には直隠しにする必要がある。知られたら最後、彼女の傍に置いてもらえなくなる。
「だけど、外に出るなんて無茶だよ。こないだは偶々偶然、うまくいっただけで……」
「それじゃあ……今度はロッサも一緒にしましょう。ロッサなら、必ず協力してくれるはずよ」
「ダメだって。幾らなんでも無茶が過ぎる」
駄々を捏ねるカリムを諭すのも骨が折れる。シャッハに頼み込んでもいいのかもしれないが、そうなると既に外へ連れ出してしまった過去が露呈してしまう可能性も否定できない。彼女に頼るのは、最後の手段にしておこう。
「ヴィレイサーの意地悪……」
「ほら、そうやって剥れていると可愛い顔が台無しだよ」
「も、もう! すぐそうやって私を困らせるんだから……」
「ご、ごめん。嫌、だったよね」
目を伏せるヴィレイサーに、カリムは頬を益々赤くしながら否定を示すように首を振る。
「嫌なんかじゃ、ないわ……」
「え?」
「うぅ……2度も言わせないで!」
「うわっ!?」
うまく聞き取れなかったので聞き返したのだが、そんなヴィレイサーに向かってクッションが飛来する。彼女なりの照れ隠しだと分かっていても、やはり驚いてしまう。
「…騎士カリム、ヴィレイサー、よろしいですか?」
「あ、はい」
「どうぞ、シャッハ」
聞こえてきた声に、2人は慌てて身を正す。特にヴィレイサーは、カリムが投げたクッションを定位置に戻す作業もあったので急いだ。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
「…では、お邪魔になっては悪いので」
ヴィレイサーは頭を下げ、部屋を後にする。大きな柱時計に目を移してからの行動だったので、カリムは彼の行先に心当たりがあった。
「今日も、なのね」
シャッハも、ヴィレイサーの行方は分かっているのでカリムに無言で頷くだけにしておく。紅茶を注ぐ音が嫌に大きく聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
「…シャッハ」
「はい?」
「私、ヴィレイサーに何かしてあげられることはないのかしら?」
「…それは、私が決めてしまっていいのでしょうか」
「え?」
「騎士カリム、彼を救えるのは貴女だけだと、私はそう思っています」
「シャッハ……」
「口が過ぎましたね。私も、これで失礼します」
恭しく頭を下げ、彼女も部屋を出ていく。急に1人になったカリムは、普段なら傍で待機してくれているであろうヴィレイサーがいないこともあって寂しくなっていく。
(多分、大聖堂にいるわよね)
仕事はある程度片付いている。今から抜け出しても怒られはしないだろう。カリムは扉をそっと開けると、周囲に誰もいないことを確認してからそそくさと部屋を後にして大聖堂へと駆けて行った。
◆◇◆◇◆
「やぁ、ヴィレイサー」
「…ヴェロッサ」
ヴィレイサーは大聖堂へ向かう途中で、ヴェロッサと出くわす。彼はいつもの笑みを浮かべており、全てを見透かしているようだった。
「…失敬」
「口調のことかい? 別に気にしなくていいと言っているだろう。僕は気にしないしね」
ヴェロッサはヴィレイサーの肩を軽く叩き、彼はさっさと歩いていく。言葉は交わさずとも、互いに信頼していることもあってヴィレイサーの行先はもちろん予想がついた。理由は知らないが、お互いに干渉しないことが暗黙の了解でもある。
「…静かだな」
大聖堂の重たい扉を開けると、木製の扉が音を立てる。大聖堂の荘厳な空気が、その音を奏でるみたく響き渡った。
溜め息を零し、教壇の前まで来ると片膝をついて両手をきつく結び、目を閉じる。聖王教会に案内されてからずっと、毎日欠かさず行ってきた懺悔。それは贖罪するだけではなく、自身の罪を忘れないため。
9年前の、新暦60年、冬───。
子息に万が一のことがあったら、と言う危惧からプロジェクトFによって命を得たネクスは、蝋燭を床に倒して屋敷を火災で焼失させた。その後、彼は行く当てもないままに彷徨い歩き、やがてカリムと巡り合う。
雪原を思わせるほど広々とした庭にいつの間にか入り込んだ彼は、窓辺から降り立ったカリムをまるで天使のように見紛った。彼女の家に拾われ、そこでネクスと言う名を捨て去った彼はカリムからヴィレイサーと言う名を授かる。
居候させてもらうこともあり、彼女の世話係を任命される。聖王教会に関わりが深い家だっただけに、数多くの書籍が収められている書庫には罪や贖罪に関するものも多々残されていた。
それを読み進める度に、ヴィレイサーは罪を意識していくようになった。元々考え方や感性が他者よりも少々特殊だった彼は、余計に自分を苛んでいくこととなる。幼い頃は、よくカリムやヴェロッサに心配されたが、今はそれを悟られないように努める術も身に着けた。未だに、罪を意識して生きていかなければならない気がする彼は、贖罪の術を見出せずにいることもあって、こうして大聖堂で懺悔する毎日だ。
(どうすればいいんだ……)
足掻いて、もがいて……罪の意識から逃れたいだけなのかもしれない。そうだとしたら、自分はよほど罪深い人間だ。カリムに罪を告白すると言う手立ても考えたが、彼女に拒絶されるのが怖くて、ずっと言い出せないでいた。彼ら彼女らが優しくしてくれる度に、言い出せなくなっていく自分がいることにも気が付いている。だが、どうすることも出来ないのだ。
(どこまで罪深くなっていくのやら……)
考えても出てこないのは分かっている。分かっていても、考えずにはいられなかった。
だから、自分なりの答えが見出せるまではカリムの世話係を全うしようと決めた。彼女に笑んでもらえるだけで嬉しい気持ちがあるのだから、辛くてもやっていけると思っている。
(けど、まさか好きになるなんてな)
よもやカリムに恋慕を抱いてしまうとは思いもしなかったが。いつの間にか惹かれていき、気付いた時には彼女の傍に居たいと願うようになっていた。世話係としての立場を忘れてはならない。想いを伝えたら、きっと自分はまた何処かへと身を投じるだろう。そうなったら、今度こそ死してしまう。
懺悔を終えて立ち上がり、振り向くと扉が僅かだが開かれていた。そこから覗いている相手の見当は簡単につく。
「…盗み見はよくないぞ、カリム」
「ご、ごめんなさい」
すぐに申し訳なさそうにしながら、カリムがひょっこり顔を覗かせる。ヴィレイサーは苦笑いして彼女の傍まで行くと、その綺麗な手を取って室内に招き入れる。
「また、懺悔していたの?」
「まぁ、色々と罪深いから」
家を焼失させたこと。そして、カリムを好きになったこと。恋慕を抱いただけで罪と言うのも極端な話だが、彼女と結ばれたいと思うあまり躍起になる時が多々ある。先程、招き入れた時に手を繋いだのも、そうだ。
「大丈夫。ヴィレイサーは優しいから、きっと神様も聖王様も赦してくださるわ」
「そうだといいけど……」
並んで木製の長椅子に座り、ステンドグラスの窓を眺める。外から差し込む陽光が、色彩豊かになって床を彩った。
「毎日しなくてもいいと思うのだけれど……」
「カリムだって、毎朝お祈りとかしているだろ? それと一緒だよ」
「生活の一部……そういうこと?」
「あぁ」
顎に指をあてて、「うーん」と唸る。納得したような、そうでもないような微妙な表情だ。
「俺がしたいと思っていることだから、カリムは気にしなくてもいいよ」
「そう。でも、苦しい時は言って。ヴィレイサーが辛い時、傍に居て支えてあげたいから」
「…ん、ありがとう」
そう言われると、つい期待してしまいそうになる。カリムも、もしかしたら自分のことを───。
「ねぇ、ヴィレイサー」
「何?」
「今度のお休みの日、一緒に街へ行かない?」
「え? 一緒に……?」
「えぇ」
ヴィレイサーは自分とカリムを交互に指さす。すると彼女は、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「分かった。一緒に行こう」
「約束よ、ヴィレイサー」
「もちろん」
小指を出して、2人は指切りをして約束をより強固に契った。
この休日に、2人の今後が大きく変わってしまうことなど知らずに───。
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