ぽかぽかと温かな日差しが室内を照らしている。その日差しを一身に浴びてすやすやと昼寝をしているヴィヴィオを一瞥し、なのははキッチンへ向かった。
機動六課の解散後、こうして手ごろな一軒家を見つけて住んでいるのだが、まだ住み始めたばかりなので慣れないことも多い。なにより、なのはは今片目が見えていない状態にある。そんなに遜色ないと思っていた新居での生活だが、意外と大変だと思い知らされて若干後悔しているものの、この幸せを手放そうとは思わない。
「さて、今日こそ……!」
意気込むなのはの周囲には、お菓子作りのための材料が置いてある。今日はなるべく早く帰ると言ってくれた彼氏のためにチョコレートクッキーを作ろうと思い立ったのだ。実家が喫茶店と言うこともあり、お菓子を作るのは好きだし得意でもある。そしていざ作ろうと決意したのだが、実は片目が見えていないせいでことごとく失敗していたりするのは、彼女とその友人しか知らない事実だ。
「まずは……」
慣れた手つきで材料をボウルに入れていく。最初の頃はいきなりここでボウルに材料の入った袋を引っかけたりして床が大惨事になったりしたが、今回はうまくいきそうだ。誰もいないのについ自慢げになってしまう。恋人が帰宅したら、きっとさぞ自慢するに違いない。そして彼は苦笑いしながらも、なんだかんだで褒めてくれるはずだ。
(私、まだまだ子供っぽいよね)
周りはきっとそんなことでと思うかもしれないが、やはり嬉しかったことを話して、それを受け入れてくれたり褒めてくれたりするのはとても嬉しい。そうしてくれる彼を好きになって、本当に良かったと思う。
「ふんふふ〜ん♪」
鼻歌交じりに材料を加え、丁寧に混ぜ合わせていく。だが、少し注意を怠るといくらか零れてしまうのでここも慎重に、かつ確実にやっていかなくてはならない。
「よし、後は……」
クッキングシートの上に少しずつ生地を置き、形が崩れてしまわないようスプーンでせっせと整えていく。そしていざ新しい分を作ろうとした矢先───
「あっ……!」
───純ココアの入った袋に手を引っかけ、落としてしまった。
「や、やっちゃったぁ……」
床には大量にぶちまけられてしまったココアが。なのははそれを落胆しながら見ていたが、こうしていても仕方がないと思い直し、掃除すべくキッチンを離れることに。
(その前に、エプロン取ろうっと)
また何かに引っかかってはいけないと考えて外したエプロンは、しかし服の裾に紐が絡まっていたのか、なのはが歩くにつれて徐々に引っ張られる。それに気づかずにいたせいで、戻ってきた時に牛乳パックが床に倒れていた大参事を目の当たりにするとは、この時思いもしなかったことだろう。
◆◇◆◇◆
「あのなぁ、なのはちゃん。意地張らんと、手伝って欲しいって言うべきやって、私何度も言ったと思うんやけど?」
「うぅ……だ、だって……」
「だってやあらへんよ……こんなことになってから呼び出されても、困るやん」
「ご、ごめんなさい……」
これ以上失敗してはまずいと思い、慌ててはやてに来てもらったのだが、大参事を目撃されてしまい、こうして苦言を呈されていた。
「ヴィレイサーへの贈り物やから自分で頑張りたい言うんは分かるけど、流石に頼る時は頼ってな?」
「以後気を付けます」
はやてに釘を差され、なのはは完全に気落ちしてしまう。
「……なぁ、なのはちゃん」
「なぁに?」
「…例の話、受けないん?」
片づけをしていたなのはの手が、ぴたりと止まった。面は上げず、ただただ黙りこんだ。はやては彼女の言葉を待ち続けるが、催促はしない。
「…嬉しい話だと思うよ。
でもやっぱり、私だけって言うのは……なんていうか、ずるい気がするから」
「せやけど、ヴィレイサーはもう……」
「…うん。それでも、ね。
私はヴィレくんのことが、好きだから」
2年前───。
機動六課の解散直後、なのはの恋人であるヴィレイサーは突如として視力を失ってしまった。愛する人が苦しんでいるのを目の当たりにしたなのはは、自らの右目の角膜を移植するよう進言し、そしてそれは受け入れられた。
今は2人とも片目だけが見えている状態だが、ヴィレイサーは傭兵として長くやっていただけに、仕事に復帰するのも早かった。それに対してなのははと言うと、視界が半分なくなった状態で戦技教導官を続けるのは不可能と判断し、退職を願い出ていた。しかしデスクワークならばできるからと上司に引き止められたものの、ヴィヴィオを1人にしておくことに酷く不安を覚えたため、なるべく家にいられる時間をもらっている。
そしてはやての言う例の話と言うのは、なのはが新たに角膜移植を受けられると言うことだ。だが、なのはは自分だけが視力を取り戻すのが嫌だった。ヴィレイサーはもう角膜を移植しても視力が戻らないから、どうしてもその話に乗れなかったのだ。
「…ほな、頑張って作っていこうか」
「お願いします、はやて先生♪」
これ以上は何も言うまい──はやてはそう決めて、手際よく進めていく。そんな親友の優しさに、なのはも嬉しそうに微笑んだ。
◆◇◆◇◆
数時間かけて多数の焼き菓子を作り終えると、ヴィヴィオがぱたぱたと駆けてきた。どうやら甘いお菓子の香りに誘われたようだが、それだけではないのはなのはが一番よく分かっている。
「なのはママ、パパは?」
「遅くなるってメールもないし、いつも通りそろそろ帰ってくるはずだよ」
なのはがちらりと壁にかけられた時計を見ると、そろそろヴィレイサーが戻ってくる時間になっていた。
焼き菓子が間に合ってよかった──そう安堵していると、足音と共に玄関の扉が開く音がした。ヴィヴィオは一目散に玄関へ向かい、なのはも嬉しそうな笑みを浮かべて後に続く。
「パパ!」
「おかえりなさい、ヴィレくん」
「あぁ、ただいま」
紫銀色の髪を一条に束ねた恋人──ヴィレイサーが帰宅した。屈んだ彼に抱き着くヴィヴィオを見て、なのははいつものように羨ましそうな視線を送る。それに気が付いたヴィレイサーは、苦笑いして彼女に向かって手招きをする。
「えへへ♪」
「ったく、大人の癖に手のかかる奴だな」
「…ダメ?」
「そんなこと、言うはずがないし、なにより……思うことすらないよ」
やがてなのはとヴィヴィオを離し、洗面台へ向かう。なのはも彼についていくため、ヴィヴィオにリビングで待っているよう伝える。
「…どうしてついてくるんだよ」
「だって……最近、時間合わないことが多いし」
ヴィレイサーが手を洗っていると、なのはは彼に甘えるように後ろからぎゅっと抱き着いてきた。長いサイドテールが垂れ、女性特有の甘い香りがほのかに香る。
「甘えん坊だな、相変わらず」
「うぅ……子供っぽくて、ごめんね」
「……別に」
「え?」
「甘えられるの、別に嫌いじゃねぇよ」
「…ふふっ、ありがと♪」
甘えることを認めてもらったのが余程嬉しかったのか、なのはは更にぎゅっと抱き着いてきた。やれやれと思いつつも、ヴィレイサーはその心地好さに頬を緩める。
やがてリビングに戻ると、ヴィヴィオが足をぶらぶらさせて待っていた。なのはが作った焼き菓子を前にして、食べていいと言われるのを今か今かと楽しみにしているのがよく分かる。
「随分と作ったんだな」
「にゃはは……久しぶりだったから、つい張り切っちゃって、ね」
「それはいいが……手伝ってくれた奴にはちゃんとお礼を言ったんだろうな?」
「もちろん。はやてちゃんにもお裾分けしたし」
「じゃあ……いただきます」
「いただきま〜す♪」
「はい、召し上がれ〜♪」
美味しそうにマフィンを食べるヴィヴィオの口周りを時折拭いたりしつつ、なのはもクッキーを手に取る。
「はい、ヴィレくん。あーんして」
「断る」
「そんなこと言わないで……ね?」
「パパ、私もあーん♪」
「……分かったよ」
なのはとヴィヴィオの2人が満面の笑みで焼き菓子を向けている。このまま断っていても、2人は引き下がらないだろう。溜め息を零し、ヴィヴィオが差し出しているマフィンを一口。
「はい、終わり」
「えーっ!? 毎回ヴィヴィオだけ甘えさせて、ずるいよぉ!」
「うるさい」
なのはから食べさせてもらうのはどうにも恥ずかしくて仕方がない。だから、ヴィレイサーは彼女の甘えをあまり受け入れようとしなかった。そういうつっけんどんなところも好きではあるが、ちょっぴりさびしい気持ちもある。
「うー……ヴィレくんのケチ!」
「おい、痛いっての!」
腹いせにテーブルの下で足を蹴ってくるなのは。やり返すとますます怒るので、ここは仕方なく受けておくことに。ヴィヴィオはまったく気にする気配がなく、次はパウンドケーキに手を出していた。
「なのはママ、ごちそうさま」
「美味しかった?」
「うん、とっても♪」
「じゃあまた作ってあげる」
「えへへ」
ヴィヴィオは椅子からひょいと下りると、2階にある自分の部屋へと戻って行った。どうやら勉強するようだ。
「勉強熱心だな」
「ねー。ヴィレくんは、小さい頃どうだったの?」
「宿題しかやらなかった。予習と復習なんてしたことないな」
「そうなんだ。でも成績、良かったよね」
「まぁ授業を真面目に受けていれば誰だって同じだ」
「嫌味にしか聞こえないよ……」
「お前は文系が酷いみたいだし、ちゃんと勉強していたのかよ?」
「し、していたよ! マルチタスクの練習もちょこちょこやっていたけど」
「主にそれのせいだろ」
呆れて溜め息を零されてしまった。剥れるなのはに、ヴィレイサーは特に詫びることもなくクッキーに手を伸ばす。そして剥れているなのはの口へ食べさせる。
「むっ……」
「美味しくできているよ」
「…当然だよ。頑張ったんだもん」
席を立ち、ヴィレイサーの膝の上に座ると後ろから手が伸び、華奢な身体をぎゅっと抱き締められた。
「なのは」
「うん?」
「あったかいな、お前」
「そうかな? でも、もしそうなら……ヴィレくんが私をドキドキさせるからだよ」
「……ドキドキしているのか?」
「にゃっ!? そんな耳を当てなくても……!」
背中にヴィレイサーの頭が押し付けられ、なのはは余計にドキドキしてしまう。それがヴィレイサーに聞かれてしまっていると思うと、心音は落ち着いてくれるはずもない。
「もう、いつも意地悪ばっかりなんだから……」
「お前がそうさせるんだよ」
「またそんなこと言って……何でそうなるの?」
「……可愛いから」
「…そ、そっか」
理由を問われてしばらく黙していたが、素直に答えてくれた。しかし声色からして照れていると分かり、なのはも一緒になって照れてしまう。
「そ、そうだ。まだパウンドケーキ食べていないでしょ? 今度こそ食べさせてあげる」
「はいはい」
1度ヴィレイサーから下りたなのはだったが、お皿とフォークを持ってくるとまた先程と同じように彼の膝の上へと腰掛けた。しかも今度は向かい合った状態で。なのはの背中はテーブルが支えているとは言え、聊か危うい。
「はい、あーん♪」
「ん」
恥ずかしくはあるが、ヴィヴィオがいないので彼女の甘えにも従える。なのはは気分を良くしたのか、新たにチョコレートクッキーを手に取ると、それを咥えてずいっとヴィレイサーに近づいた。
「んっ!」
「…マジ?」
「うん」
なのはは口にクッキーを咥えたまま、目を閉じて待っている。自分からしてくれればいいのに、わざわざヴィレイサーの方からさせようとするところが妙にあざとい。しかしヴィレイサーは彼女の予想に反してまったく動こうとしない。
(ま、まだかな?)
次第に待っている方が恥ずかしくなってきた。恐る恐る目を開くと、ヴィレイサーはまじまじとなのはを見ていた。
「な、何?」
思わずクッキーを離し、問いかける。しかし彼は「いや」と返すだけ。
「なんか可愛かったから、つい見惚れていた」
「うぅ、待っている方としては恥ずかしかったんだからね?」
「それなら写真におさめておくべきだったかもな」
「もう! ほら、今度こそ……食べて」
再び口に咥えたなのはだったが、ヴィレイサーはそれを器用に先だけ咥え、そのまま引っ張って口内へ呑み込んでしまった。
「あっ……!」
「え、何?」
意図を察してくれなかった──その事実に、なのはは落胆する。
「その……ポッキーゲームみたいなことができればなぁと思っていたから」
「あー……で、クッキーで代用したわけか」
「うん」
「……お前、俺がそういうまどろっこしいことあまり好きじゃないの、知っているだろ」
言うが早いか、ヴィレイサーはなのはの後頭部に手を回して引き寄せた。そしてそっと唇を重ねる。驚いてすぐに離れようとするかと思っていたが、なのはもヴィレイサーの首に回してある手を後頭部に移し、しばらくお互いの唇の柔らかさを感じ合う。
「んっ……はぁ、びっくりしたぁ」
「嘘つけ」
「う、嘘じゃないよ。びっくりしたのは本当。
でも、離れちゃやだって思って……」
「…なぁ」
「うん?」
「もう1回、いいか?」
「ふぇっ!?」
「いや、久しぶりだったし……」
「そ、それはヴィレくんがさせてくれないからでしょ!」
「ヴィヴィオがいるから恥ずかしいんだよ!」
「じゃあ……1回だけだからね」
恥ずかしい気持ちは分かるし、なによりなのはも1度きりで終わるのは嫌だった。再びゆっくりと、優しく唇を重ねる。先程よりも早く離れたが、なのはは恥ずかしくなってついと顔を逸らした。
「なのは……少し話があるんだが、いいか?」
「え? あ……うん」
席を立ち、ソファーに座り直す。ただし今度はヴィレイサーの膝の上ではなく、隣り合った状態で。
「お前に角膜移植の話が持ち上がっていること、フェイトに聞いたんだが……受ける気、ないのか?」
「…うん」
「俺だけ片目しか見えていないのが嫌だ……そんなところか?」
「凄いね。ヴィレくんには何でも御見通しなんだなぁ」
「凄くないって。それに、なんとなく言っただけだし……。
なのは、俺はお前に移植を受けて欲しいと思う。俺からすれば、お前が片目しか見えないことの方が辛いんだ」
「ヴィレくん……」
ヴィレイサーの言うことは痛いほど分かる。だが、お互いに中々譲れないだけに、どうしても吹っ切れない。
「なのは……頼む、移植手術を受けてくれ」
「でも……」
「そりゃあ、さ……今から仕事に戻れば、ヴィヴィオが1人の時間が増えるとか心配があるのは分かるけど、それでもまだ、空への想いは捨てていないんだろ?」
「……うん」
空を飛びたい──幼い頃から空戦魔導師としてやってきたが、この気持ちが変わることはなかった。当たり前になってしまった、空を飛ぶこと。今はもう危ういと言うことで断ってきたが、唐突に奪われた当たり前の出来事への気持ちはそれまで以上に大きなものとなっている。
「なのは」
「ヴィレくん……」
もう少し──もう少しだけ、我儘になってもいいのだろうか。不安に手が震える。それにすぐ気が付いたヴィレイサーが、そっとその手を握った。
「いいの、かな? 私、また我儘言って……」
「今回は、お前だけの我儘じゃないんだ。俺の我儘でもある……」
「私……」
「急ぐ必要はない。けど……前向きに考えてみてくれ」
なのはを抱き寄せて、ヴィレイサーはそっと目を閉じる。
(そうだよ……もう、気持ちは決まっていたんだ)
本当はどうしたいのか分かっていたのに、どうしても不安が勝ってしまい、ずっと気付かない振りをしていた。
(ごめんね、ヴィレくん……でも、ありがとう)
いつも肝心な所で踏み出せない一歩。それをただ踏み出させるのではなく、一緒に進もうとしてくれる大切な恋人にキスをして、共に眠りについた。
次に目を覚ましたら、こう言うのだ。『私、移植を受けるよ』──と。
◆──────────◆
:あとがき
なのはとヴィレイサー、久しぶりに書いたので違和感あったらすみません……。
角膜移植の話が上がっていながら、不安から受けることができませんでしたが、ラストで受けることを決めさせました。
オッドアイになるとは思いますが、どういう感じになるかは決めておりません(苦笑)
そもそも果たして2人の次の話があるかどうか……。
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