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忍びも歩けば棒に当たる
心が折れる音がした



 伸ばされる手は、火縄銃を自在に操るだけあって女人にしては大きい。それでも父親や照星と比べれば一回りも二回りも小さく、爪は綺麗に手入れされ、握るとふくりとしている。それなのにその手は虎若を力強く岩場の上に引き上げた。

「虎若、平気?」

 虎若は肩で息をし、汗を拭う。螢火は虎若が担ぐ番筒より重い士筒を肩に担ぎ、額に汗こそ滲んでいるが悠々とした様子で、それを見た虎若は内心で溜息をこぼす。照星さんも、父親も、田村先輩も、螢火も、追いつきたい気持ちばかりで、体がちっともついてこない。

「はい」

 答えると、思いの外素っ気ない風になった。螢火が困ったように微笑むので、虎若は慌てて続ける。

「本当は、僕が螢火先生の火縄銃を運ばなきゃないのに」
「どうして?」
「だって、螢火先生が照星さんにそうしてるから」

 虎若が言うと、螢火は口の端を片方だけ吊り上げ眉尻を下げ、あの人は人使いが荒いんだよなぁとぼやいた。
 そういうところが、虎若は、少しだけ羨ましい。軽口を叩き合ったり、愚痴をこぼしあいながら、互いを信頼している。照星が己の火縄銃を預けるのは、螢火にだけだ。

 登った岩場から下を覗くと、綺麗な沢が流れている。岸はなだらかで、石の河原になっていた。その先は鬱蒼とした灌木が茂っている。沢はさほど深さは無さそうで、この高さから落ちたら怪我をしてしまいそうだ。飛び込むわけではないらしい。
 虎若が螢火の方に向き直ると、螢火は士筒を下ろして既に火薬を詰めていた。

「虎若、身を低くして」

 言われ、虎若は屈む。
 螢火は火縄に火をつけぬまま、岩場に胡座をかく。
 螢火が火縄銃の鍛錬に行くというのでついて来たのであるが、まさか、こんな辺鄙なところに練習場所があるとは思わなかった。

「螢火先生、的はどこですか?」

 虎若は首を傾げ、遠眼鏡で河原を眺める。螢火は「それを待つんだよ」と囁いた。

「待つ? 的を?」

 よく分からない。虎若が問うと、螢火は悪戯っぽく笑う。

「今日は鹿か、猪か。兎は当てにくいけど」

 あ、と虎若は手を打つ。しい、と螢火が唇の前に指を立てた。虎若は声を潜める。

「動物を待つんですか?」
「いつ来るか分からないし、人間よりも匂いにも音にも敏感だから、隠れて遠当ての練習には悪くないでしょう?」

 おまけにおかずが一品増えるし、と螢火は片眉をあげた。

「でも、動物が来なかったら?」
「そのときはそのときだねぇ」
「なんか、効率悪くないですか?」
「そうかな」

 螢火は首を傾げ、河原に目をやる。

「動物が来なかったら、一日ぼうっとしてるんですか?」
「ぼうっとって……」

 螢火は苦笑する。

「待つのも狙撃手の仕事だから」

 螢火は木に背中を預け、沢の方を眺めている。虎若もそれに倣い、螢火の横に座った。木漏れ日を受ける螢火の横顔を盗み見る。
 照星の得体が知れないせいで、相対的にまっとうに見えるが、螢火も大概不思議な人である。照星が佐武村に来たとき、伴っていた螢火を虎若は奥方か妹だと思った。村の皆が、そう思ったはずだ。背こそ高いもののおっとりとした女の人が、佐武の鉄砲衆に勝るとも劣らぬ狙撃手であるとは、ちらとも思えなかった。
 優しくて、強くて、きれいな兄弟子を誇らしく思う。人当たりのいい螢火は村でもよく子供に囲まれていたが、虎若が村で唯一、彼女の弟弟子であることが、密かな自慢であった。
 だから、螢火がみんなの先生になってしまったのが、虎若は少し寂しいのだ。

「螢火、せんせい」

 呼ぶ声も、ぎこちなくなる。螢火はちらりと虎若の顔を見た。柔らかな黒の瞳が、虎若は好きだ。夜の湖のような目だ。

「螢火でいいですよ、若太夫」
「でもーー」

 言いよどむ虎若に、螢火は首を横に振った。

「誰もいませんし、なんだか変な感じがするでしょう?」
「変な感じ?」

 螢火は笑みを浮かべて、頷いた。総髪が背で揺れる。

「私にとって、若太夫は若太夫ですから。ただの生徒みたいに接するのは、変な感じがしますよ」

 虎若は目を丸くする。それって、他の級友とは違うってこと? と聞こうとして、あまりに気恥ずかしいから飲みこんだ。
 螢火は、不思議な人である。まるで心を覗いたように、人の気持ちを汲むことができる。そっか、と小さく呟き、膝を抱える。螢火を呼ぶと、はいと囁くような返事があった。

「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「ひとつ、ですか?」

 螢火の目がいじわるく細められる。虎若は唇を尖らせた。

「たくさん」

 螢火はくすくすと笑った。

「ええ、どうぞ。時間はたくさんある、かもしれない」

 視線は変わらず河原に下ろしながら、螢火は頷く。何から聞こうか、と虎若は少しの間迷い、一番聞きたかったことを思い出して口を開いた。

「螢火は、どうして照星さんの弟子になったの?」

 問われた螢火は困ったような呆れたような顔をする。

「火縄銃のことじゃないんですか!?」
「うん」
「えぇー……」

 螢火は残念そうに肩をすくめた。本当は火縄銃のことも聞きたかったのだけれど、螢火をからかうと楽しい。いつものんびりと笑っているから、驚いたり呆れたりした顔を見ると縁起のいいものを見た気分になる。

「まあ色々あったんですけど、どこから話したらいいやら……」

 うーん、と、唸って眉間に皺を寄せる螢火がちらりとこちらを見たので、虎若は視線で先を促す。

「ええと、まず、私の父が照星師を雇っていたのですけどーー」

 螢火はそこで言葉を切る。どうかしたのかと虎若が螢火の顔を覗き込むと、螢火は厳しい目をして河原を見下ろし、虎若の方は見ないまま「静かに」と合図を送ると、そっと火縄銃を構えた。火縄の匂いで気取られることを嫌う螢火は発砲の直前まで火縄に点火しない。
 虎若は息を殺して螢火の視線の先を見つめた。やがて灌木が波打ち、人影が転がり出る。
 あ、と虎若は小さく声を漏らした。

「神崎左門先輩と次屋三之助先輩」

 今日の三年生は裏の林で実習のはずだ。おおかた方向音痴を発揮してこんなところまで迷い込んだのだろう。
 それをドクササコの凄腕忍者と、その部下が追い、じりじりと沢へ追い詰めていく。
 螢火は迷わず凄腕忍者に照準を定めた。が、ふと動きを止める。

「子供の目の前で殺生もなぁ」
「いやいや言ってる場合か!」

 虎若が小声で反論する。螢火は眉を垂れ、点火を戸惑っているようだ。士筒がこの距離で当たれば、肉は弾けるし血も吹き飛ぶ。あまり情緒に優しい光景ではない。あれほど近くに立っていれば、色々なものを被ってしまうだろう。螢火はあたりに視線を巡らせ、何か手助けになるものはないかと思案するが、そんなものはなさそうだ。

「大丈夫だって! なんか、こう、教育上よろしい感じにふわっとなるから! 落乱だから!」
「そのらくらんってみんな言うけど何なんですか!?」
「何って……」

 何と問われると非常に困るのだが。

「二人とも上級生だし!」
「そりゃ、若太夫にとってはそうでしょうけど!」

 私にとっては子供ですよ、と噛み締めた奥歯の向こうで呻きながら、螢火は床尾を頬と肩に挟み、片手で火縄に火種を押し付け、照準を合わせ、火蓋を落として引き金を引く。相変わらず惚れ惚れするほどの鮮やかな早業である。
 耳を劈く爆発音と、腹の底が痺れるような衝撃が走り、ドクササコの凄腕忍者に向かって真っ直ぐに発射された弾丸は、不意に空中で向きを変え、岩にぶつかってドクササコの凄腕忍者の、部下の方にぶつかった。

「あいたっ!?」

 白目の情けない悲鳴が響く。跳弾で「痛い」で済むものだろうか。
 螢火は虎若の番筒を取り、次弾を放つ。虎若は命じられたわけではないが、螢火に手渡された士筒に早合を込めた。
 次々放たれる弾丸は、岩や木や地面に跳ねてドクササコの凄腕忍者と、部下にバチンバチンと当たりまくる。

「なんだ、なんだ、どこからだ!?」

 慌てふためく白目を尻目に、凄腕はじろりと銃口の方を睨んだ。

「火縄銃……山田伝蔵か。おい、退くぞ」

 灌木の林に逃げ込む二人に最後の一発を放つと、弾丸は白目の袴の尻の部分を引き裂く。ひゃー! と悲鳴をあげて逃げる白目を、虎若はあはははと笑って見送った。

「やったね、螢火!」

 ぐっと拳を握って螢火を振り返る虎若が見たのは、岩場にへたり込んで茫然自失とする螢火である。

「えっ」

 虎若は握った拳を下ろした。せっかく勝ったというのに、何を落ち込むことがあるのだろう。

「ななはつ……」

 ぽつ、と螢火は呟いた。力ない視線が宙を見ている。

「ななはつ……ななはつ、はずした……」

 ぐす、ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。虎若はぎょっとして螢火に駆け寄った。

「螢火、泣いてるの?」
「いえ……ぐすっ、泣いてないです」

 泣いてるじゃん、とは言えず、虎若は黙って螢火の袖を引く。螢火は深い溜息をついて、手で顔を拭うと、虎若の肩に手を置いた。

「若太夫、私もう立ち直れないかも」
「そんなに!?」

 大げさな、と笑おうとしたが、螢火の悲壮な顔を見て、虎若はどうしたものかと黙るしかできなかった。




 

 


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