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たぶん、妖精か何か


 ここのところジラは幸運続きであったと言っていい。何の因果かパルスの重要人物を助けてしまったらしく、やれ女神だ救国の聖女だと持ち上げられ、王宮に留め置かれた。以前も富裕な家の使用人をしていたから、豪華な調度は見慣れていたが、やはり王宮となると桁が違う。
 毎日出される食事も驚くほど――ジラにとっては――贅沢であるし、あれほど美味しい葡萄酒を初めて飲んだ。おまけに、目玉が飛び出るような美女に「勇者シャプールを救ってくれてありがとう」と言われた。
 噂は尾ひれどころか背びれも胸びれもついて勝手に泳ぎだし、ジラは今や身を挺して万騎長シャプールをルシタニアの蛮族から救った勇敢なる憂国の乙女であり、パルス軍の中には武運を願ってジラに握手を求める者もいた。ジラはそれに苦笑いで応えながら内心穏やかでない。

 ――ああ、どうしよう、このままあのシャプールとかいう人、目覚めなければいいのに

 不謹慎にもそう思ってしまう。シャプールの奇跡の生還で士気の上がったパルス軍は奮戦し、ルシタニアとは睨み合いが続くものの小康状態を保っている。とはいえジラがシャプールを救ったのは本当に偶然の産物で、救ったのは自分というよりも親指ほどの大きさの虻であり、さらにそのお偉いシャプールとかいう男に緊急事態とはいえ散々な暴言を吐き散らしてしまったのだ。シャプールが目覚めてそのことを覚えていたら、縛り首で済むかどうか。かといって入るにも出るにも警備の厳重な王宮から逃げ出すことも出来ない。
 ジラは王宮の豪華な一室で頭を抱えた。慌ただしくドアを叩く音が聞こえ、ジラはひゃぁいと力なく返事をする。嬉しそうに顔を輝かせる兵士が、ジラに「シャプール様がお目覚めになられました。貴女にお会いになりたいそうです」と伝えた。聞いたジラは脂汗をかきながら顔を青くした。



 連れていかれた部屋には、件の柱の男が寝かされていた。血だらけで死にそうな姿しか記憶にないが、清潔な布を傷にまかれ、きちんと着物を着た姿を見ればたしかに威厳ある姿、かも、しれない。ジラにはよく分からないが、分かる人には分かるのだろう。
 傍らには、黒衣の精悍な男が立っていた。こちらは知らない人間であるが、ものすごく偉いであろうことは腰に提げた立派な剣を見ればわかる。
 黒衣の男の方が、ジラの姿に気付いた。招きよせられ、おずおずとシャプールの枕元に歩み寄る。

「あ、あのう……そのう、私のこと、覚えていますか?」

 シャプールは笑って頷く。

「もちろんだ。命の恩人の顔を忘れるものか」

 ジラは黒衣の男に耳打ちした。

「すみません、その腰に提げてる立派な剣でこの人の頭を殴ったら、都合よく私の記憶は消えませんか」
「無理だな」
「……やっぱり」

 一蹴された。ジラは頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。

「ええと、その節は、本当に、あなたが、いえ、あなた様がそんなに偉い人なんて知らなくて……いやっ、もちろん、そこはかとなーくやんごとなき雰囲気は下賤な私にも分かっていたというか、…………ひどいことたくさん言ってすみませんでした!」

 がばっと頭を下げるジラにシャプールは目を丸くした。

「いや、いい、気にしていない。そんなことより、名前を聞いていなかったな。なんという?」
「ジラと申します。……では、悪罵の数々のお咎めはなし?」
「恩人をそんなつまらぬことで罰するものか。おれはシャプールという。そちらのやたらと大きくて黒い男はダリューン」

 その名を聞いて、ジラは飛び上がって弾かれたようにダリューンの方を振り向いた。幽霊でも見たような顔をしてダリューンをまじまじと見つめる。

「ダリューン!? ダリューンってあのダリューン!? 黒い鎧に、黒い馬に乗ってるダリューン!?」

 悲鳴じみた声にダリューンは苦笑して答えた。近隣の国ではダリューンといえば馬に乗って駈ける災害のようなものである。そういう反応をされるのは、慣れはしないが珍しくもない。

「そうだ。パルスにおれ以外で、黒衣で青馬に乗った男がいなければ」
「う、うわー!! 初めて見た! 本物!? だって、身長4ガズも無いし、全身毛むくじゃらでもないし、角も牙も生えてないし、腕も脚も二本ずつしかないし、脇の下の百本の触手も、背中に大きな目玉もないじゃないですか!」
「……それは本当におれか?」
「違うのですか?」
「自信がなくなってきた」

 おれは誰なんだ、とダリューンはアイデンティティの崩壊に頭を抱える。

「私、小さいころはよく親に、いい子にしてないとダリューンが来るぞ!って言われてました」
「そうか、それは恐ろしいな」

 シャプールは投げやりに答えた。ところで、と話題を変える。

「おれの命を救ってくれて、本当に感謝している。この恩はどうやって返せばいい?」
「……どう、と言われましても。すでに美味しい食事も、ふかふかのベッドも、たくさんの金貨も、綺麗な宝石もいただいております」
「それはパルスからの褒賞だろう。おれからも何か礼をせねば気が済まぬ」
「ううーん、今は特に欲しいものは無いのですが」
「ならば、おまえを奴隷から自由民にしてやろう。主人にかけあってやる」
「ご主人様は死にました」
「そうか……他に生活のあては?」
「これから探します」

 ふむ、とシャプールは腕を組む。

「よし、おれの家に来い。王宮ほどの暮らしはさせてやれぬが、そう惨い扱いはせぬ。ちょうど、使用人を増やそうと思っていたところだ」

 ジラにとって願ってもない話である。だが、奇妙なところから批判の声が上がった。

「なにを馬鹿なことを!」

 ダリューンの怒声にジラは肩をすくめた。やはり、使用人とはいえどこの誰とも知れぬ異国の奴隷女を召し抱えるのは褒められたものではないのだろう。
 ダリューンは真剣な顔で病床のシャプールに詰め寄った。

「シャプール殿、そのような遠回りをする必要がどこにある! 床から出られるようになり次第、すぐに祝言を挙げてしまえ!」
「ぶぁっ!? なにを言っているのだダリューン!」

 勢いよく跳ね起きたシャプールが、包帯を巻かれた脇腹を押さえて布団に沈む。ジラもかくんと顎を落として黒衣の男の顔を見つめた。

「おぬしがまともに話せる女は初めてだろう! そんな女が他にいるのか!?」
「し、失礼なことを申すな! おるわ、それくらい!」
「嘘だ。母親は除外してだぞ?」
「……お、おるわ」
「自分より20以上年上の女も除いて、だ」
「……お、お、お」
「12歳以下の子供もだめだ」

 シャプールは完全に沈黙して恨めしげにダリューンを睨んだ。ダリューンはそれ見たことか、という顔をする。

「よいか、シャプール殿、これは飛んで火にいる夏の虫だ」

 その喩えは不穏すぎやしないか。

「真面目一徹がたたり女人とまともに会話も出来ぬシャプール殿が、女人に救われたのだぞ。互いに手を取り合って危機を脱した仲、恋が始まり愛が芽生え結婚しても何もおかしくはない」

 そう説くダリューンにシャプールは反論する。

「無茶を言うな! おれにも女の好みくらいある!」
「……私、ここにいるんですけど」

 あまりに失礼な物言いではないか。ジラの呟きを無視してダリューンが答えた。

「この際、好みなどと贅沢を言っている場合ではなかろうに。元奴隷で身寄りもなく、自尊心も低そうだ。悪いことは言わぬ。何も分からぬうちに手籠めにしてしまえ」
「私、ここにいるんですけど! もしかして見えてません!?」

 偉い人って身分の低い女が都合よく見えなくなる病気にかかってるのか!? とジラは疑心暗鬼にかられる。ダリューンはジラの方に視線をやり、笑顔でジラに掌を向けた。

「決して悪口ではない」

 そうだろうか、とジラは首を傾げる。シャプールは怒りに任せて布団を掌で叩く。ぼふ、と間抜けな音がした。

「そうとて、おれは恋人とは交換日記の清い交際から始めたい!」

 それはそれで気持ち悪いな、とジラは結構いい歳をしていそうなシャプールの横顔を盗み見た。ダリューンも負けじと声を張り上げる。

「そんなことを言っているから、おぬしはいまだ独り身なのだ!!」

 ぐうとシャプールは呻いた。あちゃー、とジラは額に手をやりたくなる。そういうことは口にしては駄目だろう。シャプールよりは一回りほど若そうなダリューンにちらりと視線をやると、ジラの物言いたげな目に何か思うところがあったのか、ダリューンは前言を撤回した。

「すまん、今のは言い過ぎた」

 ジラは小さく頷く。

「そんなことを言っているから、おぬしはいまだ童貞なのだ」

 ジラは卒倒しそうになった。出来るならこの場から溶けて消えたくなった。シャプールは唇を噛むと「出て行け」とだけ唸る。ダリューンはやれやれという顔をして、部屋を後にする。閉じかけたドアの隙間から「お家断絶だな」と捨て台詞が聞こえた。

 二人はしばらく沈黙する。ジラは血まみれでなければ案外端正な顔のシャプールを見て、本当に童貞なのかなと内心疑問に思う。

「それで、おれの家に来るか? もちろん、使用人としてだ」
「あ、はい、よろしくお願いします」
「……ところで、読み書きは出来るか?」
「はい、一通りは、…………交換日記はしませんよ」
「…………そうか」

 あ、この人、童貞だ。と、ジラは確信した。

 

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