テノの場合A
テノの場合続編。
この世界には番と呼ばれる自分にとって唯一の存在がいる。しかし番と出会うのは運命以外なく、運命を信じないものは番以外を受け入れることもある。
ピンポーン
「……っ。」
帰宅後、直ぐに汗で汚れた体を洗い、ビールで一息つこうとした途端、テノの部屋にインターフォンが響き渡った。
時刻はすでに十一時を回っており、こんな時間に訪れる客など一人しかいなかった。
強張る体をなんとか動かし、テノはそっと覗き穴へと顔を近づける。
「……ぅ。」
ピンポーン
なかなか開かない扉に、向こうで顔を顰めているのが見え、テノは怖々扉を開けた。
「開けるのおせぇよ……って、風呂上りか。」
「すいません……。」
僅かに扉を開けただけで、強引に部屋へ入ってくるナズナ。しかしその体が纏う匂いに、テノの顔が曇った。
「また、吸ったんスか。」
「違う、会社で吸ってる奴が近くに……。」
「……。」
「……あー……悪い。仕事が行き詰って、だな。」
「……き。」
「テノ?」
普段とは違う責める様な口調に、ナズナが慌ててテノを振り返る。しかし、近付けば近づくほど、大好きな珈琲の香りと、大嫌いな煙草の香りが強く鼻につき、テノは唇を噛みしめた。
『分かった。止める。禁煙する。』
『本当ッスね?』
初めて出会ったとき、煙草の匂いが混じったキスに耐え切れず、腰を抜かしたまま泣き続けるテノにナズナが禁煙を約束してからすでに一ヶ月。
最初の頃は煙草の匂いも少しずつ薄れ、珈琲の香りに包まれる幸せを感じていたテノだったが、時折明らかに強くなる煙草の香りに、ナズナがテノに隠れて吸っていることに気付いていた。
本人は喫煙者が近くにいたから匂いが移ったと上手く話していたが、キスをして舌を絡ませた途端、出会ったときと同じ苦味を感じるのだ。
『禁煙できるまで、これ以上しないッス。』
その度、禁煙が始まりやたらと自分に触れるナズナを戒めた言葉が頭に浮かんでいた。
なんで吸うんだよ。
吸ったらしないって言ったのに。
それとも番でも、俺なんかとはしたくないってこと?
テノも立派な成人男性だ。それも兎の獣人だ。基本的に兎の獣人は性欲も強いし、子宝に恵まれることが多い。テノもナズナといれば嫌でも体が熱くなるし、抱いてほしいとも思う。
本当は、触れられるだけで辛かった。でも、同じく辛い禁煙をナズナが頑張ってくれるなら、自分も頑張って耐えようと思ったのだ。
あの言葉はナズナだけではなく、自分への戒めでもあった。
そして、気になることはもう一つある。ナズナがやたらとキスが上手いことだ。キス以外の仕草も妙に手馴れている。絶対、自分以外の誰かとしたことがあるのだと、テノは確信していた。
俺とできなくても、他の誰かとしてる?
番が、俺がいるのに。
「おい、テノ?」
無言で拳を作って俯くテノを、ナズナが覗き込んだそのときだった。
一段と強く煙草の匂いが届き、テノは鼻がツンと痛む。堪えていた涙が、次々と溢れて床に落ちていった。
「テ、テノッ、悪かった。俺が悪かった、な?もう本当に吸わないって。」
「……き。」
「ん?」
慌てたようにテノの耳を撫でるナズナを、テノは真っ赤になった目で睨み付ける。
「嘘つき野郎っ!何がもう吸わないだっ。毎回毎回同じこと言ってできてないじゃねぇかっ!だいたい、俺は言ったよなっ。禁煙できなきゃヤらねぇって。俺はっ……俺はしたいんだよっ。でも、初めてヤるのに、大ッ嫌いな煙草の匂いが混じってるなんて嫌なんだ。あんたの、あんたの匂いだけがいいんだ……なのにっ……ど、どうせ、他の奴としてんだろ。だから平気なんだろ。もう……なんで、なんであんたが俺の番なんだよぉっ!」
「テノ……。」
「触んな馬鹿犬野郎っ!俺は嬉しかったんだ。番なんてできると思ってなかったから……あんたと出会えて嬉しかったんだ。でもあんたは違うんだろっ。もう出てけよっ!出ていけ!」
自分に触れようとするナズナの指を振り払い、叫ぶだけ叫ぶと、テノは自分の寝室へと引き籠ろうと足を向けた。
ナズナが追いかけてくる様子はなく、無駄に音を立てて扉を閉める。ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて零れ続ける涙を染み込ませた。
「っ、うぅっ……ふぅっ。」
追いかけても来ない……。ナズナに酷いこと言っちゃった。
もう俺、捨てられるんだ。番なのに、捨てられちゃうんだ。
「うーっ……。」
それから枕が冷たくなるほど涙を流し、意識がぼんやりとし始めた頃。枕に押し付けていた鼻に、僅かに珈琲の匂いを感じた。
ガチャッ
「……え?」
「……テノ。」
「……っ!」
思わず顔を上げて視線を扉に移したのと、扉が開いて髪を濡らし上半身裸になったナズナが現れたのは同時だった。いつもはピンと立つ耳が黒髪と共に垂れている。
驚き、固まるテノに、ナズナはゆっくりと近づいた。その体から煙草の匂いは薄れ、甘い、テノが好きなシャンプーの匂いと珈琲の匂いだけ。
「テノ、俺が悪かった。」
「っ!」
まだ、濡れている体で抱きしめられ、テノは嫌でも体の熱が上がるのが分かった。どうやら急いで風呂に入ったらしい。どこで見つけたのか、ズボンはテノが家で洗濯してあったナズナのもの。テノの家にあるナズナの服はテノが洗濯しているため煙草の匂いなどしない。
「……苛々してたんだ。お前がいるのに、あの約束のせいで抱けねぇし、仕事は忙しいし……違うな。全部言い訳だ。吸ったことには変わりない。俺がお前なら、違う匂いが混じってるなんて耐えられねぇ。」
「……。」
煙草の匂いよりも強い珈琲の匂いに包まれるなど本当に久しぶりで、テノは嬉しさで再び涙を浮かべた。
「これからは本気で禁煙する。だから……俺を嫌いになるなよ、頼むから。」
「っ!!」
低く囁き、ギュッと強く抱きしめられる。
もう、テノは堪らなかった。嬉しくて、嬉しくて、幸せだった。
「うぅっ……俺も酷いこと言ったッス。」
同じことをナズナから言われれば、テノは死にたくなる。泣き続けるテノの背中をポンポンとあやしながら、ふとナズナはテノの顔を覗き込んだ。
「そう言えば、なんで俺がお前以外とヤってるなんて誤解してたんだ?」
「え?!」
真剣な眼差しに、テノは思わず視線を彷徨わせる。しかし、言い逃れができない状況だと分かり、顔を真っ赤にさせ何とか震える口を開いた。
「……ら。」
「ん?聞こえねぇ。」
「うっ、上手いからッス!!あんなに気持ち良いキスが初めてとかありえないッス!」
「……へぇ、そりゃ光栄だな。」
「……。」
テノの言葉に、ナズナの機嫌が良くなったのが分かる。匂いが一層強くなったのだから。
「まぁ、俺も歳だからな。番なんていねぇと思って、それなりに経験はしてる。」
「っ!」
予想はしていたももの、本人から直接聞く真実に、テノは体を強張らせた。しかし、すぐにナズナの手が優しく背中を撫でる。
「でもこれからはお前だけだ、テノ。」
「んんっ。」
顎を捕まれ、強引に唇が重ねられた。僅かに開いた隙間から、ナズナの舌が差し込まれる。時折触れる髭がくすぐったい。互いに舌をすり合わせるように絡め、苦い唾液が注ぎ込まれた。
「に、がいっ。」
「……あー、これで抱けねぇんだから、辛いよなぁ。」
「うっ……。」
思わず顔を顰めるテノに、ナズナは笑いながら抱きしめたまま体をベッドへと倒す。濡れた髪の隙間から、ナズナの強い視線がテノへと届いた。
「待ってろよ?すげぇ気持ちよくさせてやる。」
「ち、ちゃんと禁煙出来たらッス……。」
怪しい光を帯びた瞳に、テノは慌てて視線を反らす。焦りでピコピコと忙しなく動く兎耳を見たナズナは、愛おしそうに口付けた。
終わり
性欲はテノの方が強いです。必死に隠してますが、ナズナは知らずにその性欲に引きずられてムラムラ→抱けないことに更にイライラ→煙草に向かう、という負のループになってました。つまり禁煙できなかったのはナズナの意識の弱さとテノの性欲の強さのためです。補足までに。
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