[携帯モード] [URL送信]
うさぎの涙
 まだ独り身なのか、と酒の席になると途端に饒舌になる上司からのありがた迷惑な「相手の紹介」をやんわりと断り、同じく独り身である後輩に話を振ってその場から逃げる。賑やかな宴会場でも静かに飲み続ける見慣れた姿の元へ腰を落ち着けると、適当に見つけたお猪口を机から拝借し温くなった熱燗を舐めた。

「もう少し熱いのが良かったなぁ。」
「文句言うな。向こうに戻すぞ?」
「それは勘弁して下さい。」

 まだ上司の扱いに慣れず、紹介内容に慌てふためく後輩の姿はいい肴だ。ほれほれ、と注がれる酒を次々に飲み干せる程には酒豪という自負がある。特に今回はもう少しでやってくる禁酒期間に備えて、旨い酒をたらふく飲むつもりだった。

「そう言えば、この前は入力ミス見つけてくれて本当に助かった。ほぼ徹夜明けで打ち込んだのがまずかったわ。」
「成長したんです。本当に感謝して下さいね、せ、ん、ぱ、い。」
「くそ―この野郎!俺の部署に戻ってこい、絶対こき使ってやる。」
「人事次第ですかねー。」
「あー、俺の可愛いうさぎはどこにいったんだぁ。」
「俺は宇梶です。いい加減覚えて下さい。」

 酔うと抱きつき癖のある先輩を背に抱えながら、今度こそ程良い酒の熱さが体に染みわたる。ここぞとばかりに呟かれる仕事の愚痴の呪文を聞きながら、視界にふと一人の男が映った。自分がΩだと宣言しているその男の周りには、囲いのようなβが溢れている。いや、すでに囲いなのだろう。二重の大きな瞳にいかにもという可愛い顔立ち。にこり、と笑うだけで周りの囲いが酒のせいだけではない朱で顔を染めていた。

「相変わらず可愛いよなぁ。あれで番がいねぇとか嘘だと思わないかね、うさぎくん。」
「宇梶です。まぁ……いるんじゃないですか、相手。」
「いやいやいや。あんな状態、嫉妬深いと有名なα様が許すはずがないだろうに。」

 俺の視線に目敏く気が付いた先輩の言葉が、ちくりと胸を刺す。αが運命の番に対して激しい執着と独占欲を抱くのは有名だった。そもそも権力を持ったαが中心になって社会を動かしているのだから、もはや社会の常識に近い。つい最近、取引先のαに捕まったΩの先輩も問答無用で相手会社に引き抜かれてしまった。その穴を埋めるために白羽の矢が立ったのが俺だ。

「嫉妬深い、ね。」
「んー?うさぎは好きなΩを奪われた経験でもあるのか。」
「残念ながらありません。」

 何故選択肢がαではなくΩなのかと言うのは聞かないことにしている。自分がΩだと話したところで、妙な目で見られるのがおちだ。昔から自分のバースに一番疑問を抱いているし、気付いてくれるのも大抵は同じΩ性で、皆それぞれに驚いた表情を浮かべていた。
 体を動かすのが好きで、筋肉も身長もβと変わらない。華奢だの可愛いだの揶揄されるΩとは正反対の位置にいるのだから。

「いい加減離れてください。」
「えー?」
「こんなことしてるからΩにも振られるんですよ?」
「痛いところ突くな……。」

 お見合い、紹介、という話に一番耳を傷めているであろう先輩は、俺の言葉に顔を顰めると締めるように強く巻き付けていた腕を解いた。項垂れる姿に、手に持っていたお猪口を握らせる。

「さ、ぐいっと。」
「はぁ……俺だって好きで分からないわけじゃねぇんだよ。」

 運ばれてきた出来立てのクリームパスタを受け取り、たっぷり皿に盛り付けた俺は寂しそうにちびちびと飲む先輩の背中を撫でながらパスタを頬張った。

「あ、旨い。」
「どこかに落ちてねぇかなぁ。フェロモンぷんぷんのΩ。」
「落ちてたらいいですねー。パスタ食べます?」
「酒くれ。」
「どうぞどうぞ。」

 実家が一般家庭より金持ちな先輩は、権力を求めるΩの誘惑から逃れるためにバースが判明した頃から抑制剤を内服し平穏な学生生活が送っていたが、その平和と引き換えに薬を止めても自分がΩの匂いやフェロモンに全く気が付かない体になっていたらしい。定期的に通院もしているが嗅覚には問題が見つからないから厄介だと酒が入るとよく愚痴が出るので覚えている。
 また温くなった酒を注ぎながら、俺は入社後習得した営業スマイルを浮かべた。余計なことを話さないように、本音を漏らさないように、と笑顔の指導をしたのは目の前のαだ。「先生」に何も悟らせない完璧な笑顔のおかげで俺は今日も運命の番の隣に座ることができる。




「いい加減言えばいいのに。自分がそうだよって。」
「こっちをαだって勘違いしてる相手に言えるわけないだろ。」
「漣は顔は男前なくせに、考えが女々しいな相変わらず。」
「紀斗も顔は可愛いくせに、本性がこれだからなぁ。」
「あ?」

 猫かぶりとはまさにこの男のことだろう。俺以上の酒豪で、次のカクテルを頼んだ男は先程囲まれていたときの表情とは全く違う呆れた視線を向けてきた。お互いのバースを感じ取ったときから、飲み会の後は別々に抜け、当たり前のようにこの店に集っている。酒好きな紀斗にとって同じΩでありながらαにも見える俺は、思う存分飲むための必須アイテム的存在に近いらしい。トイレから帰ってきた途端、紀斗から離れたβが良い例だ。そのかわり飲み代を全て出してもらえるのだから、こちらとしてもありがたかった。

「あーもったいない。」
「気付かれないのにもったいないもくそもあるか。」
「でも、そのうち本当にフェロモンぷんぷんなΩが現れて番だって勘違いされたらどうするわけ。」
「は?」
「普通さ、匂いが分からなくても番なんて直感みたいなものだろ?でも野木さんは匂いとかフェロモンを重視してる。そこにどぎついフェロモン野郎が出てきてみろ、ころっと絆されるぞ。」
「まぁ、そのときはそのときだろ。」

 紀斗の言葉はとても現実的だ。俺は一目見てこの人が番だって直感したのに、未だに匂いやフェロモンにこだわる先輩は俺が傍にいても何の反応も示さない。入職して初めて先輩を見たときの喜びは、あまりに簡素な態度により戸惑いに変わった。そして事実を受け止めきれなかった俺は、衝撃のあまり倒れてしまったのだ。今となってはそれのおかげで風邪と偽り発情期休暇を取得しても、「頑丈そうなのに体が弱い」というレッテルにより疑問すら抱かれない。番が近くにいるのに、俺は相も変わらず三か月ごとの苦しみを一人で耐え抜いていた。これが三年目に突入すれば、慣れだ慣れ。

「……悪い、言いすぎた。」
「慣れてる慣れてる。」
「こんなことに慣れんな!」

 力いっぱい背中を叩かれても、俺は笑いを浮かべるしかなかった。会社の愚痴やバースの愚痴、実は思い人のいる紀斗の悩みを聞きながら酒を空け続け、さすがに飲み過ぎたな、と互いが帰り支度を始めたそのとき。

「二人ともΩだろ?俺達と今日、どう?」

 二人組のαが自信満々に笑いかけてきたのだ。最近はあまり話しかけられることがなかったため、俺も紀斗も一瞬固まるが紀斗が手慣れた会話でやんわりと誘いを断ると、俺の手を引いて店の外へと逃げ出す。残念そうに見送るαの視線を感じながら、背中の温もりを思い出した。

 そうだよな、普通は近づけばΩだって分かるよな。

「久しぶりだったなぁ。あー、もしかして漣お前さ、ちょっと周期ずれてるのかも。」
「本当?」
「俺は先月だったし、お前は今月だろ?」
「あぁ、一応来週末かな。」

 握った手をそのままに、首元をに鼻を寄せてきた姿に思わず顔が熱くなる。こいつさ、本当に顔はいいんだよ、顔は。

「お前の嗅いだことねぇから確証がなかったんだけど、ちょっと前から匂ってたんだよね。ん、やっぱりお前だわ。持ってる?」

 何をとは言わない。繁忙期で暇がなくなる可能性を考慮し、先週病院に行っておいて良かった。

「あ、水ない。」
「そこのコンビニ寄るかー。俺肉まんね。」
「奢らないから。」

 鞄の中にある薬に安堵し、実はほろ酔いな紀斗を引きずりながら俺は近くのコンビニへと足を伸ばした。いまだに繋がれたままの手はもう解くことを諦めている。少しだけ酒のせいではない体の重さを感じ始め、目当ての水と肉まんを購入してすぐに立ち去ろうとしたのだが、紀斗に腕を引かれるのと同時に爽やかな香りを感じ、視線を店の奥へと移した。

「え?お前ら知り合い?」
「先輩……なんで?」
「あー……あの後飲みなおしててさ……お前、達は?」

 数時間前別れたはずの先輩がアイスコーナーでお気に入りのバニラアイスを持ったまま立ち尽くしていた。衣服は乱れておらず、静かに飲むのが好きな先輩だから言葉通り一人で飲み続けていたのだろう。こんなときでも呆けた表情も好きだなと見つめてしまうほど、俺の思考はそろそろまずい。発情期が近いΩの目の前に、普段でも無条件で惹かれる運命のαがいれば欲しくなるのは仕方がなかった。何より番を見つけた体が、一気に香りを強めたのが自分でもわかる。

「おい、漣。」
「あ、あー、そうなんです。でももう帰ります。先輩もお気をつけて。」

 唾液が溜まる。舐めたくて、嗅ぎたくて、擦り寄りたくて、ぐちゃぐちゃにしてほしくてたまらない。好きで好きで好きで、抱いてほしくて、抱きつぶしてほしくて、先輩が欲しくてどうにかなりそうだ。早く薬を飲まなければ。
 紀斗に脇を突かれ必死に笑顔を張り付けて、俺は紀斗と急いで店を出た。

「っ、何でこのタイミングで。」
「お、タクシーいた。」

 倍量の薬を胃袋に収め、荒くなる息を唇を噛みしめて堪える自分が惨めだった。こんなに自分は先輩が欲しいのに、相手に自分の香りは届かない。例え発情期間近の強い香りでもだ。

「漣、家まで送ってく。」
「悪い。」

 こういうときの同胞は心強い。フェロモンに影響されることなく介抱してくれる。家の玄関に力なく転がった俺を確認すると、何も言わずに部屋を出ていった。
 一人残された俺は、とりあえず僅かにでも先輩の匂いがする服を脱ぐため風呂場へ向かう。冷たいシャワーを浴びながら、頬には生暖かいものが流れていた。発情期は辛い。一人の発情期なんてもっと辛い。慣れるわけがないんだ。
 適当に扱いて興奮を一旦落ち着かせると、そのまま急いで着替えてベッドへと潜り込む。

「連絡は……月曜日でいいか。まだ資料まとめ終わってなかったんだけどなぁ。」

 薬が効いてきたのか、酒の力なのか、重くなってきた瞼をゆっくりと閉じた。





「おー、復活したか。」
「すいませんでした。」

 上司に勢いよく頭を下げ、休み前より倍量に資料が積まれた机へと向かう。土日を挟んだとは言え、二日間の欠勤。もちろん今日は一番に出社し、出勤してきた仲間にも次々と頭を下げた。残業も覚悟し、夜食も準備してある。おまけに発情期自体は三日ほどで症状が落ち着いたため、体調もそれなりだった。

「宇梶ー、さっそくで悪いけどこの資料なんだけどさー。」
「あ、はい。」

 ほれ、と隣の先輩から渡された資料を読み、その内容に首を傾ける。

「これ、結構入力間違ってませんか?」
「そーなのそーなの。最近さぁ、野木さんちょっと不調らしくて。何度も入力ミスの電話かけてて、その度に謝られるから逆にさー。」
「それで俺に連絡しろと?」
「頼む!αに何度も謝られる身になってくれって。」

 この通り、と手を合わせる先輩の頼みを断れる後輩がいたら名乗り出てほしいものだ。なんてタイミングに、と思ったが仕方ない。二つ返事で引き受けると、資料の中で入力ミスの箇所に線を引いた。

「こんなに?……珍しい。」
「だろー?槍でも振りそうだよな。」

 適当そうに見えて、野木先輩の仕事ぶりは実に細やかだと信頼されている。実際、俺が数週間前に見つけたミスも本当に珍しいことだった。それなのに、と俺は所々赤い線が引かれている資料をもう一度見直す。

「本当に槍が降りそうですね。」
「やめろよ。」

 顔を顰める先輩を横目に、小さくため息をつくと受話器を持ち上げた。冷静に冷静にと心の中で何度も唱える。正直、発情期直後の身体に番の声は悪影響でしかないのだが。

『はい、野木です。』
「お疲れ様です、宇梶です。少しお時間よろしいですか?提出書類に訂正箇所がいくつかありまして、確認の電話をさせていただきました。」
『……うさぎか?体調復活したのか?』
「あー、はい。季節の変わり目はどうも弱くて。で、訂正箇所なんですけど。」
『もしかして、またミスしたか……。悪い、そっちに行く。』
「え?」
『どうせ、いくつかっつーよりめちゃくちゃあるんだろ。悪い。』
「まぁ……。」

 こっちは会いたくないんだよ、という気持ちは飲み込んで、数分後に現れた野木先輩を面談用のスペースへと誘導した。久しぶりに見た顔は若干やつれている気がしないでもない。いつもより弱い番の匂いに俺も自然と気分が落ち込んでいった。もちろん笑顔でそれは隠してはいるが。

「ここと、ここ。そしてここもですね。あと、ここも芋づる式に。」
「はぁ……俺は新人かよ。」

 赤線が引かれた書類を持ち、項垂れる野木先輩に珈琲を差し出す。先輩が仕事のときに好んで飲む少しだけ薄めのブラックだ。

「どうしたんですか、先輩らしくないですよね。体調でも悪いんですか。」
「あー……悪いと言えば悪いような。」
「それなら早く病院行ってくださいよ。」
「病院かー……。」
「一体何があったんですか。」

 風邪をひいた姿なんて見たこともない、常に元気で飄々としている野木先輩の暗い表情に、嫌な汗が流れる。何があったのか、何が原因なのか、もしかして最悪な事態なのか、次々と浮かんでは消えていく嫌な想像。顔を伏せ、無言を貫く先輩。番がいなくなるなんて想像したくない。嫌だ。絶対に嫌だ。
 焦る気持ちを抑え、先輩の答えを待っていたそのときだった。
 ぐいっと襟を引っ張られ、先輩の方へと体が倒れる。テーブルに手をついた状態で、上半身だけ先輩に預けるような形になり、先輩の喉元が視界に写った。

「は?……え?」

 やばい。先輩の匂いが、肌が近い。近すぎる。

「ちょっ!」
「そうか、やっぱりそうか。」

 呆然とする俺を余所に、野木先輩は鼻先を俺の首筋に近付ける。咄嗟に突き飛ばすように距離をとったが、恐る恐る合わせた視線の先には顔を両手で隠して項垂れる先輩の姿があった。

「悪い。」
「……何がですか。」

 先輩が匂いに気付くはずがない。今までも近くにいた俺が一番よくわかっている。でも、目の前にいる先輩の行動が理解できなかった。何に謝ってるのか、何に……泣いてるのか。

「おい、宇梶……って、え?野木さん?」
「あー、えっとその、先輩ちょっとこっち!」

 誰にでも見られる場所でよりにもよってαが、野木先輩が涙を流している姿なんて大問題になる。慌てて野木先輩の腕を掴み、俺は会議室へと引きずり込んだ。
 真っ暗な会議室の電気を付けようとしたのだが、伸ばした腕はスイッチに届くことはなかった。

「……先輩?」
「最初からさ、ちょっと他の奴より気になるとは思ってた。でも匂いもねぇし、そもそもαみたいな背丈だし。お前は普通に接してくるし、確証も自信もなかったんだ。」
「……。」

 後ろから抱きしめられ、首筋に野木先輩の顔が寄せられる。強くなるαの香りに、身を硬くするしかなかった。

「でも、Ωと一緒にいるのを見たときからお前の顔が頭から離れなくて。もしかしたら、って思って会いに行っても病欠でいねぇし。よく考えたら、お前三か月ごとくらいに体調崩すだろ。」
「……だから何ですか。」

 額を押し付けられた首筋が濡れていくのが分かる。

「……お前、俺の番だよな。」
「っ……匂い、しないんでしょ?」
「してる。してたんだ、最初から。紛らわしいんだよ、珈琲みたいな匂いさせやがって。普通甘い匂いとかだと思うだろ。」
「……。」
「他のΩの匂いは全然わからない。でも、お前からはいつも珈琲の匂いがしてた……ちゃんと、分かってたんだ。」

 抱きしめる腕の力が強くなり、震えていた。その手にゆっくりと自分の手を重ねる。この手の暖かさを俺は知っていた。でも与えられるだけで自分が求めることはできない暖かさだった。握り返してもらえることすら想像できなかったのに。視界がぼやけているのは暗い会議室のせいだけではない。

「やっと……やっと見つけた。」
「……お、遅いんですけど。俺がっ、俺がどんな思いで……どんなっ……。」
「悪い。ごめん。」
「フェロモンぷんぷんのΩじゃないですよ。」
「それは……、その。」
「普通言いませんよね、番の側でそんなこと。それに匂いとかよりも番って直感じゃないですか、直感。」
「うさぎ。」
「宇梶です。」
「俺の番になってほしい。」

 少しの沈黙の後、お互い涙でぐちゃぐちゃの顔のまま唇を重ねると、同時に吹き出した。笑いながらも、先輩の腕が俺の身体を離すことはない。

「泣きすぎですよ、先輩。」
「お前と変わらないぞ。」
「こんな顔で戻れないんですけど、責任とってくれます?」
「責任とるなら番になってもらわないと。」
「……。」
「なるだろ?」
「……仕方がないので。」



終わり



[*前へ]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!