エイプリルフールの沈黙(鉢久々)
※現代
「兵助が猫になった」
両手で包み込めそうな程小さな黒猫を抱いて竹谷は言った。
桜の蕾が色付き始めた頃だった。
兵助が突然部屋を出て行ったのはもう一ヶ月も前の事になる。
その日、夜中に帰宅しても部屋に明かりは灯っておらず、はて彼はバイトか買い物か、いずれにせよその内帰ってくるだろうと俺は待った。しかし兵助は帰ってこない。
彼が家を出て行ったのだと気付いたのは一人の夜を三回過ごした時だった。
出て行ったと言ってもあの時居たのは兵助の部屋で、俺は駅四つ分離れた住宅街に自分の部屋を持っている。
自分の部屋を捨てて、俺以外の誰の元へ、どこへ行くというのだ。
あの日の事を思い返す。
些細な事で喧嘩をした。虫の居所が悪くて八つ当たりをしていたと思う。
その頃はやたら情緒不安定で、そしてそれはお互い様だった。
兵助が行方不明になって元気の無い俺を見兼ねたのだろう、ある日竹谷が訪ねて来た。
その手には黒い子猫が抱かれていた。そして言うのだ、この猫は兵助なのだと。
「…エイプリルフールにはまだ早いぞ」
「嘘じゃねえ、お前の家の前をうろうろしてたんだ!」
何を興奮しているのか竹谷は語気を荒げ、猫を連れて部屋に上がり込んで来る。
人の制止も聞かずにやれふわふわの毛が似てるだの、やれツンツンしてる所が似てるだの、ひとしきり騒いだと思ったらバイトの時間だからと言って帰って言った。猫を置いて。
どうしろと言うのだ。兵助がいない寂しさを猫で紛らわせと?いかにも動物好きな竹谷の考えそうな事だが、兵助の代わりなど何処にも無いことは、あいつも分かっている筈だ。
部屋の隅で小さく丸まり、此方を伺う猫と目が合った。なる程、分からないでもない。無意識に人を遠ざけようとする体勢、怯えたような視線は、確かに似ている気がする。
竹谷の馬鹿野郎、余計に寂しくなったじゃないか。
「…へーすけ」
にゃおん。
耐えかねてぽつりと呟くと、そいつは子猫らしからぬ低音で鳴いた。それが何だか返事をしたようだったので俺は思わず瞠目した。
「兵助」
にゃおん。
やはり返ってきた低音に、堪らず猫に手を伸ばしていた。
そうしてすっかりうちの子になった兵助は、今日も気紛れに懐いたり懐かなかったり。
馬鹿な事とは思うが兵助は本当に兵助で、それ以外の何者でも無かった。
つれない素振りも甘える仕草もそれら全てが気紛れなのも、全て兵助だった。
「今更帰ってくるのが気恥ずかしくて猫になって戻って来たのか?」
そうかそうか、もうどこにも行くんじゃないぞ。俺にはお前がいないと駄目なんだって、お前も知ってるだろう?
毛足の長いラグに埋もれてごろんと寝転ぶ兵助に語りかける。
綺麗な毛皮を撫でながら、しかし手の平は別の感触を求めていることに俺は気付いた。
出来る事ならお前の声が聞きたい、俺の名前を呼ぶ声が。それから触りたい、猫みたいにふわふわの黒髪に。
会いたい会いたい、会いたくてたまらない。
帰ってきたらお帰りと言って迎えてあげよう。豆腐を沢山買ってきて嫌になるほど食わせてやる。それから沢山キスをしたい。お前は嫌がるだろうけど、でもしたい。
だから早く、早く。
そんな心の声が聞こえてしまったのだろうか、兵助はフイとそっぽを向いてしまった。俺は用無しかと、不機嫌そうに尻尾が揺れる。
へそを曲げた兵助を放っておくのも忍びないとは思うが、仕方無くバイトに行くため部屋を出る。
そこで、いつもなら大人しく見送ってくれる兵助だったが、今日は違った。玄関を開くと同時に彼は素早い動きでぴょんと外へ飛び出した。
「おい兵助どこ行くんだよ」
小さい体を懸命に動かして走る猫を追って家の前に出ると、道の真ん中に男が一人立ち尽くしていた。
兵助はその男の足に擦り寄って行った。男は屈んで兵助の喉元を撫でる。
「全く悪趣味だな」
いくら寂しかったからって猫に俺の名前を付けるなよ。男はそう言って黒猫を抱き上げた。
にゃおん。
お帰りとでも言うように、兵助は高らかに鳴いた。
ああ、これは嘘でも夢でも無い。今日はまだ四月一日ではないから。
END.
黒猫を兵助だと言い張る竹谷が書きたかっただけ。
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