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土の雨(6い→こへ)







どれだけ汚く土に塗れれば私を見限ってくれるんだろう。


昔から暗闇が苦手だった。しかし土の匂いに満ちた穴の中は酷く落ち着くから、この年になっても未だに塹壕を掘り続ける。
私は今も昔も怖がりだった。

そういえば蛸壷をこよなく愛す後輩が居たなあ。
彼は穴の形にこだわっていたみたいだが、私は、強いて言えば匂いにこだわりたい。
火薬の匂いも血の匂いも戦乱の世を思わせる全ての匂いが届かない、そんな塹壕が好きだ。
あらゆるものから遠ざけてくれる土の匂い。それこそが私の求めるもの。

「ここに居たのか」

昼間の委員会で新しく掘り下げた塹壕に寝そべって(殆ど丸まっている状態だ)上を見上げていると、星空を背に男が一人、こちらを見下ろしている。

「文次郎か。悪いが今夜はお前の鍛錬に付き合う気分じゃないぞ」

月と星が輝いていて明るい今夜は、夜目が効いて動きやすい絶好の鍛練日和であるが、そんな日に『バレーしよう』などと騒がない私に対して文次郎は気持ち悪いと言って肩をすくめた。
しかしそうは言っておきながら文次郎がここから立ち去ることはなく、私のいる塹壕の淵にどかりと座り込んだ。
お前の方こそ何だか気持ち悪いなと、そう思ったが口には出さず喉の奥に押し込んで、再び夜の空に視線を戻した。

静かな時間が流れる。私が誰かといて静かな時間とやらが訪れることなんて無いと思っていたのに。
尻や背中から土の冷たい温度が染みてくる。それだけが唯一、今の自分にとって現実味を帯びた感覚だった。

文次郎が何かを取り出してガチガチと音を立てている。大方苦無の手入れでもしているのだろう。

「おい小平太」

苦無がぶつかり合う音に紛れ込ませるようにポツリと呼ばれ、殆ど無意識に上にいる文次郎を見る。

「見えてるぞ」

せめて隠す努力くらいしろと、文次郎は言った。私は少しだけ体を起こして、装束の合わせ目を引っ張り鎖骨の辺りの鬱血痕を隠した。
流石の文次郎も、これが怪我などではないことに気付いていたらしい。

こんなに月が明るい夜に、外になんか出るんじゃなかった。
しかし部屋にいたらいたで長次に見付かっていたかもしれない。どっちもどっちか。今更どうでもいいけど。

「言っておくが、これのせいで鍛練する体力が無いわけじゃないぞ。私は元気だ」

「分かっている。それにそんなことどうでもいいさ」

それもそうだなと押し黙り、さっきまで一緒にいた男の顔を思い浮かべる。
立花仙蔵。冷たく整った顔は大好きな仲間のそれだったが、今はただ、やり場のない感情に塗り潰されてしまっている。
あろうことか奴は私に一服盛り、自由が効かない私に淫行を働いたのだ。
酷く驚いた。嫌だとか、何故とか、そんな事よりもただただ驚いた。


「この私を好き勝手しやがって」

独り言のつもりで呟いた。
立花仙蔵という男はいつも我々の一番先頭を行っていて、口に出したことはないがとても眩しい存在だった。
完璧で孤高で不可侵。こんな自分如きに左右される人間ではないと。
そう思っていたから、正直酷く落胆した。自分が認めた天才も只の人だった。

「私に何を求めるというんだ」

奴に無くて私が持っているものといえば底無しの体力と楽天的な思考くらいだ。それのどこに、奴の意識を引く要素がある。

それまで明るく照らされていた塹壕の底が陰ったから、月が雲に隠されてしまったかと思い空を見上げると黒い影が降りてきた。文次郎だ。
狭い塹壕内で男二人が十分なスペースをとれる筈もなく、文次郎は私の上にいる。暗くて表情はよく見えない。ざわ、と胸がどよめいた。

「俺にあいつを卑下する資格は無い。なぜなら俺も、あいつと同じだからだ」

文次郎の手が装束の合わせにかけられる。荒々しい手付きは仙蔵のそれとは正反対だったが、その姿は見事に彼と重なった。

こんな答えが欲しかった訳じゃない。知りたく無かったよ。前を行く優秀な二人が、俺なんかに倒錯するだなんて。


脳内に巣くった黒い霧が、土の匂いでも消えてくれない。
明日は塹壕をもっと深く掘ろうと思った。

人間の匂いが届かない所まで。




END






完璧だからこそ不完全なものに良くも悪くも引かれるんだろうなと。


10,3,13

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あきゅろす。
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