今日がもう来ない(綾久々)
※年齢操作あり
雪が溶け出した。
ぐちゃぐちゃになった地面を踏みしめて、忍者の卵は今日も鍛錬を繰り返す。
私は今、去年の先輩が着ていた青紫に身を包んでいるのだけれど、どうもその頃の先輩の実力には到底適わない気がしてならない。
やはりこの青紫は先輩の方が似合う。そうは思ったものの、若草色を身に纏う先輩もまた、世界で一番美しいと思うのだ。
本当に綺麗なのだ。
「先輩は何故そんなにも綺麗なんですか」
人目を引いて多くを魅了する為に在るような、完璧な造り。
それ以上に、人を惹き付けてやまない、不思議な雰囲気。呑まれそうになりるのを耐えながらも結局は溺れる事を望んでしまう、そんな不思議な人。
あの人も、あの人も、あの人も。
みんな久々知先輩に惹かれてる。
欲しがってる。
私は大好きな穴を掘る作業を放棄してでも、先輩を誰にも渡したくない。
「俺も綾部の事、同じように思ってた」
「え」
繕っていた無表情が崩れる。否定するでもなく、真意を問うでもなく、放たれた言葉は予想外だった。
「綾部の方が綺麗だよ」
目を細めて笑うこの人を、天然だなんて言い出した輩はどこのどいつだ。
そんなの全くの嘘だ。
計算し尽くされた笑顔に決まっている。そうであってくれ。そうでなければこの人はこの先ずっと無意識に人を惹き付け続ける事になる。
私以外の誰かの物になってしまう危険性が高くなる。
そんなの。
怖くてたまらない。他の人の手に委ねられるこの人の行く末など、在ってはならない。全部全部全部、私に委ねられなくてはならない。
焦燥と渇望が相まって、私は彼の唇を奪っていた。
「綾部?」
「…いつか、聞いて欲しい事があるんです」
「いつかって、いつ?」
「そうですね…私の背が先輩を抜いたら、でしょうか」
「そう、分かった。楽しみにしてる」
そしてまた、柔らかく笑った。
この人は持ち前の生真面目さが故に、本当にその時を待っていてくれるのだから余計質が悪い。だって期待してしまうから。僅かな望みに頼ってしまうから。
勿論、それが自分だけに許された特別扱いであったことは、この時の私には知る由も無かった。
久々知先輩は卒業した。
私を置いて、彼の背中を追う全ての人間を置いて。
私の身長が先輩を越してしまう前に、先輩を攫ってしまえる強さを身に付けよう。その体を、命を、委ねて貰えるように。
「…豆腐食べたら背伸びるかな…」
全てを犠牲に差し出したというのに、箱の中に閉じ込めた様な緩く甘やかな今日がもう二度と来ないのだと知った。
→そして生きている
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