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空の箱庭
4

「グルルルル」

子どもの姿をしていたはずの獣は、地を這うような声をあげ、鋭い牙を剥き出しにする。
うだうだと言い合っていた二人もその唸り声に我に返った。

「おいおい、そんなに怒るなよ〜。よーく話し合えばわかるはずだって」

シライは両手をあげて無抵抗を示し、相手を説得しようとした。しかし、そんな気休めでは事態が丸く収まるはずもなく――。
シライの右手に握られた銃に獣の眼は眇められ、さらに鋭く光る。

「この地に入るときに、武器はすべてリーサル様に差し出すと約束したはずだ。謀ったんだな?!」
「まあまあまあ。そう怒らずに…って、わんころの姿になっても喋れるのかよ!」
「黙れ!」

事態を唖然と眺めていたサクにも、決してわんころなんて可愛いものではない獣の怒りが、激しい波のようにその全身へと伝うのがわかった。
ツギリとシライの態度では事を丸く納める気があるのか甚だ疑問だ。シライは困ったように、いや、諦めたようにも取れるため息を溢した。
獣は地響きのようなさらに大きなうなり声をあげ、今にも襲いかからんとしている。
緊迫した空気にサクは固唾を飲んだ。その面持ちは今にも倒れそうなほど真っ青だ。

「そのくらいにしときなさい」

サクの緊張が最高に達した時、唐突に扉の向こうから、凛とした声音が静かに響いた。

その声に獣の耳が大きく反応し、喫嘆とともに唸り声がやむ。些か戸惑いを纏っているのが伝わってくる。

扉の向こうから現れた人物を前に、ツギリとシライが顔を見合わせるのが見えた。収拾がつかなくなった以上、こうなるのも仕方がない、と観念したようだ。

「ラキ、この部屋で殺生は禁止です。爪と牙を仕舞いなさい」

静かな声だが反論の余地を許さない。
風格のあるその佇まいに、サクは一目でわかった。――この人が。

「リーサル様…」

そう畏まった声で呟いたのは、鋭い爪をしまった幼い獣だった。リーサルと呼ばれた人物は、従順な獣の姿に少し困ったような笑みを浮かべた。

「ラキ、あの一郭から客人を出さぬようにと、門番を任せたはずですが?」

リーサルはそう言いながら、扉の向こうから完全に姿を現した。

淡い色の絹のような髪が艶やかに揺れる。
その長い髪と同じように、身に纏った羽織がさらりと音を立てた。ゆったりとしたそれは、全身を覆い隠しているのに、それでもなお女性特有のラインを際立たせる。
不思議な人だな、とサクは思った。これほど豊満なのに、厭らしさなどどこにもない。むしろ身に纏うのは清浄な芳香だった。

「…あいつが具合が悪いって、俺を騙したんだ」

その視線の先を辿ると、相変わらず事態を淡々と眺めるツギリの姿があった。リーサルはその飄々とした表情を見て、また困ったように眉根を寄せる。

「…ラキ、貴方は少し人を疑うことを覚えないといけないようですね」
「――はい。俺が浅はかでした」
「まあまあ。俺が言うのも何だが、そのわんころがパニックになるのも仕方ねえよ。だってこの能面が今にも死にそうな迫真の演技するんだもんな。いま思い出しても笑いが出る」

ラキを哀れに思い、フォローに回ったはずのシライは、その時の事を思い出して吹き出した。その不謹慎な笑いをリーサルは小さく嘆息して一蹴すると、

「ジェス」

唐突に名を呼んだ。

「――ここに」

気配を全く感じなかったはずの扉の向こうから、低い声が返ってきた。
長身の男が姿を現す。黒髪が顔を覆っている上に、口許が黒い布で覆われており、表情は伺えなかった。

「この者たちをもとの場所へ」
「御意」

男の短い返答を聞くと、リーサルはラキに再び向き直った。

「ラキ、貴方もジェスとともに行きなさい。まだその姿をコントロール出来ないのでしょう?」
「…はい」
「力を制御出来ないのならば、感情のままに行使するべきではありませんよ」
「……」

頭を垂れた獣は、先ほどの咆哮とは打って変わって完全に潮らしくなってしまった。

「この事は他の者の耳には入れません。ジェスと私だけに留めておきます。ラキはもとの姿に戻るまで反省することです」
「…わかりました」

萎んだ風船のように意気消沈したラキは、尾っぽを垂れて重い足取りでとぼとぼと歩き出す。

「お前らも後に続け」

ラキの姿が扉の向こうに消えると、ジェスと呼ばれた男がツギリとシライに顎で示す。

「へーへー。サクより自分の身を心配したほうが良さそうだわ」

シライは悪態をつくと、ラキの後に続こうとした。

「――ってえ!」

ジェスの前を通りすぎる際、問答無用で銃を取り上げられる。シライは悔しそうに睨み付けたが、表情の全く読み取れない男の容姿にやる気を削がれた。
悪態をつきながら男に従う。ツギリは特に抵抗することなく歩を進める。

サクは二人と離れることに不安を感じ、縋りつくように視線を向けた。それに気がついたツギリは、じっとサクの顔を見つめ返す。
そして、大丈夫だと伝えるように微かに目許を綻ばせると、ひとつ頷いた。
…こんな表情も出来るのか、とサクは目を奪われてしまった。




――パタン。
扉はサクを置き去りにして閉まった。




「…さて。嵐が去ったところで、本題に入りましょうか」

リーサルはほっと息を吐き、サクに向き直った。その姿にはシライが表現した横暴さなどどこにもなかった。
先ほどのツギリの表情で、サクは些か落ち着きを取り戻すことが出来ていた。

「名をサクと言うのですね」

リーサルは優しく微笑みかける。

「はい」
「体は大丈夫ですか?」
「はい。おかげさまで。いろいろとご迷惑をおかけしました」
「話したいことは沢山あるけれど…。それよりもまずは体調を整えなければいけません。食事は出来そう?」
「…たぶん。いえ、お腹がすいてるみたいです」

返事をしながら自分が大層空腹なことに気づいた。焦って途中から何故か他人事のように答えてしまった。

「それはよかった。まずは胃に優しい食事を運ばせます。それから可能であれば体を清めて。落ち着いたら…少し話をしましょうか」

サクは優しい声にすっかり安堵し、大人しくリーサルに従うことにした。



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