短編3
サカナの子ども
山神夏芽は、病弱な子供だった。
少なくとも、当時の同級生や教師たちの記憶ではそうなっている。
事実、体育の授業や運動会もほとんど見学状態。
キャンプや修学旅行など、泊りがけのイベントにも参加したことがない。
そんな子供時代から年月を経た現在も、夏芽が持たれるイメージとしては変わらない。
美人というカテゴリに入る容姿と相まって、儚げな印象。
触れば折れてしまいそうで、風が吹けばどこかへ消えてしまいそうな雰囲気を醸していた。
少し咳き込むだけで風邪か病かと騒ぎになり、疲れたと呟けば手にしている荷物全てが奪われる。
白い部屋の白いベッドの中でそれなりにしゃれた装丁のハードカバーの小説、あるいは詩集でも手にして微笑んでいれば誰もが納得するようなイメージ。
ただし、本人と一部の友人を除いては、という一文を添えておく。
そんな夏芽は現在、とある飲み会に参加していた。
居酒屋の一角に席を取った、十数人という小規模とも言えない人数、しかもどちらかというと二十人に近い。
全員が知り合いというわけでもないが、内々に声を掛け合った集まりだということで知り合いの率は高い様子。
おそらく、誰も知り合いがいないという状態なのは夏芽だけだろう。
夏芽はこの飲み会を友人に持ち掛けられたのだが、その友人が来ていない。
友人が来ないことは最初から分かっていたので文句を言うつもりもないが、おかげで知り合い皆無の飲み会である。
友人曰く、「お前が興味持ちそうな話があるんだけど」「誘われたんだけど興味なくて、でも無下に断れない相手でさ。自分より興味持ちそうなのがいるんで聞いてみます、って言ってあるんだよ」とのことだった。
そしてその話は夏芽の琴線に触れるもので、なおかつ会費は興味のない人間が払うには高額すぎ、興味のある人間でも二の足を踏む金額だったため、友人を誘うのは諦めて夏芽は一人で参加することに決めたのだった。
知り合いがいないおかげでこの飲み会で交わした言葉といえば、最初の挨拶を除いて幹事から聞かれた「お酒は大丈夫?」との言葉に「嗜む程度なら」と微笑み付きで返したくらいか。
夏芽はその外見イメージからいつも飲めない人間だと思われがちだが、実は酒に関して底なしと言っていいほど強い。
だが、イメージ通りを演じておいた方が何かと便利でもあることの方が多いので、あえて誤解は正さずイメージを崩さないように演じておく。
それに、嗜む、という言葉の程度は人それぞれなので、嗜む程度という返答は嘘をついたことにはならないだろう。多分。
夏芽の嗜む量が他人のそれよりちょっと多いだけだ。ちょっとだけ。
しかし会話は交わさなくとも夏芽はこの飲み会をそれなりに楽しんでいた。
料理も酒もそれなりだし、店員の対応もそれなり。とても良いとまでは言わないが、悪くはないため不快にはならない。
それに、周囲の人間から漏れ聞こえる会話の内容も興味深い。
さすがに同じ目的で集まった集団だけはある。「美味」「伝説では」「不老長寿」「そこまでは」「薬効」「捕獲したらしい」「集団で」「この世のものとは思えない」「食う」「泡」「陸で死ねば」「金持ち連中の間で」「飾るのも」そんな言葉が漏れ聞こえていた。
それらはすべて夏芽がここに来た目的に関する会話で、それを肴に、なおかつ情報収集しつつ夏芽は酒を楽しむ。
興味深い情報があればあとで調べるつもりだった。
そして、料理がデザートまで供され、皆の酔いが回り宴会もひと段落ついたころ。
幹事から次に移動する旨が伝えられ、一気に集団の熱気が肥大する。
次に移動するということはつまり、本日のメインイベントが始まるということだ。
飲み会なんておまけのおまけも良いところ、今回の集まりはこれから、と言っても過言ではない。
夏芽の鼓動も自然と速度を増した。
幹事が会計を済まし、集団で居酒屋の外へ出て、待ち構えるかのように停まっていたバスに乗り込む。
カーテンの全て閉め切られた、小型の貸し切りバス。
乗り込むと運転席との間にもカーテンが引かれており、まるで外が見えない。
座席に座ると、窓のカーテンはご丁寧にも閉められているのではなく固定されていることが分かった。
カーテンを開けることも、隙間から外をうかがうこともできない。
全員が座ったところで、ゆっくりとバスが動き出す。説明も何もない。
バスの中は緊張と期待に満ち溢れ、幹事をはじめ全員が心ここにあらず、という体である。
それからどれだけの時間が経ったのかはわからないが、最初こそ緊張で静まっていた車内もいつの間にか盛り上がっていた。
夏芽は盛り上がる相手もいない上にイメージを崩すつもりもなかったため、静かにその様子を眺めていた。
すると、運転席とを隔てるカーテンが揺れた。
どうやら助手席にも人が座っていたようで、バスが動いている中カーテンの陰から男が一人現れた。
男は黒いスーツに黒いサングラス、敢えての演出なのか何とも怪しい出で立ちだった。
黒服がひとつ手をたたくと、その音ひとつで車内は静まりすべての目は黒服に集まった。
黒服は「本日は私どものツアーをご利用ありがとうございます」だの「機密の関係上目的地は公開できませんので皆様にはご不便をおかけいたしております」だのと話し出す。
それからいくつかの注意点。もうすぐ目的地に着くということ。質疑応答。
誰かが「食べられるんですか」との質問。「集団が見つかったとはいえまだ貴重なのでそれは」という回答。幹事の「予算では無理」「見られるだけでも奇跡」「億万長者になってチャレンジなさい」との言葉。
やがてバスはゆっくりと停止する。
黒服が乗客に到着した旨を伝えると同時に開くドア。
ドアから近い順に降りてゆく。
そこは既に建物の中だった。
建物の中、というよりも駐車場か。
大型のバスが数台停められる程度の広さ。
アスファルトの地面にコンクリートの壁、コンクリートの柱。
壁にはひとつ白いドアがあり、しかし閉じられているため、外界の様子をうかがい知ることはできない。
全員がバスから降りたことを確認して、黒服が「あちらへ」と指し示す。
その方向は白いドアと反対側の壁、その先には二枚組のガラスドアがあった。
スーパーの入口にあるような、左右に開く自動ドア。
黒服が先導して、そのドアへ十数人は吸い込まれる。
ドアの先はエレベーターだった。
エレベーターはすぐに到着し、十数人はそれに乗り込んだ。
十数人が乗り込んだというのにまだ余裕がある大きなエレベーター、階数のボタンは何も書かれていない一つだけ。
それは既に押されてあった。
エレベーターのドアが閉まる。その向こうで、黒服が頭を下げていた。
小さな圧力を感じながら、静かにエレベーターは移動する。
エレベーターにしては長い、と感じた頃に小さな電子音が鳴り、ドアが開いた。
エレベーターを降りると、廊下も何もなくすぐに部屋が現れる。
部屋というよりもホールと言ってもいいかもしれない、がらんとした広い部屋。
家具も調度品も何もない。
四方は白い壁、絨毯を敷き詰めた床。
それだけ。ただ一つ、部屋の中央に設置されたものを除いては。
それはカーテンだった。
天井から吊り下げられた重厚なカーテンが、ぐるりと何かを囲っている。
誰に言われるまでもなく、エレベーターを降りたすべての人間が、そのカーテンの周囲に集まった。
期待のこもった言葉がひそやかに交わされる。
やがて部屋の光量が落とされた。
部屋が薄暗くなった代わりに、カーテンにスポットライトがあてられた。
部屋の隅は闇に沈みカーテンの周囲だけが明るく、そこを見ろ、とでも言うかのような演出。
高まる期待の中、異音を響かせながらカーテンが巻き上がる。
床から徐々にカーテンは引き上げられる。
一センチ、二センチと少しずつ。
長い、あるいは長いと感じられる時間をかけて、カーテンの向こうが現れる。
それは透明のガラスだった。
夏芽は、その瞬間を待ち望む。
集まった全員が、待ち望んていた。
歓声が上がる。息をのむ気配。ため息。
思い思いにその情感を現してゆく。
ガラスの向こうに現れたのは、少女だった。
大きな水槽の中に浮かぶ少女。
うろこの一枚もない二本の足。
細くくびれた腹囲。膨らんだ胸元、その前で組まれた両手。
白い顔と水に揺れる長い髪。
裸体を惜しげもなくさらして、少女は水槽の中に浮かんでいた。
少女は瞬きをする。
こぽりと口から気泡を漏らした。
その少女はかなり美しい部類に入る姿をしていた。
顔だけではない。体の造作全てが、美しさを体現している。
夏芽が美人のカテゴリに入るとすれば、少女の美しさはそのカテゴリ外のさらに先。別次元ともいえる美しさ。
そして、少女は少女であることによって可憐さを備えていた。
あるいは少女でなく女であれば、それは美しいとしか呼べなかったであろう。
恐ろしいほどに完璧な美しさ、あどけなさが抜ければ少女はそう成長するであろう。
けれど現在水槽の中に浮かぶ少女は、かすかな幼さを残すことで美しさと可憐さの両方を手に入れていた。
成長途中であるという未熟さが、少女を美しいだけにとどめないのだった。
少女は動かない。何も見えないかのように、何も聞こえないかのように。
時折瞬きをするだけで、外界の何にも反応を返さない。
水槽の周りに集まる無数の目に対して、まるでそこに何もないかのように無反応だった。
最初は少女の美しさと可憐さに魅了されていた者たちも、動かない少女に対しやがては疑いの目を向ける。
これは本物か、と。造り物ではないのか、と。
そうして行動に移し出す。ある者は大きな音を立てて水槽をたたき、ある者は言葉で囃し立てる。
またある者は、造り物でも関係ないとでもいうかのように水槽を、少女を凝視していた。
そして夏芽はひとり、静かに自分の首に手を触れる。右手で、右の首筋を。手のひらには布の感触。
水槽の中の少女には、そこに人間ではない証があった。
右だけではなく、左右両方の首筋にひとつずつ。時折水の揺れに呼応して、内側の赤い色が露出している。
それはサカナのエラに似ていて、その二か所のエラと水槽の中で生きていることだけが、少女が人間ではないことを示していた。
騒ぎは徐々に大きくなる。
水槽をたたいていつ者の手の中にはいつの間にか何かが握られているし、囃し立てる言葉はどんどん汚くなってゆく。
水槽の中に入ろうと、天井付近にある水槽の口を目指して登ろうとする者も出てきた。
喧騒を、誰も止めない。止めるものは誰もいない。
そんな周囲の喧騒を意識の外に、夏芽は少女だけを見ていた。
そうして、ひとつぶ涙を流す。
小さく、呟きがこぼれた。「見つけた」と。見つけた。あれが。
「あれが、人魚」
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