短編3
海辺の窓で
波立つ水面が白い泡を立てて、太陽の光に眩しく煌めいた。
潮の匂いと穏やかな潮騒の音。
深い色をした海がひいては寄せて、静かに波打つ光景。
遠目では深い色に見えるこの海の色は、けれど掌ですくうと無色透明に見えるということは知っている。
遠く離れた地では鮮やかな青色をした海を見ることができるということも知っている。
けれど私は海の水を手ですくうことをしないし、この場所の他で海を見ることもない。
だから私の意識では、海の色といえばこの色だった。
その深い色をした海を、私は夏の間、この家のこの窓から眺めるのだ。
強い日差しに照らされる、夏の間だけ。
特別に煌めく、夏の間だけ。
別に特別海が好きだというわけではない。
確かに海は好きだが、永遠と見続けていたいほどではない。
ただ、私がこの窓の傍に陣取るわけは――
――彼女が、来るからだった。
太陽の眩しいこの季節だけ、彼女はこの海に顔を出し、私の元を訪れる。
窓辺から覗く彼女の姿を捉えるためだけに、私はこの窓から動かない。
彼女の訪れを一瞬でも逃さぬように、彼女が訪れない膨大な時間をも、この窓辺で過ごす。
彼女は夏の間、日に焼けない白い肌で、長い黒髪を背に垂らし、つばの広い帽子をかぶって海辺を散歩する。
人気のない海岸沿いを、ゆったりと歩む。
その姿を眺めるのが、私の夏の日課だった。
夏の間彼女は毎日のように散歩するけれど、私の元を訪れるのは幾度かの散歩の内に一度、あるいは幾十かの内に一度という割合で、私はそれを静かに待つのだ。
気まぐれに私の元を訪れた彼女は、いつも決まって、私のすぐ近くの小さな日陰に座る。
そして静かな声で語るのだ。
長い髪が地につくのも厭わずに、帽子の影の小さな唇で。
潮騒の音と混じるその語りを静かに聞くのが、私の至福の一時であり、夏の全てだった。
私の夏はその為だけにあると言っても過言ではなく、彼女の訪れない秋も冬も春も、全てが色褪せる、夏の訪れを待つためのひとときとなった。
ある時、彼女は珍しくひとりの少年を伴って私の元を訪れた。
彼女の散歩は常にひとりきりで、他に人間を伴っている姿を見かけたことはなかったから、私はその事実に多少の驚きと新鮮さを感じ取った。
けれど私にとってそれは彼女が来たという事実だけが全てで、少年は彼女を飾るひとつ、服や帽子と同じだった。
私はいつもの通り、彼女を眺めるのだ。
彼女は少年の手を引きながらいつものように海辺を散歩して、やがて私の元へと訪れる。
微笑みを浮かべた彼女は、けれどいつもの定位置に座ることはなかった。
少年が、引き止めたのだった。
少年の目が私の姿を捉えたかと思うと、少年は立ち止まる。
当然手を繋いでいた彼女も引き止められることとなった。
ふたりは何かを話しているようだったが、やがて少年が私を指差して何かを言うと、逃げるようにして去ってしまった。
ふたりが何を話していたのかは私にはわからない。
ふたりの声は聞こえていたが、言葉として捉えるには少々距離がありすぎた。
その上、私が聞きたかったのは彼女の声だけで、少年の声を聞こうとしていなかったから、たとえ聞こえる距離であったとしてもどういう会話をしていたのか理解していなかっただろう。
私は、彼女の声と潮騒の音だけを聞いていたかったのだ。
静かな海と彼女の姿だけを見ていたかったのだ。
だからその時のことも私の意識に残るのは彼女の姿と声だけで、彼女が少年を伴って来たことと、私の元へ訪れる途中で去ってしまったことだけが異常な出来事だった。
当然のように私は次があると信じていたのだ。
けれどそれが間違いだったと気づいたのはいつだっただろうか。
夏の間は毎日のように散歩をしていた彼女が、その日からはそれすらもやめてしまったのか、私は彼女の姿を見つけることが出来ずにいた。
それからどれだけか、彼女の姿を見つけることができないままに、私は潮騒と海の満ち引きとともに過ごした。
彼女の姿のない夏を過ごすうちに私の中で何かが狂ってしまったのか、時間の経過も、季節の巡りも私の意識に触れることはなくなった。
彼女の姿だけを探して過ごした時間はどれだけになるのか、私にはわからない。
そして、やがて少年が再び私の元を訪れた。
私はそのことに喜びを感じた。
なぜなら私にとって少年は彼女が伴って来た子供とだけの認識で、だからこそ少年を識別していたのだけれど、少年が私の元を訪れるとなれば必然的に彼女と共にだと以外考えられなかったのだから。
そもそも彼女が伴ってこなければ、私にとって少年は海辺の景色の一部としての認識しかなく、個としての識別することはなかっただろう。
だから少年だけがこの場所を訪れるなど、思いもしなかった。
その時も私はあの時と同じように、少年が彼女と共に訪れたのかと心を弾ませて、一心に彼女の姿を探したのだ。
けれどその時少年が伴っていたのは彼女ではなくいかめしい顔の人間達で、彼女のいないことに気がついた私はそのことを残念に思いながらも、それでも彼女が伴って来た少年が来たのだから、彼女ももう間もなく訪れるだろうと判断した。
私はそれを心待ちに、少年はその間に何かしらをいかめしい顔の人間達に指揮をしていた。
少年はにこりとも笑うことなく、指揮を終えると何やら私に言葉を吐いた。
それが合図かのようにいかめしい顔の人間達が何かを私に向けて、そして私は――
――この世界から消えた。
どうやら私はあの少年にとって不都合なもので、そのために私はあのいかめしい顔の人間達に消されたのだろうと理解したのは、既に私があの世界から消え去った後のこと。
だから私は彼女の姿はおろか、二度と潮騒の音も、彼女の声音も聞くことは出来なかった。
最後に見たのが彼女の姿でなく、最後に聞いたのが彼女の声でなかったことを残念に思いながら、私は今も眠っている。
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