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短編3

 薄紅色に塗られた、桜の花を模した飾りが二三かたまって、寄り添うその影に隠れて、色とりどり、鮮やかで、不透明な小さな石がのぞいていた。また、枝垂れるように、金銀の色をした鎖が花弁の隙間から垂れている。路子が簪を持ち直すと、金の色と銀の色が互いを叩き合って、微かな音が耳朶へと滑り込む。
「これを、蔵前さん、わたくしに、でしょうか」
「ええ、ええ、路子さん。それを、あなたにです。どうか、それをいつも身につけておいて下さい。お守りか、保険だと思って、どうか。身につけて頂けるのなら、何と思って頂いても構いませんから、どうか、お願いします。もっとも、路子さん。それを、私と思って持ち歩いて頂けるのならば、私にとって、それ以上の喜びはありませんが」
 蔵前はそう言って、路子に笑みを見せた。けれど路子はその笑みの向こうに、隠され、潜められた、懇願するような、切願するような色を見つける。軽薄に茶化してみせて、けれど隠したその心の底では不安に揺れて、願っていた。路子は、蔵前のその様子に気づかないふりをして、表面だけを見たふりをして、ころころと笑ってみせた。
「あら、蔵前さん。冗談がお上手だこと。けれど、ええ、可愛らしい簪でございますのね、わたくし、嬉しゅうございますわ。こういった可愛らしい簪をいただいたことはございませんの、きっと、大切にさせて頂きます」
「本当ですか、路子さん。きっと、きっとですよ。きっと、それをいつも身につけておいて下さい。何と思って頂いても構いませんから、私の存在を忘れてしまっても構いませんから、どうか、きっと」
「ええ、きっと。わたくし、桜は好きなのです。美しい物は好ましいですし、可愛らしい物も、愛しいですわ。ですから、きっと、大切に使わせて頂きます」
 路子は蔵前に向かい、ころころとした笑いをひっこめてから、再度かんばせに上等の笑みを浮かべ、少し頬を赤らめてみせながら、簪を胸に抱いた。蔵前は路子のその様子に内心喜んだようであったが、路子は、蔵前に気づかれぬよう、そっと、溜息をついた。いただいた簪は可愛らしく、路子の好みではあるものの、とても高価には見えない。寄せられた桜の花弁は軽薄で、色彩も濁り、いかにも安価。触れた感触もざらついて、軽く力を込めれば壊れてしまいそう。金銀の鎖も、濁った輝きと音から、到底本物とは思えない。期待していただけに、路子は己の落胆が激しいことを自覚していた。
 この蔵前という男、路子にぞっこん、と言うまでではないが、かなり入れ込んでいる。初見いかにも懐暖かく、身につける物はさり気なくも値の張る物ばかり。そして何度見てもそれは変わらない。だから路子は、蔵前が贈物を寄越すならば、それはさぞかし高価な物であろうと予測し、期待してていた。だが、蔵前が寄越したはじめての贈物がこの簪、折角高価な物を買い寄越してくれると思っていたのに、どうやら路子の見当違いであったようだ。それでも路子は、蔵前の前で笑みを見せるのだ。
「蔵前さん。わたくし、本当に嬉しゅうございますわ。こんなに可愛らしい簪をいただくのは、わたくし、はじめてですの」
「そう、言って頂けると幸いです、路子さん。ですから、きっと、きっとですよ。路子さんがお嫌なら、その麗しい髪を飾る喜びを得なくとも、良いのです。きっと、いつでも持ち歩いて、忘れないでいて下されば、それだけで」
「あら、疑り深いのね、蔵前さん。もしや、わたくしが、この簪を質にでも入れてしまうのではと疑っておいでなのかしら」
「いいえ、けれど、あなたはその簪を鞄の底へしまって、忘れてしまうかもしれない。箪笥の底へしまって、忘れてしまうかもしれない。私はそれを恐れているのです。だから、どうかいつも手元に置いて、忘れず、その身から離さずに、持っていて下さい。私を忘れても、私は忘れられても良いのです。けれど、どうかその簪のことだけは忘れないで下さい。身につけて、その存在を忘れないでいて下さい。その簪は、きっとあなたを守ります、ですから、どうか、お願いします」
 蔵前は、懇願して、路子の髪を優しく梳いて、それきりだった。微笑んでいたように思うけれど、路子は、蔵前が最後に見せた表情を、覚えてはいない。路子はその時、安っぽい簪に気を取られて、ろくに蔵前を見ていなかったから。またすぐに来るだろうと、良く覚えようとしていなかったから。その出逢いが最後だと、予感していなかったから。だから、路子はその時の蔵前の様子を、覚えてはいない。けれどそれから蔵前は路子の元に通うことは二度となく、それが路子と蔵前の出逢う、最後の日となった。
 路子は、蔵前がどこの誰で、本当に蔵前という名前なのかさえ、知りはしないのだ。路子にとって蔵前自身が語った言葉が、その所作が、触れた温もりが、蔵前という人物を形作る全てだったのだ。その中のどれだけにほんとうが存在するのか、路子は知らない。全てが真実だったのかもしれないし、全てが嘘だったのかもしれない。路子に確かめる術はなく、蔵前が路子の元を訪ねなければ、路子に蔵前と会う手段は存在しない。だから、蔵前が訪れなくなった路子の手元に残ったのは、唯一贈られた桜の簪と、かの人物の口から漏れた、言葉だけ。


「どうか、どうか、その簪を。……きっとその簪は、あなたを守ります、路子さん」






 蔵前の言葉は真実であった。
 その簪は、確かに路子を守ったのだ。本当に、困った時に、その簪が、膨大な金を与えてくれた。桜の花弁も金銀の鎖も本当に安物で、けれど桜の花に隠れるようにあしらわれた、不透明の、色とりどりの石だけは違った。本来なら路子の手に収まるはずもない、非常に、高価で上質な品。
 石は売ってしまったけれど、石を失った簪は、安物ゆえに路子の手元に残った。一銭にもならぬ、桜の簪。けれど路子は、時折思い出したかのようにその簪を胸に抱くのだ。思い出すのは、蔵前と名乗った、その人。


「これは、わたくしの、大切な、思い出の品なのだわ……きっと」

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