06


 佐和の両手が、聞きわけのないおれを宥めようとするかのように両腕をしっかりと掴んでいるのが見える。力自体は加えられていないのに、掴む指先に離す様子は見られない。


 ――抗えない。


「さくら、ほんとうに、俺がさくらを置いて寝てると思ったの?」


 ばかみたいに真っ直ぐで、それなのに揺らぐことのない力強いことば。

 知ってるでしょう? そう言われているみたいで、なにも言えない。知っているよ、佐和は心配性だから。


「さくら」


 古びた床を見ていれば、その足の距離すら、近い。おれと佐和が、信じられないくらい近い場所にいることを感じて、ぎゅう、と目を瞑る。


(むねが、くるしいよ)


 だって、信じられないくらい佐和と近いから。ばかみたいに、この状況に順応できないで、緊張しているおれがいる。

 やがて観念したように、目をきつく瞑ったまま、すこしだけ首を前に倒した。


「ごめんなさい……」

「分かってるなら、いいんだ」

「うん」


 掴まれた腕が、あついよ。

 すこしだけ視線を上げれば、あっという間に佐和の漆黒の双眸に捕らわれて、目が逸らせなくなる。泣きそうになるのを、唇を噛んで堪えた。


「泣きそうな顔しないで、佐和」


 違うよ、おれが泣きそうなのは、佐和に怒られているからじゃないんだ。


 佐和。

 佐和はこうして、拾ったみなしごのおれを大事にしてくれている。あまりにも寛大で、やさしい愛で、当たり前の家族みたいにおれを大切に思ってくれる。たからものみたいに。

 それは、涙が出るくらいうれしくて、同時にあまりにも哀しくて。


「風呂、入ってくる」


 掴まれた腕を捻ると、それは呆気ないほど簡単にほどけて、おれたちのこれからみたいで、過去みたいでもあった。


 佐和は、なにも知らない。なにも、覚えていない。

 それは残酷で、つらいことだけど、同時にありえないほどの安堵もあって。


(おれ、変わってしまったから)


 ――触れることが叶わないのなら、せめて、この口に出して言うことをお許しください。どんなことがあろうともそばにいる未来を、はかなく願うことをお許しください。


 佐和。佐和。

 おまえは覚えていないんだ。おまえは忘れてしまったんだ。

 おれたちが出会う五年前の、それよりもずっとずっと時代の下っていた頃の――。


「佐和」

「うん、どうした?」

「……今やってるバイトで、お金貯めてるんだ。貯まったら高校出る前に――」


 早く、佐和を解放して。おれの心も解放して。もう、我慢するには限界で。


(すきだよ、佐和)


 おれがほしいのは、佐和が与えたいものじゃない。おれがほしいのは佐和だよ。


「ここ、出ていきたいんだ」


 佐和の顔が見られない。そのまま、逃げるように脱衣所に駆け込んで、ドアを閉めて、へなへなと座り込む。膝の間に顔を埋めて、息を吐いた。

 唇を噛みしめる。

 このまま黙っていれば、ずっと、佐和と一緒にいられるんだ。それなのにおれは、なにもかもどこかに置いてきてしまった佐和とともにこれから生きていくのが、さみしくて、こわくて。


 それならばいっそこのまま、離れたいんだ。



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