02
――さくら。
佐和は。
あのとき迷いもない手で抱きしめられた、甘い痺れ。眩暈がするように近い佐和の香りと、子どもみたいに熱い体温。
(て……なに思い出してるんだおれ)
「こえちゃん」
「う……」
ちらりと店長を見る。視線を外すことをせず、じーっとこちらを見下ろしている。
「……昔の約束、忘れられた」
「はあ?」
「そんだけ」
――そう、そんだけなんだ。言葉にすると、なんて単純なのだろう。
再びの逢瀬を。
待ち望んでいた。期待していた。悠久の時が流れるのを感じながら、ただ、再びあのひとと時が交じり合うのを、待っていた。
それなのに、物心ついてそのことをしっかりと思い出したとき、自分の姿に愕然とした。
まぎれもなく、おれは男だった。
どうしようもなかった。
おれの体は、気が遠くなるような昔に佐和が愛してくれた「わたし」の体ではなくなっていて。待ち焦がれていたのに、宿ったのは別の性。
もしも、再びまみえる運命があったとして、今度はその運命をおそれた。
佐和はがっかりするだろうか。おれの姿を見て。それでもおれをそばに置くだろうか。未来永劫結ばれず恋心を抱くことすらないと分かっていながら、それでも、こんなおれでも憐れんでそばに置くか。
耐えられなかった。
だけど、心の隅で、思ってもいた。もしかしたら、ほんとうにそばにいてくれるかもしれないという、一抹の期待。
だけど、現実は、残酷だった。思っていたよりも、もっともっと。
きみは、記憶の奥では測りきれなかったおれの姿に絶望することなんかなくて、その記憶ごとまるっと忘れてしまっていたから。
――見つけた、と。
あのときおれの心の中で、“さくら”が呟いた。
探し求めていた、佐和の魂。
だけど佐和は、おれを、忘れてしまっていたんだ。
「大切な、記憶、だったんだ……」
膝に顔を埋めて、ぎゅっと丸くなる。こたつから出ていた足は、ひんやりと冷たくなっている。
――おれを覚えていないなら、どうしておれを引き取ったの。どうしておれに構うの。おれは、逃げたい。
そばにいたいのに、同じくらい、逃げたい。おかしな矛盾。
「そんなに、こえちゃんにとって強い記憶なの?」
顔を伏せたまま、こくりと、小さく頷く。
ふーむ、と店長はなにかを考えている様子だった。
「そもそも……こえちゃんにとっての強い記憶なら、あっちにとっても印象深い記憶なんじゃないかな……」
「……」
「こえちゃん、ほんとうに、親御さんはすべてを忘れているのかな。確認したことある?」
「そんなのない。だけど、……分かるんだ」
あの寒い日にきみの顔を見たときに、すぐに分かった。きみは、心の奥にすべてをしまいこんで楽になることを望んだのだ、きっと。
「そっか」
ぽん、と頭に乗りかかる大きな手の質量。ビールの缶を持っていたのだろう、冷たい熱が伝わる。
まあいたいだけいてくれて店長は全然かまわないよ。
なんていって、店長はおれを風呂に追いやった。肌寒い脱衣所を抜けて、一気にシャワーを頭から浴びる。
熱い。
目を瞑る。
再びの逢瀬を。
分かっている。
おれの思いは届かない。
シャワーを止めて、すこしだけ曇りのかかった鏡に、情けない顔をしたおれが移る。
ぴちゃ、と水滴が落ちる水音が止まない。
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