彩雲国小説
優しさの移り香
「絳攸?入るよ」
返事がないことを疑問に思いつつ、コンコン、と扉を叩いて楸瑛は吏部侍郎室の扉を開けた。
うず高く積まれた書簡の山から覗く銀色の頭は、机案に伏せられている。
「……絳攸?寝てるの?」
小さく声をかけたがやはり返事はない。楸瑛は山積する書簡を崩さないように、そして絳攸を起こさないように、一歩ずつそっと机案に歩み寄る。
耳を傾けると、すーすーという安らかな寝息が聞こえた。
「なるほど……君が迷わないなんてめずらしいと思ったんだけど。見当たらなかったのはここにいたからなんだね」
それにしてもずいぶん疲れが溜まっているようだ。絳攸は組んだ腕に頭を乗せ、息苦しくないようにか右側に向けた顔は、濃い隈が両目を縁取っている。
「……後でまた迎えに来るから」
だから今はおやすみ、と楸瑛はささやいて、自分の上着を脱いで眠る絳攸にかけた。





ふっと意識が浮上して、絳攸は目を覚ました。
(いかん。うたた寝を……)
あわてて起き上がると、バサリと何かが床に落ちた。
拾い上げてみるとそれは上着で、何かをかけて寝た覚えはないし、何よりそれは――、
「……楸瑛のか」
準禁色の藍。今朝廷でこれを身に纏うことができるのは一人だけ。
ありすぎるほど見覚えのあるそれは、ふわりと焚きしめた香の香りがした。楸瑛が好んでよく焚いているものだ。
「……一応、礼を言っとくべきか……これは」
つぶやいて、丁寧にたたんで、墨で汚れないように脇へ置く。
(とっとと片づけないとな……この書簡の山)
少しでも早く礼を言うために。


筆を持った右手の袖からは、楸瑛の移り香がした。







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あきゅろす。
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