ひょっとしたらこの宇宙は、なにかの怪物の歯の中にあるのかもしれない
背後から回ってきた手に抱き締められると、名前は思わず自分の身体が強張るのを感じた。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ……大丈夫です」
そう言いながらも、名前は自分の心臓が僅かに震えているのを感じていた。
驚いたというよりは、恐ろしかったのかもしれない。
ふとした瞬間に、赤屍がとても恐ろしく感じることがある。
後ろから抱き締められたとき、甘く囁かれたとき、名前はまるで深淵を覗き込んでいるような恐怖に襲われる。
赤屍のことは愛している。愛されているという自負もある。
だが、ふと脳裏をよぎるのだ。
自分は何かとても恐ろしいものの手の中にいて、知らぬ間に閉じ込められているのではないかと。
「赤屍さ…――」
名前の小さな叫び声を遮るようにして赤屍の唇が重なる。
愛しげに細められた目は、やはり底知れぬ闇に似ていた。
『ひょっとしたらこの宇宙は、なにかの怪物の歯の中にあるのかもしれない』
――アントン・チェーホフ『手帖』より
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