*グウェンダル

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名前はケータイの画面を睨み付けて、もう何度目めかわからない唸り声をあげた。


グウェンダルさんにメール、なんて思いついてしまったのが悪かったのか。花金のテンションでつい。
メールの文面を作成する場面のまま、もう30分は経過している。いい加減自分でも焦れてきた。


思いついたは良かったが、いざメールを作成するとなると困った。それはもう非常に困った。
まず無難に「こんばんは」「お仕事お疲れさまです」から始めるとして、それでどう続くのだ。「思いついたのでメールしてみました」?
そんな馬鹿なメール、あれほど忙しい方相手なら恋人ですら自重するだろう。

かといって用事があるわけでもなし、あれこれ考えて文を作ってみてもどれも良くない気がして、打ち込んでは消し、打ち込んでは消し。
送る相手が相手だし、長すぎてはダメ、読みやすく簡潔な文で、なるべく飾らない内容、絵文字は使わない方がいい?

…ってそんなこと細々気にして、私は彼氏に初めてメールする彼女かなんかか!

想像したら、現実とのギャップも相まってどっと疲れた。グウェンダルさんは、彼氏なんかじゃない。
思わず手にしたケータイを閉じ、ベッドへ放る。


ただメールを送ってみたいだけだったのに、始めのテンションなんかとっくに切れてしまった。
ついでに集中力も切れて部屋の時計を見てみると、アナログの長針がそろそろ一周するところだった。


「あーあ…。やめようかな…」


どうせ送らなくてもいいメールだ。葛藤しているのは自分だけ、ここでやめてしまってもグウェンダルさんは何も知らない。何も変わらない。花金の夜のまま、何もなかったことになるだけだ。

強張った手のひらと体をほぐそうと、ぐうんっと大きく伸びをする。肩や腰辺りがゴキゴキいって気持ちいい。
ゆっくりと弛緩しながら息を吐き出せば、なんだかとてもすっきりした。がんじがらめになった頭の中をまっさらにすると、やっぱりグウェンダルさんの顔が脳裏に浮かぶ。
仕事中は厳しいだろうその視線を手元のカップにやわらかく落として、少しだけ口元を持ち上げながら私の話に耳を傾けてくれる。
それから、道を一緒に歩いていて、時々隣を見上げたときのスーツ姿の幅広い肩と、横顔だとか。


そういえばあんな姿も素敵、こんな仕草も格好いい、などとつらつら考えていると、なんだかにやけてしまって、ほかほかむずむずしてきた。テンションもじわりじわり上がってくる。

そのうちたまらなくなって、さっき投げたケータイに手を伸ばした。画面はまだメール作成中のまま。笑ってしまった。
そうだ、こんな気持ちで、メールを送りたくなったんだった。考えるだけで嬉しくて、楽しくて。
文面がなんだ、そんなの好きにすればいいじゃないか。指の動くままにことばを綴って、送ってしまおう。それがいい。
うんうん。

………うーん。


「いや、そら無いな」


やっぱり自ずと多少は気を遣わずにはいられなかった。ええ、お互い社会人ですのでね。
考えなしは怖いね。

それでも先ほどより大分晴れやかな気持ちで、ナマエは再度ぽちぽちとケータイのボタンを押し始めた。


送信ボタンを押す瞬間は、きっとグウェンダルさんなら怒らない呆れない、優しい人だから、という事実に甘えて、勇気をもらった。
よし行けっ!




***



定時どころかあわや夜の九時を回ろうかというところでようやく幕引きとなった長丁場の会議の後、グウェンダルは情報交換も兼ねて執務室でコンラートと雑談をしていた。と言ってもグウェンダルは今日で済ませたい書類を処理しながら、コンラートも資料片手である。
肉体的にも精神的も疲労が滲むが、まぁ金曜のこんな時間まで仕事をしていれば仕方のないことだったし、特に稀という訳でもなかった。


「…だからあちらの店舗の人事はこれ以上問題が起きないうちに打診してほしいんだが、……?」

「…どうした?」

「…グウェンダル、携帯鳴ってないか?」

「何?」


コンラートに言われて卓上の社員用携帯電話を見るが、そちらは鳴らず光らず、沈黙したままだ。
では私用の方か、と耳をすますと、確かにヴーッヴーッと鳴っているバイブレーションが聞こえた。鞄の中からだ。
さらに数回鳴ってすぐに鳴り止んだので、メールだろう。

私用の携帯に連絡をしてくる人物は限られている。
両の手で数えても指が余る程度、しかし鞄を開けながらある人が真っ先に頭をよぎったのは、自意識過剰や期待の類だろうか。


画面を見て、送信者を確認する。その名前を見ただけでもう声が聞こえてくるようだった。私の名を呼ぶ素朴なアルト。思わず目を細めた。

しかし自分はまだ会社にいるのだ。私的な用件であろうそれを今読むか、咄嗟に判断しかねていると、コンラートが何故だかやたら嬉しそうに手元の資料をトントンと整えだした。


「グウェンダル、俺はもう帰るよ。明日は渋谷家と野球の試合観戦なんだ。まぁ奥方と長男坊は相変わらず興味がないらしいが」

「あ、ああ…そうか。いや、遅くまで引き留めて悪かったな、コンラート。今日はゆっくり休め」

「是非そうするよ。ところでそのメールは、返事をするよりも電話をかけた方がいいと思うな」


グウェンダルが文章を考えている間に、苗字さんの方が眠ってしまいそうだしね。

グウェンダルが絶句している間に、コンラートは一際嬉しそうに笑って「それじゃ、お疲れさま」との挨拶を残し、颯爽と去っていった。


マナーに則って扉が静かに閉められ、その足音がコツコツと遠ざかってから、グウェンダルはハッと我に返った。
何故だ。当たり前のようにバレている。そんなにもわかりやすい態度だったというのだろうか。

それは大いに省みるべきだと思いながらも、意識は携帯の画面へ。
メール画面、
受信ボックス、
メインフォルダ、
“送信者:苗字名前”。


そう長くはない文面の最後まで目を通したら、口元が緩んでしまうのを止めることは出来なかった。
我ながら腑抜けたものだ。こんな情けない姿は誰にも晒せない。
しかし、人として悪くないと判断する気持ちも確かにあった。こういった感情を、おそらく世間一般では幸福と呼ぶのではないか。
一件のメールに大層な表現だが、それで良いと思う。


その幸福の元を何度も読み返す。夜の挨拶と労いの言葉、突然のメールすみません、との謝罪。それから些細なお喋り。忙しいだろうから返事はなくてもいい、とも添えてある。
簡素な文体に絵文字がふたつだけ使われたメールは、彼女らしい気もしたし、こちらへの気遣いが見える気もした。
…今時の若者が使うような言葉が用いられていなくて安心した、と言ったら笑われるだろうか。


どう返事をしようか、と考えたところで、先程のコンラートのセリフが浮かぶ。電話をしてしまえと。
…確かに、内容に文体に言い回しにと散々悩まされるだろうことは目に見えている。

苦笑して、それから思い当たった。
さらっと送られてきたように見えるこのメールも、彼女もまた、あれこれと悩み抜いた末に送ってくれたのだろうか、と。

もちろんそうでないかもしれないが、もしもそうなら。私にメールをするために少しでも考えることがあったら。
同じ金曜日の夜に、何処にいるか知れない相手へ。



礼を、直接言うべきだという気がする。この関係において一番最初のメールを送ってくれた、その心へ。

礼を言うということは返事をする声が聞けるということで、その点純粋な感謝でだけでなく私情も見え隠れするが、それもまた問題ないのだろう。
アドレス帳から手早く彼女の名前に辿り着き、一呼吸おいてから、通話ボタンを押す。







グウェンダルさん、と。
先程思い浮かべた声が今ほんとうに耳を打ってくるのを、グウェンダルは目を伏せてじっと待っている。



***



軽快に歌いだしたケータイに、跳ねた心臓と期待を抑えながら手を伸ばす。





ある花金の進展






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