100608 今は昔1
ある日のこと。
気分転換に森の中を歩いていたら、何か硬い物をコツンと踏んだ。反射的に石でも踏んだかな、と思いながら次の右足を地に着け
た、と思ったら肌に触れる空気がすべてヒヤッとしたものになって鳥肌が立った。
次いで、周りの景色に違和感を感じて足を止める。違和感…というか、なんか違う。…えー?
視界ぜんぶがそんなんだから目眩がしそうだ。
辺りを見ても森は森だ。でも、足元の草原にちょこちょこと花が見えるし、よく見れば草の色がより若々しくて明るい。木々もそうだ。
冷たいと思った空気はほんの少し温度が下がったくらいで、そよそよと揺れる感じは何だか柔らかい。空気が違う。
というか、季節が、違う?
…何故。また何か不思議なことが起きた?
戸惑って立ち止まったナマエの耳に、遠くから声が聞こえた。咄嗟に集中して耳を澄ます。
何だか、聞き慣れた声のようなそれが。
「アリスー?大丈夫かーい?」
「ここよマッドハッター!だいじょうぶよ」
アリス。マッドハッター。
ナマエはハッとして声の聞こえた方向に走り出した。
***
息が切れる頃に辿り着いたのは森の端。そこには大と小の二人がいた。
ナマエは荒い息を整えながらゆっくりと近付く。大きいのと小さいのはほぼ同時にこちらに気が付いた。小さい方が高い位置から声を落とす。
「あらー?見たことないひとね!あなたはだぁれ?」
「……ナマエ、だよ」
「ナマエ?わたしはアリス!どうぞよろしく!」
見上げる高さの木の上にいるアリスは、枝にしっかり掴まったままにっこりと笑った。ナマエも微妙に笑い返す。
あんなかわいいドレス着てるのに、大丈夫だろうか。
それから視線を落としてもう一方、大きい方を見る。それはなんだか、ここ最近で見慣れた姿。浮き足立った心が落ち着く一点。ああ。
ナマエは怪訝な顔をしている向こうが口を開く前に先手を打った。
「あなたは、マッドハッター?…えーと、タラント?」
尋ねると、向こうは目を丸くした。心から不思議そうな表情になる。警戒も少し薄れたようだ。
「どうして俺の名前を知ってるんだい?俺は君の名前を知らないのに」
「んー、うん、わたしはマッドハッターのことを知ってるよ。わたしはナマエだから、覚えてね」
「うん…?うん…」
適当にごまかした。マッドハッターはまだ不思議そうな顔で首を傾げているが、とりあえずあれこれと突っ込んでくることはなさそうだ。ひとまず安堵する。
その間に、アリスが器用に地面近くまでするすると降りてきていた。最後はピョンと飛んで軽やかに着地する。子どもは身体が軽いなぁ。
ドレスにくっついた葉っぱをポンポンと落とすと、アリスはまたもやにっこりして駆け寄り、小さな手でナマエの手を引いた。
「あっちでお茶をのみましょうよ!おかしもあるの。それでね、あのね、ナマエはどこから来たの?」
ナマエはアリスをまじまじと見下ろした。無邪気に見つめ返してくるアリスは、肩までのウェーブのかかったブロンド、簡易だけれど上質そうな水色のドレス、人種の違う幼い顔立ち。興味をそのまま表して輝く美しい色合いの瞳。
顔を上げてマッドハッターを見る。何だい、といった感じでこちらを見てくる彼は記憶の中の姿とあまり変わらないんだけど、やっぱり若い感じがする。
それから、気分によって色が変わるんだよと教えられたそのコートが、見たこともない明るくてやわらかいキャメルの色をしている。
それはつまり、彼の気分が明るくてやわらかいということだ。わたしが見たこともないくらいに。
辺りは瑞々しい森林。違う季節。何より、アリスと名乗るこの女の子が、こんなにも幼い。
「…多分、未来から来たんじゃないかなぁ」
多分だよ、たぶん。
そう繰り返して付け足したが、アリスの表情はよりいっそう嬉しそうに輝いた。…純粋だなあ。
マッドハッターがこれ以上ないくらい目を真ん丸にしている。
***
それから紅茶を飲みながらいろいろと話をして(喋っていたのは主にアリス)、やはりここが過去のアンダーランドだという確信を得た。
ここにはまだ赤の女王がいて、アリスは白いバラに赤いペンキを塗ってあげたりもしたらしい。こういう変なポイントでお伽話である不思議の国のアリスを踏襲しているのだからよく分からない。
赤の女王はしかしやはり善い人とは到底言えないらしく、マッドハッターは微妙な顔をしていた。
時折未来から来たとはどういうことか等と聞かれたりもしたが、あまり変わらないんじゃないかなと曖昧に答えておいた。
具体的な点は適当にはぐらかしてアリスに話題を繋げれば、さすが女の子らしくいくらでも喋る喋る。
そうなればマッドハッターも彼女の話に合わせて笑ったり驚いたりするものだから、結局言及はされずに済んだ。
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