100601 どれほどの力で

ずっと遠くから聞こえていた小さな靴音が背後でピタリと止まった。しばらくして再度靴を鳴らし、後ろからそっと近寄って、マッドハッターはそのまま傍に佇む。
さすがに沈黙を保ってはいられなくて、何なんでしょーね、とナマエは呟いた。



「なんでわたしここにいるんだろう…」



それが特に答えを求めているようには聞こえなくてマッドハッターが答えに口を開かないので、夜のバルコニーはまたシンと静まりかえった。
風のさざめきや幾重もの虫の声が夜に際立つ。大気の向こうで星が瞬く音が聞こえる気がする。



「『ありえない』は『ある』に勝てなくて。わたしはここにいて、此処もまた在る…はず、なん、だけど」



それじゃあ此処は何処だ。ナマエは重心を預けているバルコニーの手すりをコツコツと叩く。
早い話、地球上に実在するわけがないアンダーランド。なのにわたしという存在は在って、此処にあるのだ。何この片付かない理論。

この世界の存在を、わたしの五感すべてが肯定している。到底夢などでは済まされない「実感」。視覚を味覚を触覚を嗅覚を聴覚を、否定することは難しい。

だから否定の余地があるかもしれないと思うのは、「わたしが存在している」という点。
わたしが本当は存在していないなら、つまりわたしの五感も確かではなくて、すると五感によって肯定されるこの世界の存在もあやふやなものになる。
そうすれば常識は守られる。

だけど「わたしが本当には存在してない」なら、ぶっちゃけ何もかもがどうでもいい。だってわたしは本当はいないんだから。自分がいない世界について考えてどうする?自分が存在していない星が爆発しようと何だろうと知ったことではないのと同じだ。どうでもいい。


だからやっぱり前提として、わたしは存在する。するとわたしの五感に従って、この世界は存在している。
だけど不思議な生き物ばかりがいるこのアンダーランドが、地球のどこかにあるわけがない。


何なんだろう、ほんと。



何度思考を始めても堂々巡り。結局最初のことばに立ち返ってため息を吐いたナマエに、マッドハッターは遠慮がちに手を伸ばした。



「アリスはこのバルコニーで、俺とこの世界はアリスの夢なのだと言ったよ。ナマエは逆のことを言うんだね」

「夢…。この世界が?」

「うん。あのフラブジャスの日の前日、美しい春の夜に」

「こんなに実感があるのに…夢って言い切ったの。それはそれですごい」

「夢なのが寂しいとも言ってくれたけれど」

「…帰っちゃったんだね」



マッドハッターは「そう」と返しながら、恐る恐るナマエを引き寄せて腕の中にすっぽりと閉じ込めた。引かれるままにされたナマエは閉じ込められてからようやく瞬きをする。



「……マッドハッター?」

「夜はまだ冷えるって言ってるでしょ。身体冷やしちゃダメなんだよ。…ほら、肌が冷たい」

「あ、うん…マッドハッターあったかいなぁ」



一度触れ合ってしまうともう離れ難い暖かさ。ほっとする。ナマエはマッドハッターの外套と腕に抱かれたままもぞもぞと身体を動かして、先程と同じく風景が見えるようにマッドハッターに背を預けた。
…うーん、ぬくい。


花がほとんど散ってしまった桜並木は今、夜空の下で瑞々しい若葉をやわらかく風に揺らしている。季節がもっと夏に近づいていけば、太陽の光を浴びて力強い緑葉を生い繁らせるだろう。

そういう季節すら、今までは訪れてこなかったそうだ。時間が進むのを嫌がったから。アリスはその時の流れを再生させて帰っていったわけだけど…。
この世界ってつくづくどうなっているんだか。





みんなが、アリスアリスと囁く。
世間話をしながら、思い出話をしながら、想いを馳せながら。元気かなあ?今何をしてるかなあ?僕たちのことを私たちのことを覚えているかしら?ああ、アリス。
アリス。


わたしはどうして此処に来たんだろう。平和はもう訪れたんだから誰もわたしを呼びやしないのに。



マッドハッター、

マッドなんていうけどおかしな格好してるけど、多分誰よりも人間らしく。

実のところこの人が誰よりもアリスを大事に思っているのだろうけど、この人が一番近くに立ってくれるから触れてくれるから少なからずわたしを見てくれるから。
(それともアリスと比べてるの、それとも代わりにしたいの)


帰りたい帰れない、帰らない。
なんでどうしてわたしは。この世界は。あなたは。





結局なんにも言えないで、ナマエは小さく息を吐いた。なんて美しい世界。







マッドハッターが心配そうに小さく呟いたので、ナマエは丁度いいのにと笑った。
優しい夜の下でマッドハッターが安心して微笑んでくれれば、ほら、この世界を嫌いになんかなれるはずがない。




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ワンダーランドにちょっと慣れてきた頃のお話。閑話のような主題のような◎






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