xxxxxx 夕立(ギャング/成瀬)



名前は息を切らして走り続けていた。
ザアザアと強く降りしきる雨は地面に霧のような白い波を作り、大粒の水が顔を打つ。
足元など見ていない。深い水たまりを蹴飛ばしたのか、ばしゃりと波が起きる。



嘘だ、とひたすらそれだけ思っていた。彼の言葉も、あの人の言葉も、嘘だ、嘘だ。きっと。



目に雨水が飛び込んだが、気にしなければどうということはなかった。服も髪も靴の中も何もかもとっくに有り余る水を含んでいて重い。

空気中は水分だらけだから乾きに喉が痛むことはなかったが、全力で走り続けるには体力が限界だった。足も体も悲鳴を上げている。今すぐ止めて、せめて歩いて。そうしたって辿り着くでしょうに。すべて無視した。



曲がった先に歩行者がいないようにと念じながら曲がり角を蹴る。幸い100メートル先の噴水のある広場まで歩く人はろくにいなかった。両脇に店舗がずらりと軒先を並べているのだから当然だ。雨が降ったならその中に逃げ込めばいい。




なのに、まだだいぶ離れたひとつの街灯のしたに人影が見えるような気がして、いっそう強く思った。嘘だ。違う、見間違いだ。こんな土砂降りの雨の中だから。



近づくにつれ、それは確かな形を成していった。そして色を伴う。
よく見知った人。大量の水を落としてくる暗い灰の空を見上げている。


嘘だ、と、もう思えなかった。





自然と走る速さが落ち、そこに着く前についに足が止まった。
しかし成瀬はこちらに気がついて微笑んだ。



「遅刻だ」



名前は両手で顔を覆った。

ああ、あの時会ったのが久遠、君でなく響野さんだったなら。
私に助言をしたのが彼だったなら、私は耳を貸しもしなかったのに。あの人は嘘ばかり言うから。



「帰ればよかったのに」



切れ切れの息の下から声を振り絞った名前に、成瀬は飄々と返事をした。



「雨に濡れるのが意外と気持ちよかったんだ。それに誰かさんと待ち合わせをしていたからな」






告げることも隠すこともできない未熟な気持ちに成瀬が先回りして応えた時から、嘘だと思っていた。都合のいいその言葉に甘えてはいけない。成瀬は同情したのだと、信じたがる自分を傷付けてでも必死で押し止めた。
信じれば、いつか狂うほどの悲しみを避けられない。




名前はふらりとよろめくようにして、広げられた腕の中に飛び込んだ。そこもまた水に満ちている。しがみついたスーツは、走って来た名前より冷たかった。成瀬の大きな手が名前の頭を抱く。



「どこか、店でも入ってれば良かったのに」

「待ち合わせ場所は店内じゃなかっただろ」

「私、大学生ですよ」

「そうだな」

「頭良くないし、十七も離れてる…っ」

「それがどうした?」



声が掠れる。
ようやくずっと苦しみ続けていた胸の内を吐き出したのに、成瀬は変わらず天気の話でもするような調子で答えた。
(今日は酷い雨だな、)



「名前。銀行強盗をするような男は、そんなこと気にしないんだ」



雨か涙かもわからず泣きじゃくる名前を丸ごと愛しげに抱きしめて、成瀬は「知らなかったのか」と問いかけた。
返事は言葉にならない嗚咽。






***




雨雲はしばらくそこに滞在することに決めたようだった。大雨が止む気配はない。



手を繋いで濡れ鼠のまま帰る道すがら、名前は泣いたせいで熱を持つ頭でぼんやりと考えていた。

今なら、なんだか、何でも言えそうだ。落ち着いたら聞いてみたいことがいろいろある。例えば、別れた奥さんとタダシくんのこと。



久遠の声がふと耳に甦る。今頃はコーヒー片手に響野さんのいつもの演説をうんざりしながら聴いているかもしれない。

待ってたよ、と彼はロマンのドアを開けて名前の姿を認めるなり言ったのだ。
驚いた顔をして、「成瀬さん、傘も持たないで名前ちゃんのこと待ってたよ。行かないの?」。


理解した瞬間頭が真っ白になって、気がついたら土砂降りの雨の中を走っていた。

私、来たよ、久遠。成瀬さんのもとに。多分、それで正しかったんだ。



隣の成瀬が相変わらずバケツをひっくり返したような雨の中で「これならいっそ止まない方がいいな」と笑って名前の手を握り直した。


夕立




言い聞かせ続けた疑念などよりもずっと確かな、
触れあうその手は温かい。





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