三月の獅子に続く道で
※『3月のライオン』
3巻ラスト
取材陣を前に島田さんが語ったり質問に答えたりするのを見ながら、桐山はこの場に女の子がいることに気が付いた。部外者でなく落ち着いていて、年は近いように見える。
島田さんと向き合うような位置の二海堂、の隣に、ただゆったりと静かに控えている。
時折取材陣に目を向けながらも基本島田さんに意識を傾けているようで、とりあえず島田さん側の人なのだろうなと思った。
不意に視線が合って、静かな瞳と見つめ合う。
はたと我に返ったときにはその瞳はまた島田さんを見ていたけれど。
「坊、すまん、何か冷たい物買って来てくれないか」
「はいっ」
二海堂が勢いよく返事をして立ち上がった。
それを見上げたあの女の子はふと島田さんに目をやった。島田さんは微かに頷き、女の子は息を吐いて「わたしも行きます」と立ち上がった。
初めて喋るのを聞いた。思ったより低い、やわらかなアルトの声。
「ていうか晴くん、お財布持ってないんじゃない」
「え?あっそういえば持ってません!」
「……坊…」
「だ、だっていつも花岡が支払いを済ませてくれるんです!」
「お茶でいいですか?」と尋ねる二海堂。財布を持った彼女はこちらにぺこりとお辞儀をすると、二海堂を待たずマイペースに部屋を出ていった。
二海堂が慌てて追いかける。「名前、何を買うのか聞かなくてどうするのだ!」「晴くんが聞いたじゃん」「ああ、まぁ僕は気が利くからな」「誰が…」「うん?」「いや、べつに」
遠ざかる声が最後に「何買ってもいいと思うけどね」と言ったのが聞き取れて、桐山は島田さんを見た。島田さんは苦笑する。
人払いをしたのだ、と、ひどく熱い何かで頭も胸も一杯なままの桐山は思い当たった。
「さて、……と」
「……。」
今はこの人と一対一なんだと思うと、ほんの少し冷静になる。
あの日、この人に負けた。
後藤との勝負。
重たい重たい一撃。
将棋。
…将棋。将棋の世界。
「あの…、島田さん」
ききたい事が、あるんです。
「「研究会に」」
「入らない?」
「入れて下さい」
………。
暫くの沈黙の後に笑いだした島田さんと、わけがわからずキョトキョトしだした僕を、腕を組んだ二つの黒眼が、いつの間にか入り口からやわらかく見守っていた。
「おまたせしました兄者!!……え?あれ?何ですか!?何で盛り上がってるんですか!?」
何を思う間もなく、彼女の後ろから飛び込んできた二海堂が「僕もまぜて下さいよ!」空気を盛り上げたようなぶち壊したような形になった。
彼女はその腕の飲み物の一つを残してひょいひょいと他を取り上げ、部屋に上がってその内の一つを僕に差し出した。
「はい」
「え、あの、いいんですか」
「どうぞ」
「あ……どうもありがとうございます」
島田さんにもお茶を手渡し、二海堂が島田さんの隣に座るのを待って二海堂の横に座る。
レモンティーのボトルのキャップを捻る彼女と僕を、島田さんは交互に見た。
「桐山は名前を知らないか?苗字名前、俺の研究会で一緒に研究してる。今年プロ入りしたんだ。高二な」
「わ…、あ、じゃあ同い年ですか?おめでとうございます」
申し訳程度にレモンティーに口を付けた彼女は、眩しいものでも見るかのように目を細めて僕を見た。
「桐山零…くん?」
「あ、は、はい」
「島田さんと、あなたを見て、プロになりたいと思ったんです」
どうぞよろしく。
ゆるく膝を開いた正座で、肩につくかというくらいの髪を揺らして名前さんは頭を下げた。
「こ、こちらこそ!」
慌てて同じくお辞儀を返す。同い年だけど、学生としても研究会でも先輩だ。
…先輩、という言葉が、僕には初々しい。それに、僕を見ていて人生を決めたなんて。嬉しいやら申し訳ないやらで、少しドキドキした。
二海堂は流れが読めずに皆の顔を代わる代わる見ている。
仕方がないので「研究会に入れてもらったからよろしく」と教えてやると、「えっ、本当か!?おお、お前もようやく…」云々、思いっきり飛びついてきた。
名前さんと島田さんは僕らを見てから目を合わせ、可笑しそうに笑った。
空気の質がまた柔らかくなる。
“でも”が百個揃っても開かない新しいドアを、ついさっきの「入れて下さい」で開けたかも。
てきとうに二海堂の相手をしつつ二人を眺めて、そんなことを思った。
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