xxxxxx 在るが儘に恋せよ(M0/伊勢兄)



昼休み。

伊勢は屋上に寝転がり、摘まんだ紙をヒラヒラと風に泳がせ眺めていた。空は快晴。



「それ…航空チケット?」



未だ弁当をつついている永井が遠慮がちに尋ねた。大物の新入生のおかげで誤解が解けてから、まだ日は浅い。
それでも自然とまた行動を共にするようになった。それが本来の形であったから。



「ああ。…そういや俺再来週日から二週間くらいいねーから」

「…家族旅行…?」

「ちげーよ」



伊勢が珍しく穏やかに笑うので、永井は目を丸くした。



「ちょっと海外旅行にな」



少しの間の後、永井が納得したように「ああ」と声を漏らした。始まりは去年のことだったから、永井も大体は知っている。


先日かけた国際電話で聞いた、驚いた声を思い出す。元気そうで安心したし、こちらから会いに行きたいという提案をものすごく喜んでもらえて自分も嬉しかった。


来週から待ちに待った夏休みが始まる。
あれから、もうすぐ一年が経つ。




***




「先輩」


伊勢はこちらに背を向けて歩く名前を呼んだ。名前は橙に染まりつつある白のスカートをふわりと翻して振り向く。
眩しい。真新しいそのスカートが、砂浜が、潮風に晒された手足が。海の向こうへ去ろうとする夕陽が。こんなに苦しいのではサンセットなどと言って暢気に楽しめもしない。



「なに?」

「……あ、やっぱ何でもないス」



今度こそと口を開いて、渦巻く胸の内のどれを言葉にすればいいか迷い、結局口を閉じる。ここのところ伊勢は同じことを繰り返しその度に内心で己を叱りつけていた。
名前は何も言わず笑ってまた歩きだす。右手には脱いだミュール。裸足だからか彼女が軽いせいか、彼女の足跡がうっすらとしか残らないことに伊勢は気付いていた。うすら寒くなる。



「夕陽きれいだねぇ」



独り言のように名前が言う。その声は穏やかで、表情を窺っても緩やかに笑む口元と眩しげに細められた目と。悶々と思い悩む伊勢とは裏腹に、名前はこの時間を満喫しているようだった。



突然海が見たいと言い出した名前を伊勢はもう夕方だからと引き止めたが、普段は物分かりのいい彼女は何故か今回に限って「今がいい」と言い張った。その態度に面食らいつつ、伊勢は仕方なしに親戚から借りているバイクのエンジンをかけ、後ろに名前を乗せて飛ばしてきたのだった。


今になって伊勢は名前の我が儘の理由に見当がつき始めていた。
夏休みはもう残り二週間を切ってしまった。自分にとっては高校最初の、名前にとっては高校最後の。
だからこそ彼女は…



「聡史!座ろう、疲れるよ」



大きめの声に呼ばれハッとして名前を見ると、いつの間にかミュールを横に放り両足を投げ出して名前は砂浜に座っていた。来い来いと手招きされるのに従って伊勢も腰を下ろす。

もう思考に沈み込まないよう気を付けようと伊勢は一息ついた。そうして落ち着いたところで、名前がもう海ばかりを見ているわけではないことに気付く。こちらに気を遣わせない程度に、自分に注意を向けているのだ。
伊勢はギクリとした。多分彼女は自分が話しだすのを待っている。ということはやはり向こうは腹を据えていて、今しっかりと話すつもりなのだ。その為に作った時間、誰にも邪魔されない場所。
彼女にはその先も見えているのだろうかと思うとズシンと腹の底が重くなった。
もう嫌だ。こんな苦しいのは。



「先輩の、進路のことなんスけど」



たわいない世間話のような前置きをする余裕もなく、伊勢は半ば無理矢理口を開いて核心に突っ込んだ。考えれば考えるほど口は重くなる。早く済ませてしまいたかった。



「海外の大学に行くって。…本当ですか」



伊勢は名前の唇が引き結ばれるのを見た。
疑問系だが、ほぼ確かな情報だった。希望進路を何度聞いても答えをはぐらかす名前に焦れる伊勢を見かねて、彼女の友人である先輩がコッソリと教えてくれたのだ。嘘をつかれる理由はない。
そしてそれが嘘であればと何度思ったことか。

名前はしばらくして「…やっぱり知ってたんだね」と静かに呟いた。
確かな情報だと分かっていたのに、彼女自身が認めたことでさっきの数倍体が重くなった気がした。砂に沈んだ錯覚すらある。こんなに重くてはもう立ち上がれないのではないか。いや、それもいいかもしれない。家に帰れば日常に戻れば状況は進んでしまう。夏を留めてこのまま永遠にここに座り続けるのだ。ただし名前はいつか軽やかに立ち、ミュールを拾い上げて歩き去ってしまうだろう。伊勢を広い砂浜に一人残して。

そんな想像が一瞬で駆け巡り、あながち冗談でもないことに気付いて伊勢は悪寒を覚えた。変わらないじゃないか。名前が半年後、聖凪に伊勢を置いたまま日本を旅立ってしまうというのなら。
それも、名前は今の今までそれを伊勢に知らせようとはしなかったのだ。



「私の夢の話はしたよね。外国の子どもたちに日本語を教えたい、って」

「…聞きました」

「そのために、すごくいい大学があるの。オーストラリアに」



せめて余計に気遣われたくなくて声を振り絞る伊勢と、伸ばしていた膝を抱えた名前。その目は強い光を携えて海の向こうをしっかりと捉えている。伊勢も膝を引き寄せ、膝に腕をついて顔を覆った。
自分という存在は、彼女の中でどれだけの重みを持っているのだろう。



「何で、ずっと言ってくれなかったんですか」

「迷ってたから」



即答だったが、先程とは違って声が幾分揺らいでいた。ふと隣で名前が動く気配がして、その後何かが伊勢の頭をゆっくりと撫でた。名前の手だ。
ゆらゆら、話し続ける名前の声が自信なさげに揺れている。



「海外でやっていけるかどうかと、……君をどうしたらいいか」



ピクン、と伊勢の肩が反応した。
自分をどうしたらいいか。結局今日まで名前自身から進路のことを聞かされることはなかった。その答えはもう出ているのだろうか。聞きたい。そして酷く聞きたくない。



「もし受かったら、年に一度くらいしか会えない。学年が上がれば多分会うこともできない…」



君も私も、忙しくなって。

伊勢に話しかけるというより、名前はただ独白をしているようだった。胸の内をそのまま唇に乗せる。



「就職のこともある。日本に戻るならまだしも、向こうで職に就くことになったら、そしたらもう」

「だから別れ話をしに来たんスか!」



堪えきれず伊勢が名前の言葉を遮って大声をあげると、名前はビクリとして手を引いた。驚いたその表情にこんなことを言うつもりはなかったと一瞬後悔がよぎったが後には引けない。睨むように見つめる伊勢に反論する勢いで名前も口を開いたが、一拍の後にふっと勢いを抜いて「そうかもしれない」と呟いた。



「お互いいつまで好きでいられるかも分からないし、いつか帰ってくる約束も出来ないなら、別れた方が…」

「そんなの!俺は、こんなにっ」

「今だけ!」



名前までが声を荒げて、伊勢は思わず言おうとしていた台詞を飲み込んだ。
一瞬静まり返った砂浜で、は、と声を上げた分の酸素を吸い込んで、名前はくしゃりと顔を歪めた。いつの間にか膜を張っていた水分がポタリと落ちる。



「きっと、今だけなんだよ、聡史。聡史が私を好きなのは」

「そんなわけ」

「まだ、高校入ったばっかで、周りが見えてないんだ。最初に見えたのが、私だった、だけで」

「違います!俺はちゃんと!」

「じゃあクラスの女子の名前をどれだけ言える?」



ポロポロと涙を溢しながら、名前は伊勢を睨んだ。強い声も強い瞳も不安定で危うい。
挑むような名前の言葉を真っ当から受け止めて伊勢は黙り込んだ。三人…いや四人、それも名字しか思い浮かばない。輪郭はぼやけている。



「たった十八人程度だよ。…でも、覚えてないでしょう」



答えない伊勢に、名前はスパッと切り込んだ。名前が何を言いたいのか、その続きは簡単に予想出来る。それだけ周りが見えていないってことだよ。毎日空間を共有しているはずのクラスという狭い範囲でさえ。
そしてこれから伊勢の視界が広がるにつれて、自分への興味は薄れていくだろうと。


それがまだ不安という形で名前の中に残っている。ふと伊勢は我に返った。つまり、まだ名前は自分への対処を決めていなかった?

伊勢は改めて目の前の名前を見た。幾筋もの涙を頬に伝わせて、拭いもせずにこちらを睨んでいる。だがよく見ればその肩は小さく震えているし、手は握り締めすぎて白くなっている。


受験生なのに。伊勢は名前の事を思った。大切な夏なのに、まさかこんなことを悩んでいようとは。自分の進路どころか他人のことで悩んでいれば、何もかも忘れて勉強に打ち込むことも難しかったろう。
この夏休み、会えない日はずっと勉強しているのだろうと単純に思っていた。聖凪には魔法というリスクがある。科目のみに勉学の時間を費やす訳にはいかないから、聖凪の三年生にとって夏休みは自分で配分を決めることのできる、本当に貴重な期間なのだ。

この人は頭が良いから、きっと大切なことを何一つ忘れようとはしなかっただろう。大学に受かるのに必要な点数を、それぞれの科目に必要な勉強量を、魔法の復習と最後の昇格を、新しい生活のための準備を。そして恐らく自分のことを。
伊勢は目を閉じ、そして開けた。



「先輩」



伊勢は腕を伸ばして、名前の頬をそっと手の平で拭った。目元は擦れば赤く腫れてしまうだろう。既に赤くなってしまった目が痛々しい。
いつの間にか生まれている精神的な温度差を感じ取り、名前が戸惑って眉を潜めた。



「いいです、先輩。俺のことは何も考えなくて」



さっき自分がされたように頭を撫でてやりながら伊勢が言うと、名前は辛そうにギュウと眉を寄せて再び瞳を水で満たした。



「いいんです。先輩がいくら考えたって、どうせ俺はどうにもならないんですから」



もうこれ以上泣かせたくなくて、伊勢は名前を引き寄せて胸に顔を押し付けさせた。咄嗟に名前は抵抗したが、すぐに大人しくなった。自分がもう高一男子の力に敵わないことを、名前は知っている。
伊勢は名前が抵抗しないことに密かに安堵し、次いで触れた肌の冷たさにヒヤリとした。夕陽はとっくに沈みきって空は暖色を追いやり始めている。夏とはいえ夜風にあたり続ければ体が冷えてしまう。慌てて一層深くに抱き込み、そのまま頭を撫で続けた。

名前が自分を挑発して別れるよう仕向けるのも、そうすることで彼女自身が傷付くのも、もう勘弁して欲しい。大体、その必要はないはずだ。



「そのままでいきましょう、先輩。先輩は受験勉強を頑張るし、俺は先輩を応援する」



表情の見えない名前がキツく伊勢の服を握り締めた。
そう、元々そのつもりだったのだ。海外に行くと聞いた時も、驚き、どうして教えてくれなかったのかと不満に思いこそすれ、彼女が望んでいるというその進路を妨げる気など起こりもしなかった。少々の不安は覚えたけれど。



「…受かった後にどうにかしようと思っても遅いんだよ」

「遅いも何もない、特別なことは何もしないんです。いいですか」



力無く応える名前に、伊勢はゆっくりと言い聞かせた。



「先輩は勉強に打ち込むでしょう。もうすぐ夏休みが終わって、学校が始まったら授業に集中する」

「………」

「俺はたまに会えれば十分です。先輩が俺を好きでいてくれるんなら」



邪魔じゃなければ一緒に勉強するのも悪くない。
クリスマスや正月は、出来れば少しだけ会いたい。無理なら電話でも構わない。ほんの数分言葉を交わせれば。



「そして来年受験して…受かったら思いっきり遊びましょう」

「…その後は…?」



伊勢の言葉に合わせて未来を想像していたのだろうか。離れる時期に差し掛かったところで名前は小さく震えた。



「俺も先輩もしたいようにするんです。普段は電話とメールと…手紙、エアメールとか。会える時は絶対会う。俺、空港まで迎えに行くし、もしかしたら俺がそっちに行くかもしれません」

「そっち、って」

「オーストラリア」



伊勢が答えると名前はしばらく無言になって、それから顔を伊勢の胸に擦り寄せた。ふふ、とおかしそうに笑う気配。



「そっか…。聡史がオーストラリアに来るのか」

「その時は通訳お願いしていいですか」

「何言ってるの。オーストラリアは英語圏だよ」

「…ああ」



ようやく顔を上げた名前が、満面の笑みとまではいかずとも落ち着いたように微笑んでいたので、伊勢もつられて笑った。



「英語、頑張って勉強しておいてね」

「はい」



それから名前はもう一度ぽすんと顔を埋めて腕を回し、伊勢を強く抱き締めた。それが不安を紛らわすようなものではなく愛情表現らしかったので、伊勢も遠慮なく抱き締め返した。





そのまま無言。
互いの体温が心地良いこともあってしばらくそうしていたが、突然名前がハッして伊勢から離れた。



「じ、じゃあ私ここにいる場合じゃないじゃん!勉強しないと!」

「…そッスね」



分かってて黙っていた伊勢も渋々名前を解放した。
ここ一週間で季節も大分秋に近付いたし海は風が強いから、勉強を抜きにしても確かにもうそろそろ帰った方が良さそうだ。名前は慌ててミュールを履いた。
そのままバイクの元へ駆け出そうとする名前の腕を掴まえて、振り向いた瞬間に伊勢は唇を重ねた。



「…先輩」

「…うん」

「俺のこと好きですか」



今から受験へ向けて加速していくというのなら、こんな時間はしばらくお預けになるだろうから。覚えておける、支えになる思い出と最初の確認を。
名前は、今度は笑みに涙を湛えて、呼吸が触れ合う距離で目一杯声量を落として囁いた。それは静かに溶け込もうとする夜の空と海に相応しい。



「(だいすき)」



瞼が降りる間際、水を張った瞳に映り込んだいくつかの光を見つけて、もう星が見える時間なのだなと思いながら伊勢はもう一度名前に口付けた。




There is not
any intent.






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