091007 愛について語ろう

豪奢なドア。
右手でノブを掴み左手をも添えて、名前はそれをそうっと閉めた。カチャリと微かな手応えを感じて、つい溜め息が漏れる。

2部屋しかないセカンドスイートのフロア。エレベーターへ向かって黙々と歩くも、ふかふかと感触を返してくる廊下に足音すら吸収されて耳が痛いほどに静かだった。静謐は嫌いじゃないが、今日ばかりは息が詰まりそうだ。
チン、と到着音すら上品に響かせるエレベーターにひとり乗り込む。とりあえず下へ。
時間が時間だからか、1階のロビーに着くまでエレベーターが止まることは無かった。

ホテルスタッフが次々とお辞儀をしてくる中を出口まで一直線に抜ける。
ドアマンに反応してゆったりと開く大きな自動ドアをくぐると夜のヒンヤリとした空気が肌に触れ、鼻孔を通った。ほんのりと芝の香りがする。

吸い込んで、吐き出して、ようやく肩の力が抜けた。



ホテル玄関前にはリムジンバスやタクシーからの乗降用にドライブスルーの形をとって、広い芝生をぐるりと一周するように円く道路が敷かれている。
更にその外側の歩道を時計回りにのんびりと歩きながら、シンプルにライトアップされた芝生を眺めた。向かい合った2対のライトが斜めに交差して夜の緑地を浮かび上がらせている。

綺麗なものだなと素直に感じて、名前はようやく普段の自分のスタンスに戻ってこられた気がした。
主役より観客。参加よりも傍観。その他大勢の第三者。

中にいれば目映いばかりの明かりも、ここから眺める分にはただ夜に映えて綺麗なライトアップだ。一度は泊まってみたいと憧れるような上等のホテル。
…こんな状況でなければ。


これほどのランクのホテルまで来てホテル正面を散歩する物好きがいるのか疑問だが、歩道にはホテル玄関から見て丁度左右に造りの丁寧なベンチが設置されていた。
辿り着いた名前はこれ幸いとばかりに腰掛ける。

思い切り伸びをすると全身の緊張が解けて、腰がずるずると下がった。姿勢を正す気にもなれず、むしろだらしなさを堪能する気持ちで足を投げ出す。
胸のあたりで手を組んで静かに目を閉じた。



深夜の宵闇がホテルの明かりと相まって程よく自分を覆い隠してくれる。こちらに特別気を払ってくる人間もいない。
今日一日で慣れないVIP待遇を散々受けた名前には、今の状況が酷く心地よかった。


今日明日の自分がそんなことではいけないと承知していても。


















「こんな時間に一人で出歩いちゃ危ないでしょ……花嫁さん」


「大丈夫ですよ。花婿さん」



不意にかけられた声に軽口をたたくように答えてから、名前はゆっくりと瞼を持ち上げた。
近づいて来るブーツの音は聞き慣れたものだったから、それが誰なのかは見なくても分かっていた。

思った通り数歩離れたところには苦笑したキッドがホテルを背景に立っていて、名前は気持ちが解けていくような暖かさに口元を緩めた。


隣いい?と尋ねられて名前は姿勢を正す。間をあけて座ったキッドが深く息を吐いて腰をずるずると落として姿勢を悪くしたので思わず吹き出した。同じことしてる。

キッドが不思議そうに見上げてきたので名前は笑って首を振った。


「相内はもう寝たの?」
「あ、はい。…ふふ、比奈さん、『ドキドキして眠れないわねー』って言ってたのに、ぐっすり」
「あっさり寝てるんじゃないの…。まったく夫婦揃ってとっとと寝てくれちゃって」
「…牛島先輩も?」
「うん。10時にはいびき掻いてたよ」


夫婦は似るというけれど、似た者が夫婦になるのではないだろうか。比奈さんたち然り、自分たち然り。
名前がそう言うと、キッドは「言えてる」と嘆息した。


「名前は……やっぱり眠れない?」
「眠れ…いえ、リラックス出来たんで今なら眠れそうです」
「そう?そりゃ良かった」
「キッドさん来てくれたから」


一瞬の沈黙が落ちた。
嬉しいと感じたままに正直に口にしたことだったけど、やっぱり気障だっただろうか。
隣を見ないように名前が肩を竦めると、静かな声が「……名前」と呼んだ。


「はい?」
「もう名前で呼んでよ」


今度は名前が呼吸を止める番だった。
キッドはよいしょと姿勢を直して、羽織っていた厚手のベストを脱いだ。そのまま、名前の肩にかけてやる。
近頃は日中も過ごしやすくて、朝晩が冷え込むようになった。

名前はかけられたベストをきゅっと握り込んで、少し躊躇った。


「…紫苑さん」
「うん」
「慣れないですね、やっぱり」
「さん付けも敬語もいらないって言ってるのに…。あー、実感湧かないねぇ」


明日か。
ぽつりと零れたキッドの言葉に名前は黙ったまま心底同意した。

式を明日に控えておいて何を言うのかと他人には言われるかもしれないけれど、キッドと名前の意見はずっと同じだった。とにかく実感が湧かない。

大体、結婚前と後で自分たちの何が変わるというのか。強いて挙げても名前の名字くらいだ。
女性は式を挙げたいものじゃないのかと度々キッドに尋ねられはしたものの、最終的には意見の完全一致で婚姻届を出すだけで済ませるはずだった。
ところがそれを聞いた比奈さんに叱られ、どこから聞きつけたのかヒル魔に囃し立てられ、気がつけば挙式の舞台が数ヶ月後の予約の下に整っていた。何を面白がったのか、ヒル魔は比奈さんと手を組んだらしい。
あの泥門の悪魔がよくぞここまで人間性を見せたものだと、ようやく事態を把握したキッドは感心してみせたものだった。

結果、西部のカップルがダブル挙式を挙げると散々触れ回ったヒル魔のせいで大分大がかりな結婚式になってしまった。なんせ高校時代のアメフト関係者が出身校に関わらずほとんど出席するというのだから。


名前は深々と溜め息をついた。もうこれで今日何度目だろう。
それでも溜め息を誰にも咎められない今はまだずっと楽だ。「花嫁さんが溜め息なんてついちゃ駄目よ」…なんて、見つかる度に言われて。
主役にはそんな些細な自由も許されないというのなら、だから名前はその他大勢でいたいと思うのだ。


「も、今日は疲れました…。エステからメイク調整から」
「あぁ…花嫁さんはやっぱり大変だねぇ。お疲れ様」
「これでもまだドキドキするって言いながら明日を楽しみにしてる比奈さんのが、どれだけ明日に相応しいかって思いますよ」


…あ、やばいまた気分が沈む。
気持ちを切り替えようと軽く首を振った名前に手を伸ばして捕まえて、キッドは唇を合わせた。
触れた手と頬も、唇も、外気に晒されてひんやりしている。一瞬温度差の抵抗があって、すぐにじんわりと馴染む。

突然のことにハタと動きを止めた名前に、キッドは顔を離して苦笑した。


「ごめん。でも俺もやっぱり楽しみだよ、名前のウェディングドレス姿」


名前はパチパチと瞬きをして、笑った。
ああこの女の子が俺のお嫁さんになるんだなと、キッドは唐突に思った。途端ぐっと胸に込み上げてくる何か。


「こんだけ苦労してるんだから、どうせなら楽しみにしてくれた方が嬉しいですよ」


あ、でもあんまり期待されちゃ困りますけど。
すかさず軽やかに訂正を入れた名前にキッドも笑った。


多分こんなノリで、自分たちは明日の結婚式もこなすんだろうとキッドは漠然と思う。愛し合う夫婦というより、友情の延長線で一緒にいることを誓ってしまうような。
「いかなる時もこれを愛し、共に生きることを誓いますか」なんて言われたら可笑しくてふっと笑いを挟んでしまうような。
その時に目を合わせたら、名前も一緒に笑ってくれる気がする。
ロマンチックな新郎新婦になりきるんじゃなくて、いっそ友人の結婚式に参加するような、挙式の楽しみ方。
こんなことを言えばまた相内は怒るんだろうけど。

思ったことを述べてみると、やっぱりというか名前は「まったくです」と笑ってくれた。


「披露宴の後なんか体力使い切ってぐったりしてそうですよね…」
「あいつらに絡まれるの考えただけで疲れるよほんとに」
「…比奈さんは明日の夜をわりと楽しみにしてるみたいなんですけど、わたしらは初夜とか無しでいいですよね」
「是非ともそれでお願いしたいねぇ…。ごめんね、なんか」
「いやもう助かります」


結婚相手がこの人で良かった。
秘かに二人同時に思い、名前は心底満足して深く息を吐く。キッドはそんな花嫁に柔らかく目を細めた。

明日の自分たちが新郎新婦だなんて、未だに実感は湧かない。前夜になって、その感覚はむしろ強くなった。

けど、他でもないこの人とならそんな大役も何とか乗り切れる気がするから。
その後は多分、なんとなく末永く、仲良くやっていけるんじゃないかな。



について語ろう
、こんな夜には。



翌朝、12階ホールで顔を合わせた2組の婚前さん。

比奈は気恥ずかしそうに、けれど期待に胸を弾ませとても綺麗に笑って、牛島も照れながらも豪快な笑顔になって。
キッドと名前はといえば、顔を見合わせて軽く苦笑を交わした。


さて、結婚式挙げますか。





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世界様へ捧げます。
素敵な企画をありがとうございました^^*

091007 丸トマト



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