090626 花嫁の悲願

たぶん、と彼女は呟いた。
それが穏やかな声だったので、ジェイドは何の警戒もせずに意識を傾ける。



「今、世界のために死ねって言われたらわたし死ねると思う」



振り返ったジェイドは黙ってナマエの前に立った。ナマエは自身の身動きひとつにすら気を遣いながら、じっと椅子に腰かけている。



「わたしが死ななきゃ皆生きられないとしたらね。全然怖い気がしない。ジェイド、ルークとガイと、ティアとナタリア、アニス、イオン、アッシュとか、少なくとも知ってる人は皆死なせたくないし」

「仮にそんなことがあれば、あのパーティは…特にルークは泣くと思いますけどね。エルドラントでのルークの前例がありますから」

「…あー、泣くかなぁ…泣くかもなあ。ジェイドも泣く?」

「どうでしょう。必要とあらば涙の一つも溢せないことはありませんが、…犠牲があなたなら泣くかもしれませんね」

「そっか」

「本気ですよ」

「うん。ありがとう」



本当は私が泣くかどうかなど大して気にしていないでしょうにと笑って切り返すことを一瞬考えたが、そんな殺伐とした方向に持っていくような場でもないと思い直す。
そもそもこんな話題を提供されるべき場合でも雰囲気でもないのだが、恐らく彼女がそこまでの荘厳さを現在に見出していないことの表れだろう。


薄いベールの向こうで、長く伸ばされた睫毛が慎重に揺れる。
瞬くにも気を遣うものなのかと、ジェイドは胸中で嘆息した。まったく女性というものには恐れ入る。

しかしその姿でいる彼女を望んだのは紛れもなく自分だと、痛いほどの自覚もあった。

彼女から今見えている視界はどうなっているだろう。
彼女の気持ちは、今、僅かでも躍動しているだろうか。



「"向こう"ならそんな大人しく死なないけど…。泣いて暴れてギリギリまで抵抗して、もう世界の人がどうなってもいいから、母さんと、父さんと、友達とかと一緒にいたいと思う。まぁ、だから結局は死ぬって決めるんだろうけど」



可憐に彩られた唇からぽろぽろ溢れるその言葉がマリッジブルーなどという可愛らしいものではまったくないと、嫌になるくらい理解していた。

ここに、この世界に、ともに世界を救った仲間にすら、執着を感じない。
彼女が直接そのように口にしたことは決してないが、裏返せば当然そう取れる。
そして続くには、ただし生まれ育った"そちら"なら話は違うと。



「まさかとは思いますがナマエ、今になって式を取り止めたいと言い出すのではありませんよね?」

「まさか!言わないって」



朗らかに笑う彼女が、揺れる瞳を細めて「ジェイド、」と名前を呼ぶ。


その声のいとおしいこと。照れた目尻の微笑み。そして鷲掴みにされた心臓の、息詰まるほどに痛いこと。



「ほんとに好きだから。結婚してもいいって思うくらいに」



そしてその比でないほどに元の世界を愛していると告げた口で、こんなことを言う。


ジェイドは丁寧に結い上げられたナマエの髪に、ベールの上から慎重に唇を落とした。
ナマエが小さく肩を竦める。その白い肩は今日は露になっているし、髪だって普段なら無造作に結ばれているだけのはず。
すべては今日の日限りのこと。


冷静に顧みるに、自分とて十二分に常日頃より逸脱している。なんせ死霊遣いが軍服どころか白いタキシードに身を包んでいるときた。実際自分でも鏡を覗き込むなりあの皇帝にどれだけ笑われるだろうかと考えたものだし、どうも馴染まない色合いに居心地が悪くて仕方ない。

さらには非日常に相応しいことに、花嫁の待機部屋に訪れた自分の姿を認めるなりナマエは絶句して「…すんっごい格好いい」と何とか批評を下した。彼女からの手放しの賞賛など片手で数えても余るというのに。

そして私は彼女の姿に目を奪われた。ほんの一瞬、五感が彼女以外のあらゆるものを認知していなかったと思う。恐ろしいことに。
ただ「…綺麗です」と、たったそれだけの言葉に嬉しそうにした彼女に、本当なら言葉の限りを尽くして伝えたい。
情けないことに彼女を見る度適切な語彙が頭から吹っ飛ぶので、それが叶うのは彼女がその衣装を脱いでからだろう。




今日の、彼女は、美しい。




「…いつか必ず、心の底から私を選び取らせて差し上げます。一先ず笑って下さい、ナマエ」




鐘がひとつ鳴る。

教会では、あの赤毛たちもキムラスカの王女も心優しい軍人もホドの伯爵も小さな守護役も、誰も彼もがお喋りを止めたことだろう。祭壇に立つ緑髪の少年は無邪気に微笑んだだろう。
今日限定でナマエの父親代わりを名乗り出たマルクトの皇帝は、きっと今か今かと自分とナマエを待っている。
後は鼻垂れの馬鹿が乱入してこないことを祈るのみだが。



白い手袋を填めた手を彼女の前に差し出す。
ナマエはこちらを見上げて、泣き出しそうな顔で微笑んだ。



「信じてるよ、ジェイド」



ブライダルグローブの指先がそっと重なって、彼女はしばらくぶりに椅子から立ち上がった。
真白のベールと膝丈のシンプルなウェディングドレスが、彼女の動きを追って軽やかに舞い上がる。










帰れぬとわかった世界以上に、自分を愛させるということ。




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