090523 白昼


天気のよい、うららかな平日。
白を基調とした明るい教室で、わたしは4限目の授業を受けていた。教科は数学。できれば机に伏せて眠ってしまいたいが、それで注意されるのはごめんだ。それにこれを乗り切ればお弁当タイム。
まだ涼しい初夏の気持ちよい午前中に勉学を頑張る気などどっか行ってしまって、欠伸を噛み殺しながらせめてテスト対策に板書だけは写しておこうとシャーペンを取りノートにペン先をあてた。

と、廊下からざわざわとさざめくようなざわめきが漏れてくることに気が付いた。わたしの席は教室の真ん中あたりで、廊下側の席の人たちはとっくにこちらに後頭部を向けて廊下を眺めている。

ざわめきは隣のクラスが発生源であるようだった。
隣といっても、このクラスとその隣のクラスとは、廊下の直角に曲がるところの位置関係にある。つまり、位置的に互いに教室の中が見えるのだ。ただし向こうは黒板を見たままの状態でこちらが見えるが、こちらは黒板に身体を向けるとあちらには斜めに背を向けることになる。

従って隣…というか後ろのクラスのざわめく様子を見るにはこちらの黒板に背を向けることになり、教え子の大多数が自分に背を向け始めたことにようやく気付いたらしい数学の担任は「なんだなんだ?」と授業を中断した。わりと流されやすいノリのいい先生である。


「なんかうるさいと思ったら、B組が騒いでるのか…。あっちは授業はどうしたんだ?」

「今の時間は自習って言ってましたー」

「んーそうか…うるさいのはダメだな。ちょっと先生様子見てこよう」


そう言った先生はカツンとチョークを置いたが、教壇を降りる前に足を止めることになった。

こちらから向こうの教室を見ると、前の方は見えるが後ろのドアのあたりは曲がる廊下の内側の角に隠れてしまう。
その死角から、ぞろぞろと数人の男性が姿を現したのだ。
それを見た先生はぽかんと口を開けて立ち止まった。

わたしも思わず凝視しながら、向こうのクラスの視線が彼らを追って動くので、彼らが騒ぎの原因だと頭の隅で理解した。


彼らは、4人いた。彼らというからには皆男性である。
そのうち1人は標準的な日本人らしく少し外跳ねの黒髪に眼鏡をかけ、白のワイシャツに黒いズボンという学生服の夏用といったいでたちだ。ニコニコと何かを話しかながら先導役を勤めている。
しかし特筆すべきは残りの3人で、どう見ても日本人じゃない。内2人は長身で、片方は優しく爽やかそうに笑顔を浮かべて向こうのクラスに手を振る薄茶の短髪さん。もう片方はグレーの長髪を一つにまとめ、腕を組んだこわもての方。信じがたいことにブルーの目をしている。
もっと信じられないのは最後の1人、なんと金髪碧眼である。日本じゃついぞ見られない色合わせ。背はそんなに高くないが、遠目ながらそこらの女子高生などメでもないくらいに綺麗な顔立ち。

そしてこの御三方、タイプは違えど恐ろしく美形だった。服装はシャツに長ズボンといった至って普通のものだが、何せここは学校であるからして。
制服の集団が教室に缶詰めの時間帯の廊下で、4人組はそれはもうものすごく目立っているのであった。

その4人組は何事かを話しながらこちらへ向かって廊下を曲がった。曲がるなり4人の視線がこちらの教室の中を捉える。
静かに見定めてくるようなそれらとバッチリ目を合わせる訳にはいかず、廊下側の人たちは慌てて真っ先に身体を黒板に向けた。ハッとしたようにクラス全体がそれにならい、あちこちでガタガタと椅子が鳴る。わたしも顔を前に向けながらも彼らをチラリと盗み見ると、男子学生は可笑しそうに笑い、茶髪の人が苦笑していた。茶髪さんの方は爽やかを体現したような人だ。


一瞬、頭に文字が閃いた。理解する前に、無意識で音もなく唇を動かしていた。
コンラート。コンラート・ウェラー…

わたしが何だ今のはと眉を寄せるのと同時に、窓ガラスの向こうで茶髪の人が驚いたように目を見開いた。あからさまにこっちを見ているので慌てて視線を伏せる。
ノートを睨みながら心拍数の上がる心臓を押さえた。どうしよう、口パクで何か言ったように見えたのかな?今のは…多分、わたしの意志じゃないはずなのに。文句だと思われて教室に入ってきたりしたらどうしよう…!


うつ向いた名前は見ていなかったが、茶髪の人はグレーの長身の人と男子学生に一言二言話しかけ、教室のドアにスッと近づいた。
腕を上げ、2回、丁寧にノックをする。


「ど、どうぞ…?」


果敢にも声を振り絞って入室を許可したのは数学担任だった。ようやく硬直から解かれて体の自由を取り戻したらしい。
ドアが横に滑り、爽やかなお兄さんが「ご勉学中に失礼致します」と笑顔を覗かせた。


「…えぇと、失礼ですが、どちらさまで…?」

「あぁ、申し訳ない。俺…いや、私はコンラートと申します。すみませんが少しお時間を頂けますか?すぐ済みますので」

「はぁ…。どうぞ」


いいのかよ!と、興味津々に担任と見知らぬ外人を眺めていた生徒たちは心を揃えて突っ込んだ。仮にも授業中だろう、弱いよ先生!

コンラートと名乗った外人は「ありがとうございます」と一層爽やかに微笑み、こんなときでも強かな女生徒の瞳を輝かせるのに一役買った。

コンラートはそっと教室を見渡し、つい先程目の合った女生徒を見つけた。組んだ両手で口元を隠し、伏せた顔からは表情は読み取れない。…否、意図的にそのようにしているのだろう。

目が合ったあの一瞬、確かにその唇は自分の名をつむいだはずだ。コンラート、と。


コンラートはそっと歩を進めた。先程訪れた教室と同じような好奇の視線を感じながら、机と机の間をぬって真ん中へ向かう。興味を隠そうともしない、我が主と同じ年頃の子供たちの純粋さが微笑ましい。

目当ての机のすぐ側で足を止めると、うつ向いた小さな背中が震えた。黒髪が肩からさらりと落ちる。
さっき驚かせてしまったか、と申し訳なく思いながらその場に膝をつく。これ以上怯えさせないようにと、出来るだけ優しく声をかけた。


「顔を上げて下さいませんか」


また肩が震える。
しばしの沈黙があって、彼女はのろのろと顔を上げた。組まれた両手は口元を隠したままだが、眉を寄せて揺れる瞳が困惑や怯えといった感情を素直に表していた。
コンラートは微笑む。


「俺はコンラート・ウェラーと申します。宜しければ、あなたのお名前をお聞かせ願えませんか?」

「…苗字名前、です」

「名前さん。…以前から俺の名前をご存知でいらした?」

「………いえ」


やっぱりさっきのことを言われるんだ、と名前は唇を引き結んで視線を落とした。
この人が担任に名乗ったときに驚くことは済ませていた。なんと、わたしがさっき舌に乗せた言葉は、彼の名前だったのか。ノートを見つめたまま目を丸くした。

でも、だからこそ何が何だかさっぱりだった。どうしてわたしは彼の名前を口に出来る?知っていた訳じゃない。会ったこともない。そもそも耳慣れない外国の音の名前だ。コンラートって何語ですか…!


そのコンラートはというと、ひどい困惑からだろう、再び目を逸らした女の子を見つめて安心のため息を漏らした。
やっと見つけた。名前も、容姿すら知らされなかった探し人。
魔王陛下と時を同じくして生まれた、すべらかな魂を持つその人。やっと。

…と、痺れを切らしたのか、今は普通に男子学生やってる貎下がひょいとドアから顔を覗かせた。


「ウェラーきょーう。その子で合ってるの?」

「ええ、そうみたいですよ」

「じゃ、その子連れてとっとと行こうよ!そろそろ飛行機に間に合うかどうかギリギリになっちゃうからさ」


貎下は「しっかし上手いタイミングで見つかったなぁー」と満足げにぼやきながら軽快に教室へと踏み込んで、パタパタと駆け寄った。
名前様は貎下の言葉に反応してか、貎下を見つめ目を丸くしていた。きょとんとした表情が可愛らしい。


「じゃ、さくっと行こうか!えーと…」

「名前様と仰るそうですよ」

「オッケー、名前サンね。ウェラー卿は彼女を頼むよ、僕は彼女の荷物持つからさ」

「わかりました。…名前様、少し失礼しますね」

「……え、あっ、うわぁっ!?なっ何ー!?」

「ごめん名前さん、ちょっと時間がないんだ!移動しながら話すからさ、今は大人しくしといてねっ、と」


俺は失礼して、脇に手をさしこんで彼女を椅子から立たせ、素早く屈んで背と膝裏に腕を回しひょいと横抱きにして立ち上がった。
展開についていけない名前様は驚いて声をあげ、咄嗟に俺の首に腕を回してしがみつく。まだ信頼されたのではないだろうが、少なくとも頼られたことが嬉しくて笑みが溢れた。
貎下がひょいひょいと机の横に掛かる鞄やら可愛らしいトートバッグやらを手に持った。


そのまま貎下は素早く教室を飛び出し、身を乗り出して何かを尋ねようとしたグウェンダルを素早く制した。


「ヴォルテール卿、ビーレフェルト卿!見つかった、彼女だそうだよ。時間もおしてるから急ごう!走って!」


抱えた彼女に気を遣いながら、俺も足早にドアに向かう。ポカンとしたままの教師と目があったので笑って軽く頭を下げた。向こうも訳が分からないながら律義にお辞儀を返してくれて、教え子が誘拐されようとしているのにそれでいいのだろうかと少し不安になった。誘拐犯は俺達だが。


さて、本当に急がなければ航空チケットが無駄になってしまう。校門で待つボブは何度腕時計を見ただろうか。

貎下が、グウェンダルが、ヴォルフラムが廊下を駆け出す。曲がったすぐ先の下りの階段を数段飛ばしで駆け降りながら、腕の中の彼女を見た。ぼんやりと前の三人を見ていた彼女がこちらを見上げる。視線の合った綺麗な黒の瞳が、ふと意志を取り戻して焦点を合わせ、キラリと揺らめいた。



***



突然現れた爽やかお兄さんにまさかのお姫様抱っこをされ、わたしはただしがみついて急展開に流されていた。先導する学生くんに美形さんたちが続き、廊下を右に曲がる。その先は1階ロビーフロアへの階段だ。
階段を駆け降りながら、わりと振動が伝わってこないことに気が付いた。走って階段を降りれば、抱えたカバンは跳ねるはず。
抱える人間を見上げると、薄い茶色の瞳がわたしを見下ろしていた。目が合うや、その瞳が優しく細められる。そこに銀色の瞬きを見つけて悟った。わたしは、振動から守られている。
何も知らないまま、突然の成り行きが輝いて見え始める。恐怖がワクワクに擦り替わって、少し、ドキドキしていた。

2階まで吹き抜けになっている広く高いロビーに飛び出し、そのまま開いたドアまで駆け抜ける。
わたしはくっと顔を持ち上げ、彼の肩越しに離れていく校舎を見た。こんな早い時間に出ることになるなんて、今朝登校してきたときには夢にも思ってなかった。ワクワクが高まる。どうしよう、ちょっと楽しくなってきたぞ。

微妙に近代的な造りをしている我が母校は、どの教室のベランダも校門を向いていない。だから、誰も私たちを見ていない。みんないつも通り授業を受けているのだろう、お昼前の静けさとのどかさは保たれていた。
わたしの教室は騒いでいるだろうか。


校門前の道路には横付けされた黒塗りの車。サングラスをかけた運転席の人が、ほっとしたようにこちらを見ている。そこへ駆けていくわたしたち。
初夏の晴れた空と、白い雲に隠れた太陽。少し暑いくらいの、今日もいい天気。
非日常だって、悪い方へは転がらないはずだ。

もう一度校舎を見る。
ちょっと、行ってきます。



白昼



そのときには、向かう先がまさか異世界だとは思ってもみなかったわけだけど。




あきゅろす。
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