愛は潔く始めましょう
「げっ、もう4時半…」
とっとと終われと幾度願ったか知れない委員会がようやく終わり、急いで教室に戻ると、時計の針は予想していた時間よりも1時間先を指していた。思わず舌打ちをする。まったく下らない話を長々としてくれたものだ。これは本当に急がなければ、部活がどうなっているかわかったもんじゃない。
必要な教科書を片っ端からひっつかんで鞄に放り込む。焦るあまり力が入りすぎてペンケースが鞄の縁を掠めて向こうへと落ちた。革製のそれが床を叩くのと舌打ちは同時。
倍増した苛つきのままにガタン、と椅子を立った瞬間に、教室の前のドアがガラッと開いた。反射で目を向ける。
名前は、教室の敷居に右足を乗せたままの体勢でこちらに気付き、目を真ん丸にした。しかしすぐに納得したように口を「あ」の形に開く。「そっか、保健もだったっけ」と呟いた。
その通り、マルコが参加してきたのは保健委員会で、無駄話を続けたのは保健委員会担当の教師である。おかげでつい先程猛烈に嫌いになった。
「そういうそっちは図書委員かな?」
「え?あぁ、うん」
「まったくお互い不運だねぇ」
「そうだね、委員会なければ帰れたのにね」
「俺はこれからまた部活のやつらの面倒見っちゅう話、っと」
「アメフトだっけ。ご苦労様」
「まったくだよ…」
上半身を屈めて拾ったペンケースを鞄に落とす。
苛々がどこかへ消えた、とマルコは気が付いた。不運な同志に会ったからか?そして互いに同じ愚痴を抱いているのを知っているから。苦笑が溢れる。なんとも人間らしくて、馬鹿げている。しかし悪くない。
名前はまだ教室の入り口に立ったままでいた。マルコをじっと見つめて、ふいに眩しそうに目を細める。
「マルコくん」
「ん?」
「すごい好き」
ぎょっとしたマルコをそのままに、名前は教室に足を踏み入れ、すたすたと自分の机に歩み寄って鞄を持ち上げた。帰る準備は既に済ませていたらしい。
名前が何も言わずまた教室から出て行こうとしていることに気付き、マルコは慌てて呼び止めた。
「ちょっ、苗字さん!?」
「なに?」
「何って……え、今俺に告らなかった?」
「告った」
「…で、そんまま帰っちゃうの」
「…やっぱマズいかな」
「いや…マズいっちゅーか、俺どうすりゃいーのよ。返事とか」
「でもマルコくん彼女いるじゃん。あのほら長い茶髪のキレーな」
「あー…」
確かに、緩やかにウェーブのかかった柔らかい髪が魅力的な、目鼻立ちも可愛らしく整った子は最近ずっと傍にいた。当然付き合っていたからだ。
だけどいつだったろうか、気が付いた。彼女の瞳が自分ではない誰かを見つめ始めたことに。その心がゆっくりと離れていくのを、手にとるように感じていた。悲しくはなかった。むしろ冷静に彼女の新しい恋心の成長を見守っていた。
付き合うのに必要なのは愛情。
男から振るのは自分のポリシーに反するから、振られるまで待った。
そう、昨日まで。
じゃ、と極めて気楽にドアに手をかけた名前の腕を、掴んだ。驚いて振り向く目はただ驚愕一色で、仮にも惚れた相手にひとかけらの期待も絶望も抱いてはいないようだった。
おもしろい。
「俺が告白にオッケー出す条件は、“俺を愛してくれること”だけっちゅー話よ。苗字さん」
「……はぁ」
名前はパチパチと瞬きをした。それがどうしたと顔に書いてあるのでマルコは吹き出した。そっちから告白しといて何なの、その気のない返事!笑えば名前は眉を寄せる。どした、大丈夫?マルコくん。
ああ、君が疑いもしないその片想い、俺にわけてくれる?
今から君を好きになるから、新しい恋を始めようか。
「俺と付き合いましょ、名前」
後々幾度も思い返しては笑ってしまう、あまりにもイージーなそれは一生の恋の始まり。
実は学校中にほとんど人のいない放課後の教室という、ともすれば学校に二人きりだと思い込めないこともない上々のシチュエーションだったが、それに気付くのは相互理解も大分深まった頃の話で。
とりあえず今はまだ名前が「浮気?」と首をかしげていた。
愛は潔く始めましょう
恋が実る可能性は本当に微塵も考えてなかったのね、苗字さん。
え?だぁから違うって、浮気じゃないってば!
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