memo







[エバー・アフター]




濃い霧に覆われて、ペトラの視界は塞がれていた。
温度も無い。
肌ざわりも無い。
光がどこにあるのかも分からない。
目の前に見知った男が立っていなければ、たちまち意識はこの霧に溶けてしまったはずだ。
酷く寒気がした。
温度は無くとも寒がらずにはいられなかった。
自らの肩を抱き、腕と掌をすり合わせる。感覚はことごとく曖昧だ。皮膚はどこにあるのか。皮膚の下には骨があるのか。手応えの無さに目眩がした。霧は仄かに明るい白の一色で、地面が揺らいでいるのかも視界が歪んでいるのかも分からない。地面。地面などあるのだろうか。視界。自分は本当に目を開いているのか。

「こういうの、何も無いんだと思ってた…」

声が出るか不安だったが、口を開いてみると案外まともに聞けた。恐怖と苛立ちに情けなく震えた自分の声だ。情けない。忌々しい。自身の声を久しぶりに聞いた気がして、ペトラは苦々しく思う。胸の奥が重さを持つ。まだその鉛を感じることは出来る。
目の前に立つ見知った男は、一見すると大した感動も無さそうな顔でペトラを見つめていた。
男の顔には何か深い疲労が見えた。しつこく肩をさするペトラを見つめ、呆れたようにも、不思議とどこか懐かしんでいるようにも見える表情で。

「直に無くなるさ」
「えっ?」

いやに訳知り顔で、えらく不穏な言葉を返したオルオに、ペトラは怪訝に眉をひそめた。
霧はゆっくりと流れて時折濃さを増す。唯一視界に捉えているオルオの足元や胸が霞むことで、辛うじてその濃さをペトラは測ることができる。

「俺はもう、十年はこうしてた気分だ」
「……どういうこと?」
「俺に聞くか?」

分かるかよ、クソ、と拗ねたようにひとりごちて、オルオは視線を逸らし、霧の向こうへ目を向けた。瞼に険しく皺を寄せ、目をこらす。その横顔を見て、ペトラは言葉では無い部分で納得した。
この男はずっとこうしていたのだ。永遠のように長い間。

どうして。

「……最後に声を聞いた」
「……ああ」

オルオにつられてペトラも霧の彼方を捉えようと目を細めてみる。何もありはしない。どのくらい先まで見えているのかも判然としない。

「"私が"先だったはずよ」

霧に目を向けたまま言うと、視界の端でオルオが振り向くのが見えた。同時に何か、霧に流れが生まれた気がした。視界に変化はない。漠然とした感覚だ。まるでこの男から自分へ、熱が移るような。

「オルオ」

目を向け直すと、案の定オルオは苦渋に顔を歪めていた。
別に良いニュースが聞けるとは思っていない。ペトラは自身に言い聞かせる。知るべきことを知るだけだ。
最後にこの男の声を聞いた。その先を。

「何があったの」

だから隠さないで。
それだけを念じて、なるべく静かな声音でペトラは囁いた。

「……俺達は」

やがてオルオが口を開くまでには、随分間が空いた気がした。じっと俯いて、歪んだ口元に奥歯を噛み締めているのが分かった。
やがてオルオが顔を上げ、真っ直ぐにペトラを射抜いた時。確かにオルオの言うとおり、ペトラは既に十年の月日が流れたように懐かしさに駆られた。久しぶりにこの男と向き合った気がした。ここには最早時間などないのかも知れない。

「俺達は、判断を誤った」

今度こそ目眩に襲われて、ペトラはその場に倒れ込む自分を思った。
実際はただ立ち尽くすばかりで、オルオから目を逸らすこともなかったが。
次いで訥々とオルオが語った男自身の死にざまは、ペトラの脳を容赦無く揺さぶり、立て続けに頭を殴りつけるような話だった。

「こんな……」

最悪だ。
こんな。
どうして。

「こんなもの、無い方が良かったッ!!」
「ペトラ…」
「どうしろって言うの?! こんな…!」

どうして消えない。
こんな"その後"なら要らなかった!!
消えたなら潔く消えれば良い。
それが敗北者のせめてもの努めだ。
こんなところで顛末を聞いたところで何も出来ない。自身の無力さを知ることしか出来ない。その責務を果たしてもなおペトラの身体はここにあった。この曖昧模糊とした霧の中に。それがペトラは忌々しかった。どうして消えてくれない!!

「悔しい……」

震える肩をもう一度自ら抱く。
感覚のない皮膚と上着の生地を擦り合わせる。
一向に治まらない寒気の意味が分かった気がした。これは悔恨だ。目の覚めるような鮮やかに燃え盛る炎だ。この未練の火が自分をここへ留めているのだろうか。この男もまた。
そこまで考えて、ハッとしてペトラは顔を上げた。
いつの間にか自分の胸を見下ろして、自分の身体を温めることに専念していた。
視線を上げると同時、オルオが慌てたように顔を背ける。
じっと醜態を見られていたのだと知って、ペトラは舌打ちを堪えた。目眩も寒気も続いていたが、それよりもペトラには確かめるべきことがあった。

「グンタは? エルドは?」
「会ってない」
「……エレンには?」
「いいや」

これもまた己の無力だ。
悔しさは募るばかりで、ペトラは肩を抱くのを止め、自然と両手を心臓の上にあてがい、固く組み合わせていた。

「……エレン」

祈りではない。届く宛てもない。
ただ空しい叫びだ。それでも口に出さずにはいられなかった。

「エレン……」

固く目を閉じ、動いているかも分からない心臓を絞り出すように、両の手で自分の胸を掴む。

あなたを守れなかった。

誰一人。

どうか逃げ延びて。

どうか間に合って。

涙が出るのかは怪しかったが、どうしようもなく込み上げてくる気配は確かにあった。それを懸命に押し込めて、ペトラは念じ続けた。信仰を持たないペトラには祈ることは出来ない。ただどうしようもなく押し込めるごとに溢れるままに、一心に思い続けた。
ペトラの肩にオルオの手が伸びたのは、それから十年が過ぎた頃だった。あるいはほんの数秒かも知れない。5秒も十年もここでは変わらない。それにしたってオルオはひどく時間をかけて、肩に手が置かれてからペトラの身体が固く抱きすくめられるまでには、本当に永遠のような時が経っていた。
不思議とオルオの身体には感触があった。
生前抱き合った記憶は断じて無い。信じてもいない神に誓えるほどに断じて無いが、まあこんなもんだろうと思う。こんなもんだろうと思える男の体温と力と脈拍が確かにここにあり、ペトラを包んだ。

「……どうしてエルド達は来ないんだろ。先に行っちゃったのかな」
「……さあな。俺達に気い回したんじゃねえのか」
「馬鹿言わないで」

大体において男ってのはタイミングが悪い。それが十年単位ともなると笑う気にもなれない。
抱き合うまでの永遠のような時間からすれば一瞬、本当にただの数秒で。
オルオの掌が二度、三度、ペトラの背中を行き来する頃には、込み上げていたはずのものはすっかりどこかへ消えて、涙などもうどうやっても出ないのだろうと、空しい確信だけがペトラには残されていた。
胸を掴んでいた手を解いて、自分の爪の掌に食い込む痛みすら感じなかったことに苦笑して、ペトラはオルオの背に腕を伸ばす。
一応の礼儀として一度腕に力を込めて抱き寄せてから、すぐに軽く背中を叩いて肩を押して、オルオから身を離した。

「たまには大人しくしてろよ……」

見上げた先、オルオはあからさまに不服そうな顔でいた。よくよく検討すると物騒に聞こえる文句を吐き捨てて、オルオは途端に怖じ気づいたのか、必要以上に引き下がる。

「ねえ」

無駄に空いてしまった距離を一歩、二歩詰めて、ようやく平静になって来た自分を感じながら、ペトラはふと気になったことを尋ねた。

「さっき、直に無くなるって言ったよね。何だったの、あれ」
「ああー……」

追い詰めたぶんだけまた半歩ほど下がって、何故かオルオは気まずそうに目を逸らす。

「来たときと比べりゃ、大分薄くなった気がするから……」
「何が? この霧?」
「いや、俺が」
「……どこが?」
「お前、答え難いことを……」
「え?」

わけが分からない。
歯切れの悪いオルオに苛立つよりも、不可解に思った。
不可解。そう不可解だ。平静を取り戻した思考を巡らせ、ペトラは訝しむ。何かが根本的に不可解だ。
思えばこの男は最初からいやに訳知り顔だった。十年はここにいた、などと言って。
ペトラより後から来たくせに先にここへ来ていたのも解せない。無論、ここには後も先も無いのかも知れないが。
だったら、グンタやエルドがいないのは何故だ?
敗北者の悔恨が自分達をここへ呼んだのなら、二人が来ないのはおかしい……。


『俺達に気い回したんじゃねえのか』
『馬鹿言わないで』


霧が。
少し、薄くなった気がした。


「……オルオ」


それとは反対に、ぼんやりとした考えが、唐突に形を。

「ねえ……」
「止めろ、言うな」
「ちょっと訊きたいんだけど」
「訊くな馬鹿」
「オルオ。怒らないから教えて」
「ペトラ!」
「教えてよ! だってこうしてたって埒が明かないじゃない!」

霧が晴れたところで何が見えるわけでもない。相変わらずこの男がいるきりだ。
何の役にも立たない"その後"があるのはこの際受け入れるしかないが。でも、じゃあ、どうして。

「何で私達、ここにいるの?」

直に消える。
この男はそう言った。
直に。それはいつ訪れる。ここには最早時間などない。
ここに何かが訪れるとしたら、それは機だ。タイミングだ。
大体において男ってのはタイミングが悪い。それが十年単位ともなると、笑う気にもなれない。

「……ねえ、オルオ」

5分。あるいは、再びもう十年が過ぎた頃。いい加減ペトラが痺れを切らして呼びかけると、オルオは酷く苦しげに顔をしかめた。怯えているようにも見えた。
沈黙の間、お互いがどうしていたのかは憶えていない。

薄くなっていっている。

永劫に見えて、私達は確実に消耗しているのかも知れない。
だったら黙っている理由はない。ペトラは思う。

「……何か、言えば。せっかくだし」


そのために私達、ここにいるんでしょう。


ペトラがそう言うまでもなく、オルオは深く溜め息を吐いた。意味のない呻き声を漏らし、目眩に襲われたのか掌で額を覆った。
数歩先で漏らされたはずの男の熱を、ペトラは自分のもののように感じた。
とうに温度は無くなった気がしていたのに、ふと自分の身の内からも、込み上げてくるものがある。
深々と息を吐いてみて、それでも足りない。
わけもなく胸が熱くなるのを感じて、"その後"。


別にこんな"その後"だって、要らなかったのに。


込み上げるものを抑える理由も無くて、いっそ目の前の男が踏み出すきっかけになれば良いと。
そんな子供じみたことを思うのは何年ぶりだろうとおかしくて、ペトラはますます胸が塞がれるのを感じた。
唖然とするオルオの顔が、目の前で熱く滲んで歪むのに任せて。

ペトラは手で顔を覆うこともなく、零れるままに瞼を閉じた。


end.


memo




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