Nobody But You





「俺の男。俺の男か。フ……ハハ、ハハハッ!」
「何がおかしいんだよ……」

ようやく身体が動いて再び肩を引こうとするが、ジャンは頑なに腹を抱えて動かない。案外まだ力が残っていたんだと、もしかしたら力が戻ってきたのかも知れないと、それだけは好ましいことだったが。落ち着くまで待つしかないのは、少し忌々しく思った。とりあえず拭き上げた肩に乾いた布地を被せておく。身体が冷えては元も子もない。

「いい加減笑うな。こっち向け」
「いや、は、無理だ。ハハ、無理だって。だって、ハッ、だってお前、俺の男ってハハハ……!」

やっぱりこいつもう駄目なんじゃないか。
心配になりながら、濡らした布地が冷えているのに気づいてもう一度湯に浸ける。笑い過ぎてジャンは終いには咳き込みだして、ぜえぜえと喉を嗄らして駄目押しとばかり、ゲエッ、とえずく始末だった。

「もうそのまま死んでくれねーかな」

結構本気で言って、ガクガクと痙攣するジャンの背中を乾いた布地の上から撫でてやる。こいつと連れ合ってから口が悪くなった気がする。笑いはどうにか収まったようだが咳はなかなか止まず、落ち着く頃にはジャンはすっかり息が上がっていた。熱のこもった息を漏らす横顔は額に汗が浮いて上気して見える。反対側は明日にしてもう寝かせてやろうかな、と考えながら、ゆっくりと繰り返し、ジャンの背中をさすり続ける。

「……背中よりもっと擦って欲しいとこがあるんだけどな」
「自分で擦れ。見ててやるから」
「お前絶対ガラ悪くなったよな……俺のせいか?」
「かもな」
「……ふ」

また笑い出すならどうにかしてやろうと思ったが、ジャンは小さく息を吐いただけで、そのまま目を閉じた。

「…まだ苦しい?」
「いや……」
「もう休むか?」
「……いや。頼む」
「じゃあさっさとこっち向け」

今度は素直に従って身体を転がして、目を閉じたきりのジャンの横顔がこちらを向く。絞り直した布地を横腹に滑らせると、ジャンはくすぐったそうに身をよじった。

「……エレン」

そのまま少し背骨を曲げて、薄ら笑いを浮かべて、ふらりと伸ばされたジャンの手が宙をさまよう。

「何だよ」

その腕の付け根を拭きながらも、空いた片方の手を渡してやる。濡れた手をつかんだジャンの指は熱く乾いて、思いのほか力強かった。肩が下がり、肉が引きつれる。無理矢理に引き寄せた指を、ジャンは自分の頬骨を押し当てて、鼻先を擦りつけて、それから指の背に唇を寄せた。ク、と緩く吸い付かれて、相変わらず閉じられたままのジャンの目を、目の縁で震えて見える睫を見下ろして。
再びそのまま動けなかった。永遠かのように動けなかった。唇の触れた一点から熱が沸き上がって、絞り直したばかりの布地より、この男の体温より高い熱が骨を伝って全身に回った。鳩尾を突かれたように強く、直に握られたように強く、心臓が痛んだ。

「……じっとしてろよ。あとで背中以外も擦ってやるから」
「マジかよ」

痛みが引くのを待って言うと、ジャンはハッと短く、ひどく無邪気に笑って目を開き、こちらを見上げた。目が合う。指が離れる。痛みと共に熱も失われていく。

お前を。

込み上げた言葉を飲み込んで、グッと咽喉が鳴った。聞かれやしなかっただろうかと慌てて視線を逸らし、こちらの手を離してだらりと地面に落ちたジャンの腕を抱える。

ジャン。お前を。

咽喉元までせり上がってくる感覚は吐き気にも似て、堪えた分だけドロリと胸に渦巻いた。抱えた腕を無意識のうちに強く掴み過ぎていたことに、手のひらの内側で骨が軋む感触で気づいた。ジャンは何も言わない。いつの間にかまた瞼を落として、静かに深く呼吸を繰り返している。不自然に規則的なのは、努めてそうしているからだと分かっていて、この穏やかな音が続くことを願った。
結局背中以外のところとやらを擦ってもらう気力は無かったようで、身体と髪と拭き終え着替えさせて、後片付けを終えて戻ると、ジャンは既に寝入っていた。呼吸は一転して浅く荒い。開いたままの唇は乾き、漏れる息は湿って、か細く際限がない。拭ったばかりのこめかみには脂が浮き、目元には険しい皺が刻まれている。何日か続けてその寝顔を見るうちに、化けの皮が剥がれた、という言葉が浮かぶようになっていた。起きているときのこの男は気力で保っている。つまらない冗談も言うし下らないことで笑っても見せるし、未だ俺を労わろうと努力している。眠りにつくと、途端にそのすべては消え去ってしまった。そこにはただただ、死に親しい病の男が現れる。夜中に意識が戻ると眼光だけは炎のように色を増すが、火は火だ。どれだけ燃えようが揺れは定まらず、握り潰せば消えてしまう。
寝てろ寝てろと言い聞かせはするが、それしか言えないからだとは分かっている。ジャンは何も言わずおおむね俺に従ってくれるが、眠れば眠るほど、この男は死に近づいているようだった。
そうしてついに今日、食事も受け付けなくなった。









あきゅろす。
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