Nobody But You





「置いて行くって手もあるぜ……」

そう言われたのは何日目だったか。
夕暮れ時だったことは覚えている。薄い暗がりの中、ジャンの目の光だけが浮き上がっていた。
ジャンは裸の胸を持ち上げ地べたに肘をついて、わずかに上体を起こしてこちらを見ていた。口の端は上がるか上がらないか中途半端なところで歪んで、笑っているようにも、吐き気を堪えているようにも見えた。
そのジャンの目に、ただ視線を返した。
瞬きは必要なかった。両の目を定めたまま、ジャンの目玉の底まで射抜くつもりで言葉もなく音もなく、視線を注ぎ続けた。やがてジャンの確かに怯んで、気まずそうに目を逸らしたところで一度目を伏せた。そうして再び顔を上げ、その瞼を捉える。こちらの顎のあたりを見つめて苦い顔でいるジャンの目の縁を一点に、そこへ深く刺さるように。

「置いて行くなら、そのときはお前を殺す」

冷静を心がけると、自分でも意外なほど静かな声が出た。ジャンは瞬間ハッと目を開いてこちらを見てからまたすぐに俯いて、今度はさらに目線を下げてこちらの腹のあたりを見だした。心なしか顔が白く見えるのは夕闇が深まったせいだろうから、それは気にせずにおいて言葉を続けた。

「どうしてこんなところまで来て、かつての仲間を殺さなきゃならない。自分の男を」

苛立ちはなかった。事実を事実として告げただけだ。
ジャンだって分かっていたはずだ。それでも言わずにいられなかったのは、この男の性分か、それともいよいよこの男は深刻なのか。つらつらと考えながら、やっぱり俺は苛立っているのかも知れないと思う。ジャンは暗がりのせいだけじゃなく、はっきりと青白い顔で唇を結び、いつしかこちらの膝あたりまで目を落としていた。その顔はこの二日で一段と肉が落ちた気がする。頬骨の上、元から厚くもなかった目の周りの肉が明らかに削げて、骨格が見て取れる。眼の中心の光だけがゆらゆらと目立っていた。

「……忘れろ」

沈黙を経て、ジャンは殆ど嘔吐するような呻き声を漏らした。溜め息が混じる。

「少し気が弱っただけだ。二度と言わない」

そう言って、言っただけで力尽きたのか、浅く持ち上げた上体を落とし、ジャンは寝床に倒れ込んだ。
長く長く細く吐かれた息が、視線より言葉より力を持って、胸を重たくした。息苦しさが増す。目的がなかったら寝床を出て行きたかったが、そう思いながらも手は自然に動き、今しがた沸かしてきた湯に浸した布地を上げていた。顔に上る湯気に目を細めながら布地を絞る。皮膚がヒリヒリと痛む。まだ熱過ぎるか、と一度折り畳んだ布地を自分の腕に当ててみた。一瞬鳥肌が立って、どういう繋がりなのか腰まわりの皮膚がチリチリと痺れたが、それだけだ。じわりと染み込んでいく熱は耐えられないほとではなかった。

「ジャン、横向け。向こう。腕上げろ」

声をかけると、その日のジャンは従順だった。
自分でやると言い張るこの男を宥めて、ちんたらやってたら余計に身体が冷えるんだと押し止めるのが度々のことだったが、先の脅しも効いたのだろう。この男なりの負い目もあったのかも知れない。肩を掴んで押しやると、ジャンは大人しく寝返りを打って背中を向けてくれた。

「熱いか」

責めたかったわけじゃない。こちらはこちらで感じていた負い目も相まって、かけた声は不自然に相手のご機嫌を窺う音だった。返事がなかったのがせめてもの救いだ。押し当てた布地で盛り上がった肩の骨をなぞり、皮膚の表面をこそげ落とすつもりで擦っていく。これで余計なものがすべて拭い去れるなら良いのにと、埒の明かないことを思った。今日はもう言葉を交わさない方が良い。そんなことも。
こいつはだいぶ弱っている。少しじゃなく、だいぶ弱っている。そして俺は少し参っていた。もしかすると少しじゃなく。
こういうときにわざわざ諍いを起こす必要はない。連れ立ってからというもの、俺達はずっとそうやってきた。お互いに丈夫なうちでも、お互いなるべく自分の苛立ちとは自分で向き合ってきた。昔は愚痴の多かったジャンも、過酷なときほど努めて平静を保つよう心がけてくれたし、事実俺を労ることばかり上手くなっていった。余裕ができるとそれまで鬱積してきたぶん小競り合いは絶えなくなるが、理由のないガキの喧嘩なら何度やったって何十度やり合ったって障りはない。何の遺恨もなかった。
けれど今は、全くいがみ合って良いときではない。少しもささくれも許したくない。ジャンにはただ休んでいて欲しい。それは本心だ。こいつが。

「……ジャン」

言うんじゃなかったな。
遅過ぎる後悔が襲ってきて、溜め息を堪えた。こいつが。こいつが俺だったら、こんな苛立ちは見せなかっただろうか。ただひたすら労わることに徹して、俺が受け止められる程度の小言を零してはあっさりと謝ってみせて。俺に見えないところで物に八つ当たりくらいはするかも知れないが、そんなもの俺だって程度は変わらない。そんなことじゃ何も晴れやしない。俺が元気になったら待ってたとばかりに延々と恩着せがましく愚痴を垂れ流して、それでようやくチャラになる。それだけでチャラにしてくれる。ジャン。俺だって本当はそうありたいんだ。
ジャン、と意味もなく呼びかけてしまってから、どう言葉を続けるべきか迷った。俺は謝罪がしたいわけじゃない。謝ることは何もない。置いて行くからにはこいつを殺してから行くのは事実だし、そんなことをわざわざ明らかにしたのはジャンだ。『いや、俺が言わせたんだ。悪かった。忘れてくれ』だとか。そんな言葉を聞きたいわけじゃない。こいつに言わせたいわけじゃない。

「ジャン、こっち向け」

結局呼んだきり口が開けず黙々と半身を拭き終えて、自分の呼び声はこちら側へ寝返りを打たせる催促にすり替えた。正直顔は見られたくなかったが、それはこいつだって同じだろう。今日はもう、出来れば目も合わせない方が良い。そう念じて、あくまで応えないジャンの肩をもう一度掴み、こちらに引き寄せようとして。


「……ふ」

引き寄せようとしたところでジャンが背を丸めて息を漏らしたとき、はじめは寒いのかと思った。

「ハ…ハハッ、ハハハ……」

それが、笑い声に変わったときには、冗談抜きで絶望した。もう駄目かと思った。背中と肩を小刻みに揺らして笑い続けるジャンに、文字通り血の気が引いた。指先から身体が冷えていくのを感じて。

「ハ、ハハッ……俺の、俺の男……俺の男って、ハ、ハハハハ……」

不規則な笑い声の合間にジャンがまともな言葉を発するまで、身動きが出来なかった。









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