Nobody But You




ハッと身を固くして声の主を見やる。
すぐそこに横たわる男の姿が既にはっきりと見えている。エレンと名を呼んで、男は何か言葉を続けようとしたらしいが、それは叶わず、ただ隙間風のような息だけが漏れた。代わりに咳が二度、三度こぼされる。

「どうした。水飲むか」

緊張していた自分の心臓も身体も、途端に平静を取り戻した。水を入れた皮製の袋を掴んで、男の傍らに膝をつく。

「起こすぞ」

返事を待たずに一度水を置いて身を屈める。男の肩を掴んで持ち上げ、背中に手を滑り込ませ、ゆっくりと上体を起こしてやる。多少汗をかいてはいるが、着替えさせるのは気温が上がってからで良いと、一人考えながら。
起こしてから間近に見た連れ合いの男の顔は、目眩でも起こしたのか眉根を寄せて、ひどく険しかった。僅かに開いた唇から断続的に息が漏れる。それがザラついた咳に変わり、咳が止まらなくなって、果ては痙攣でも起こしたように身を揺すって、嘔吐にも似たえずきが続く。
その間、背骨に沿って背中をさすってやる。腰から首の付け根まで温めるつもりで、手のひらから熱を与えるために繰り返し撫でる。

「ジャン」

男が落ち着くのを待って水を差し出す。
旅の連れの男。ジャンは全力で走った後のように荒く息を継いでから、水を含んだ。その首筋に滴が伝うのを目の端に捉えて、タオルに手を伸ばす。

「もう少し休め」

暗闇の中でも額に脂汗が浮いているのが分かる。そこに布地を押し当て軽く擦り、ついでに水に濡れたジャンの顎を拭う。首筋を拭い、シャツの隙間から汗ばんだ胸元を拭う。そのまま水を取り上げて胸を押すと、ジャンの身体は抵抗もなく倒れ込んだ。その背中を支えながら、ゆっくりと毛布の上に寝かせる。

「エレン……」

瞼を歪めて目を閉じ、ジャンがうわごとのように囁いて、僅かに上がった手が宙を探った。その手を捕まえ、毛布を上からも掛けた中に押し込める。

「起きたら飯持ってくる。寝てろ」
「うなされてた……」

気温が一段下がった。
夜の残りが一気に身を包んで頭を冷やした。
暗闇の中で、ジャンが目を開き、こちらを見つめていた。その両の眼にかがり火のような炎に似た揺めきが、光が見える。夢でも見た光だ。この男の身体を照らす焚き火の炎が、その目にも映っていた。

「……気のせいだ」

どうにかそれだけ答えて、無理があるな、と自分でも無様に思う。けれど、お前が俺の心配してどうするんだ、だとか、誰のせいでうなされてるか分かってんのか、だとか。くだらない応酬は今はどうでも良い。そんなことよりこの男を寝かせなければならない。そう念じて、毛布から手を引こうとした。引き抜こうとして、ジャンの指が力無くこちらの指を掴んでいるのに気づく。気づいて動けない。少しも動けない。邪険にするのが気の毒だからではなく、この男の今の非力さを認めることに躊躇した。

「……お前。何で脱いでんだ」
「ほっとけ……」

息も絶え絶えに何を言うかと思ったら案外しっかりした声で、ジャンがふざけたことを訊いてくる。訊かれてからシャツを脱いだままだったと気づいた俺も俺だと、自分を苦々しく思う。

「寝てろ病人」

なるべく冷たく言い放った。半ば八つ当たりで、もう半分は、毛布の下で指を伸ばし、思わせぶりにこちらの手首をなぞりだしたジャンを諌めるために。いいから寝てろ、と毛布を肩まで掛け直し、男の頬を撫でつける。一昨日剃ってやった髭がほんの少し伸びて、剃り跡がチクチクと手のひらを刺す。その感触に既視感を覚えながらも構わず撫でて、ジャンが大人しく目を閉じるのを待つ。寝たふりでも無駄口を聞いているよりはずっと身体に良い。渋々、といった顔でジャンが目を瞑ったところで、自分の替えのシャツを掴んで素早く頭からかぶった。そうして再び毛布で自分の身体をくるみ、ジャンの隣に腰を下ろす。再び手を伸ばし、見張ってるぞ、という意思を込め、ジャンの頬に触れる。時折震える瞼を、乾いた唇を、汗にべたついた髪を撫でる。少し迷ってからもう一度身を屈め、ジャンの顔を覗き込む。どこか強ばった顔を見つめ、まだ起きているだろうことを確かめて、ジャンの額の、髪の付け根に唇を寄せた。宥めるように小さく音を立てて口づける。汗と土と夜の匂いと、この男の体臭を嗅ぐ。
どれも夢の中にはなかったものだ。やはり夢は夢に過ぎない。見ている最中はどんなに現実のように感じても、現実はここにあり、ジャンはここにいる。ここに生きている。今のところは。


「おやすみ」


囁いて、ジャンの呼吸が本物の寝息に変わるのを待つ。一度眠りにつくと徐々に呼吸が乱れ、ジャンはまた苦しみだす。それを一人見守る。濡らした布地を額に乗せてやって、時折の首元の汗を拭って。
ジャンの隣でろくに瞬きもできず、その顔を見下ろしていた。そのまま夜が明けるまで、徐々に藍色が薄まって白けだす暗がりの中で、不規則な呼吸の音を聞いていた。









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