Perfect Sky







[パーフェクト・スカイ]




完璧な青空の下、白い砂の道を辿って、家路に着く。

乾いた草の上を風が渡って、髪を撫で、頬を撫で、シャツの下の胸を撫で、過ぎ去っていく。

ふと俯いて、地面の眩しさに目をやられ、オルオは険しく瞼を歪め、草原へ目を戻した。
左手には、まるで母親が持っていそうな大きな編み目のバスケットを提げている。それがオルオには少し居心地が悪い。一気に所帯じみてしまったようで。

苦々しさから意識を向けてみれば、微かな重みがある。
大したこともない。清潔なチェック地の布巾の下には、パン切り用のナイフ、削ったチーズ、払い残したパン屑。それから3分の2ほど空けた葡萄酒の瓶。金属製のカップが二つ。それきりだ。
腕を引く重さらしいものは瓶だけだった。柔らかく掛けた布巾の端から瓶の口が覗いている。歩くたびに揺れてタプリと水音を鳴らし、オルオの肘に振動を伝える。それを何とはなしに見下ろして、砂の目映い照り返しに顔をしかめ、オルオは慌てて顎を上げる羽目になったのだった。

その首元をまた風が横切る。
絶え間なく微かに、心地良く吹き続ける。

揺れる草丈は高く、くすんだ色は干した藁を思わせる。互いに擦れ合って、砂の音に似てざわめく。草の水面に波紋を描いて、風が遠ざかっていく。


「たぶんね…」


風を追っていた目を止めて、オルオは自分の右肩を見やった。
傍らには連れがいる。オルオの右の腕はだらりと自然に垂らされて、その先で緩く連れ合いの手と繋がっている。
オルオと肩を並べて、連れのペトラも眩しそうに目を細めていた。
それでもめげずに進む先を見据えている。この温かく乾いた白い砂の道を、ペトラは気に入っていた。気が向けば素足で歩くこともある。今は部屋履きと変わらない薄ぺらな靴を引っ掛けているはずだが、服が邪魔して見えない。
オルオが視線を落とした先で、ペトラの足元から風が持ち上がる。地面に負けず真っ白な生地がふわりと膨らんで、ひときわ眩しくオルオの目に焼きついた。
ペトラは肩紐を結んだだけの、踝まであるワンピースを着たきりだ。そんな子供の寝間着のような格好でいると、ペトラは年よりもずっと幼く見えた。絶えず揺れる髪も陽射しを溶かして、いつもよりさらに細く透明に見える。素肌の肩からするりと伸びた腕は、もう少し日に焼けても良さそうなものなのに、やはり白さを保っている。砂に同化するように、全てが白くオルオの目に映る。


「望んだら何でも叶うと思うの」


その中で不意にオルオへ顔を向けて、ペトラがいやに物騒な言葉をよこした。
見つめ合えば幼さなどかき消え、ただ瞳の鮮やかさがある。全てが白む陽射しの中、ペトラの両の眼だけがますます色彩を濃くして見える。
繋いだ手に力が込められるのを感じ、オルオは少し歩調を落とした。勘づかれない程度の加減でペトラの手を引き寄せ、早いうちにペトラを落ち着かせようと試みる。虚しい努力だ。

「この空みたいに」

静かに呟いて、ペトラは空を見上げた。
大げさに喉を反らし、横顔は空の頂を仰いでいる。
反らした喉もまた白い。オルオはじっとそこへ目を落として、やがてペトラが首を戻す様子がないのに根負けして、ゆっくりと頭上へ目を向けた。

完璧な空だ。

雲ひとつない。何の翳りもない。どこまでも高く透き通り、途方もなく青い空だった。
青さにおいては、目の醒める凄みがあった。
ちょっと心配になるような青さだ。夕陽に赤く燃える空が、時折禍々しいほど赤く染まることがある。あれが一面青かったらこんな感じだろうとオルオは思う。ほとんど生まれて初めて見る色だった。見慣れないうちは随分居心地が悪かった色だ。
だが、ペトラには自慢の空だ。

こんな瞳に生まれたかった。

いつだったかペトラが、そんな、やけに少女じみた呟きをふと溢したことがあった。溢してすぐにペトラは大きく両腕を振って、忘れてくれと喚きながら大げさに取り乱したが、オルオはしっかり覚えている。ある時にはペトラは、一日中この空を見上げていた。最近は空よりも地面の白さの方がお気に入りらしいが、これもまたペトラの自慢のひとつだ。
まさか、こんな肌に生まれたかったとでも言うつもりだろうか。
随分前に思い浮かんだ疑問を、オルオはまだ訊けないままでいる。そこまでいくと、ちょっとオルオには笑わないでいてやれる自信がない。

「……望むって、何を」

相変わらず、ずっと見ていると不安になってくる空だ。口には出さずオルオは忌々しく思う。
視界に一色しかないってのは落ち着かない。地面の上下が分からなくなる気がする。
視線を戻してペトラの手を引くと、ペトラは案外大人しく首を戻して、何か笑顔に見えるものまでオルオに向けてきた。ちょっとビックリしてたじろぐオルオの気も知らず、ペトラは小さく歯を覗かせて、はっきりと笑みを作って見せた。

「子犬とか」
「はあっ?! こいぬ?!」
「いーじゃない! こいぬー!」

馬鹿じゃねえのか、と思わずオルオが怒鳴ると、オルオの靴のつま先をペトラのつま先が蹴ってよこした。別に痛くも痒くもない。それよりもペトラの正気を疑って、オルオは笑顔のお返しに歯を剥き出し、精一杯苦い顔を作って見せた。
ペトラは笑顔を一転させて大きく丸く目を見開いて、心外だとばかり、力任せに腕を振った。繋いでいた手は解かれ、辛うじて指先が引っ掛かるだけになる。指先だけはしっかり引っ掛かったままでいるのを、何事もなければ互いに可笑しく思えたのだろうが。今は二人ともそれどころではない。

「お前…子犬ってガラかよ…」
「ガラって何よ! 良いじゃない。子犬。可愛いじゃない。私、動物好きよ?」
「そりゃお前の勝手だけどよ…」

自分こそ犬ころのように噛みついてくるペトラに気後れしながら、オルオはがっくりと力が抜ける気がした。
何でも叶うなんて穏やかじゃないことを言い出すものだから、てっきりまた天変地異レベルのものを望むのかと思ったら。何のことはない。
まだ目を丸くしたままこちらを見上げたきりでいるペトラにげんなりして、オルオは勝手にしろよ、と肩を落とした。
そうしてそれをそのままに言いかけて、言いかけて、言い淀む。

「オルオは欲しくない? 子犬」
「……な。ペトラ」

嫌な考えがふと頭をよぎって、オルオは浮かんだ言葉を唾と共に飲み込んだ。

「ひょっとして、お前。子犬をずーーっと子犬のままでいさせとく気か?」
「それも出来るんじゃない? たぶん」
「お前、馬鹿ッ! 止めとけよー! 気色わりーなー!」

今度こそ思うままに叫んで、オルオは指先を振り解く自分を思った。実際には腕を伸ばし、しっかりとペトラの手を握り直した。ここで離すのは余計に不安だ。
まったく、この女は。あるいは得てして女ってのは。時々、あるいは口を開く度に、とんでもないことを言い出す。
歯軋りしたい苛立ちに、オルオはどう言いくるめたもんかと頭を巡らせた。どうもこうもない。断固言って聞かせるしかないが。

「……そう。そうなの。それなのよ」
「……何が」

身構えたところでペトラの思わぬ反応に、オルオはまた空振りしたような脱力感を得た。
てっきり『ちっちゃいままで何がイケナイノヨー!カワイージャーナイ! ガミガミガミガミ』的な答えを予想していただけに、オルオはかえってペトラを薄気味悪く思う。
つくづく人の気も知らず、ペトラは握った手を引き寄せると、オルオの腕に腕を添わせた。指に指が絡む。オルオの指の腹を、ペトラのそれが撫でる。白い胸元の薄い翳りがいっそう露わになる。
最近は、機嫌の良い時にはこんな素振りも見せた。もっとも何に機嫌を良くしているのか分からないうちは、オルオには不気味な静けさでしかなかったが。

「何でも叶う気もするけど。でも、それって気味悪いじゃない?」

続く言葉にペトラの言わんとすることがオルオには嫌というほど分かって、不気味さはすぐに払われた。代わりに元の忌々しさと苦さが戻って来る。繋いだ手の内に冷や汗を感じた。

「望んでものが手に入ったとしたって、それって本当は"何"が手に入ったんだ?って。考えてみたら怖いでしょ?」

お前、それは俺に対する嫌味か?

喉元まで出かかった言葉をオルオが辛うじて飲み込んだのと、ペトラが手を離すのが同時だった。
離れたと思ったのは一瞬で、今度はオルオの腕にペトラの腕が絡む。揺れた髪がオルオの頬に触れる。慣れた女の匂いがオルオの鼻を掠める。
もたれるように肩に肩を寄せたペトラは、オルオが間近に見下ろすと、酷く難しい顔でいた。険しく眉をひそめ、瞼を伏せてどこともなく宙を睨みつけ。
自分で自分の言った言葉に恐怖したのかも知れない。オルオの右腕にかかる重みは左腕のバスケットのぶんをとうに超して、オルオは少し歩きづらさを感じる。だがどうと言うことはない。それよりもペトラの言葉を待って、オルオは慎重に息を潜めた。そのまま数歩、二人、無言のうちに歩く。
風は不自然に止んだ。
ただ白い道をとぼとぼと歩く、数拍の沈黙を挟んで。

「オルオは本物だからさ」

やがて告げたペトラの声は、ごくごく真剣だった。
大げさに声を低く押さえて、何か重大な秘密を打ち明けるように囁いた。
聞かされたオルオはごくごく素面だ。ペトラにとってはどれだけ重要な真実か知れないが、オルオにとっては自明の事実だ。

「私もね」

勿体ぶって伝えられた言葉より、ついでのように短く呟かれた二言目の方がオルオの胸を刺した。

「分かってる」

心ない同意なら、出来るだけ早く隙間なく頷くことだ。
オルオが殆ど条件反射で答えると、ペトラは低く笑みを溢して、もう片方の手までオルオの腕に添えて来た。オルオはひとまず安堵する。

「だから。これ以上は良くないと思うんだ。このままが良いと思うの」

よく言うぜ。と。
浮かんだ軽口を、オルオはまたひとつ飲み込んだ。

完璧な空、完璧な住み処、完璧な安らぎ。

さんざん世界を好きに塗り替えておいて今さら何を節制したところで、俺達が欲深いことに変わりはない。
そう思ってもオルオが何も言わなかったのは、肩から腕を包み込むペトラの肌を得難く思ったからだ。
家でならともかく、この空の下でこんな風にしなだれかかってくるペトラは貴重だ。わざわざ水を差す馬鹿はしない。
歩くたびに腕が下へ引かれ、引きつられた肩から首の筋がピリ、と痛む。別段どうと言うこともない痛みだ。それよりもニヤニヤと頬が弛みそうになるのを堪えて、オルオは固く唇を引き結んだ。

「ペトラ、お前。もうちょっと俺が喜ぶ言い方が出来ねえのか?」
「えっ?」
「俺がいるだけで良い、とか」
「んーーーーーーっと。だから、つまりはそういうこと言ってるのよ?」
「もうちょい分かり易く言ってくれ」

言ってねえだろ、と噛みつく代わりにオルオが呆れ声を作って呻くと、ペトラは喉を鳴らして笑った。笑い声が高く弾ける。空へ渡っていく。
オルオの肩にペトラが手をかけ、引き寄せる。静かに伏せられたペトラの瞼が、オルオのすぐ目の前に迫る。
音もなく重なった唇は、そっと押し当てられ、触れるだけで離れた。
日差しが熱を。風が勢いを増す。
絡んだ腕がゆっくりと解けていく。また二人、指先だけが頼りなく引っ掛かる。
指の間を風が通り抜け、汗を冷やす。解かれそうになったペトラの手をオルオが今一度繋ぎ止めると、ペトラはオルオの手をそっと握り返した。腕を下ろし、肩を落とし、一度視線を落とすと、ペトラは再び前を向いた。言葉を交わす前と変わらない景色に戻った。
ただ風は膨らんで、勢いを増している。
風上は草原。オルオの背後にある。左手に提げたバスケットが風にあおられ、前に押しやられる感覚がある。
眩しさを覚悟してオルオが見下ろすと、ひらりとはためく白い布が視界の端に映った。ペトラのワンピースと同じ過剰な白だ。風に翻り、日差しを跳ね返し、まともにオルオの目を焼いた。
堪らず顔を上げて、オルオは強く瞬きする。瞼の裏の残像に目が眩む。ひらひらと羽のように揺れていた白は、バスケットに結ばれたペトラの帽子だ。ツバの広い柔らかな生地の白い帽子。これもペトラのお気に入りのひとつだった。どういうわけか今はバスケットの柄にリボンを括られて、オルオをさらに憂鬱にしていた。ますます所帯じみていくようで。

「帰ったら水浴びたいね」

つくづくオルオの気分など知る由もなく、空を見上げてペトラが険しく目を細める。風にペトラの髪がかき混ぜられ、額が露わになる。

「ニヤニヤしないで」
「してねえって」

ニヤニヤと頬を弛めてオルオが応える。
ペトラの横顔をぼんやりと傍らに捉えながら。

そうして二人、慣れた道を辿り、家路に着く。
草原を分ける白い一本道。
地平まで歩けば、二人の家がある。









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