Nobody But You




俺は気楽なもんだ。

森を行けばすべてが美しい。
木々の合間から見える朝の空は澄み渡り、土には黄金色が降り注いでいた。広い葉は緑を透かして煌めき、絶えず小鳥のさえずりにあちこちで枝葉が揺れている。溢れる音のひとつひとつは森の意気を伝え、幹の歪みのひとつひとつは森を進む道しるべになった。
俺は気楽なもんだ。
そう思う。眩しさに目を細めながらもめげずに光を集め、木々を見上げたまま坂を上っていく。枝を踏む音が小気味良い。身体はごく軽い。肩に下げた袋の中身と同じ澄んだ水が、自分の身体のすみずみにも行き渡っていると感じる。
その清浄な空気が、どこか見えない境を越えるといつも急に薄くなる。息苦しさが増す。足取りが冗談のように重くなり、担いだ荷まで重みを増して感じる。それでも俺は気楽なもんだ。そう唱える。この重さは自分の臆病心だと分かっているから今さらまともには取り合わない。今は俺を気遣ってやる必要は微塵もない。伏せかける視線を意識して上げ、歩調を速める。なるべく平静な顔を作って寝床に戻る。横穴の近くまで来たところで激しく咳き込みえずく音が聞こえても、それは変わらない。狼狽えて良くなる状況なんてものはない。

「ジャン」

姿を見る前に相手が気づくように声を上げる。肩から水を下ろす。ほんの僅かだがジャンが立て直すまでの間を空けてから、身を屈め寝床を覗き込む。だが今日のジャンは取り繕うことはしなかった。身を起こし損ねて力尽きたらしく、うつ伏せになり倒れそうな身体を片方の肘でどうにか支えて、まだえずいていた。身体の中身をすべて出す気じゃないかと思うほど上体を震わせ、嗚咽に似た音で咽喉を鳴らして、空の腹からは胃液と唾液しか漏れていなかったが、どうにも収まらないらしい。しぶとく嘔吐を続けるジャンはとりあえず置いておいて荷物を探る。金属製のカップに水を注いでジャンの傍らに膝をつく。

「いいから」

退こうとするジャンを宥めて抱きとめる。腕に唾液が滴るが今は構わずにおく。今にも突っ伏しそうなジャンの肩を支え、水を差し出す。抱えた背中が汗に濡れている。血の気を失って白く見えるジャンの横顔を見下ろして、じっと待つ。ジャンは溺れて水から上がったあとのようにぜえぜえと息を継いで、唇からは酸の混じって粘ついた唾液が垂れている。それを舌打ちとともに吐き捨てると、ひときわ荒く息を漏らしてカップをもぎ取り、ジャンは一気に水をあおった。もう一杯注いでやって渡そうとして、ゴボリと水音を聞く。今飲み干した水を残った胃液ごと吐き出して、腕の中で男が激しく噎せ返った。カップが音を立てて落ちる。ぼたぼたと地面に零れた水が膝を濡らし、支えた腕に跳ねる。
さっき以上の勢いで咳き込みだした男にさすがに驚く。本当に内臓を全部出す気じゃないかと、落ち着くまでのあいだ、声もかけられずいた。また空になってもう何も出なくなった胃を抱えて、ただ動作として胸を痙攣させてえずく。男のただ背中を撫で続ける。

「……クソッ…」

やがて男が毒づいた。声は細く、ほとんど泣き声に聞こえた。

「言うな。楽にしてろ」

少し迷って、汗の浮いた首の付け根に唇を落とす。邪魔にはならない程度を心がけて、湿った音を立てて口づける。単なる連れ合いとして面倒を見てやれる範囲はとうに越えていた。俺は連れだろうが男だろうが何だって構わないが、こいつが自分を許せる範囲をはみ出していた。こういうやり取りがあった方がかえってこいつも気安くなれるし、何だかんだでまんざらでもないらしいことを、この数日で学んだ。
調子が戻ったらお前をどうしてやるか考えて一日が過ぎる。
そう言っていたのは何日前か、まだ力が余っていた頃だったが。丸っきり冗談ってわけでもないだろうと思う。基本的に嘘は言わない男だ。

「……ジャン」

腕がもう一本欲しいと思う。片方の腕は身体を抱きとめたまま片手はその背中をさすって、ジャンの顎を伝う滴を拭えない。それが咽喉を伝って首に落ちていくのを見守るしかない。

「お前の仕事は休むことだ。俺も俺のやることをやってる。そうだろ」

せいぜい労わりを込めるつもりで囁いた声は、意図に反してえらく素っ気無い物言いになってしまった。
キスした後にかけてやる声じゃねぇなと少し気まずく思う。今さら声を作り直すこともできず、憮然として背中をさすり続ける。幸いと言うべきか、ジャンはそれどころではないらしかった。吐き過ぎて寒気がしてきたのか、指先が震えて見える。顔はいよいよ青白く、本当に溺れた後のようだった。

大丈夫だ。

言いかけて、さすがに痒い台詞だと切り捨てた。第一大丈夫なことなど何もない。ジャンの肩に胸を寄せ、負担にならない加減でそっと抱きすくめる。ずらした膝が水の溜りに浸かったが構うのは後だ。饐えた匂いの空気を吸い込み、音を立てないようにゆっくりと吐く。あとは男が身を起こすのを待って。


食えもしなくなったら終わりだな。


目を開いて。
頭をよぎった文句に、自分を不可解に思った。
ジャンが落ち着くのを待って寝床を片付け汚れ物を抱えて川に戻り、岸に腰を下ろして、浅い水底に布地を沈め水にさらしながら。
浮かんだ言葉の中身よりも、それが何の感情も伴わなかったことが不可思議だった。
腹立たしさも空しさもない。あいつの言葉や過ぎ去った光景が頭をよぎった時のような苛立たしさもない。早朝の空気を吸い込んで吐き出したときのように、静かに胸に下りてきた。辺りがあんまり穏やかなせいだろうか。せせらぎに水面を見下ろして、揺らいで映る自分を見つめ思う。目の前の俺もやはりちょっとしたことに驚いたという顔をして、少し目を丸くしている。
終わりってのは抽象的過ぎるが、食べてもらわないと困るのは事実だ。余計に内臓が弱ってしまう。こういうときに麦の類がないのは痛いなとも思う。ガキの頃は風邪で寝込むと、決まってクソ不味い粥を無理矢理食べさせられた。あの頃はこんなもん食ってたほうが死に近づくだろうと思って駄々をこねたけど。と。
また思い出に耽りそうになり、ようやく自分を不愉快に思った。それがまた不可解だ。じゃあさっきよぎったあれは何だったんだ。ガキの頃を思い出すよりずっと物騒なことを考えなかったか。俺は。ますます自分が分からなくなって、黙々と洗濯に戻る。
いつかはこうなることは決まっていた。
寝てりゃ治る病ばかりじゃない。
薬がなきゃ手も足もない、薬すら未だ存在していない病だってある。
世界は広いんだ。人類の誰一人知らない病も毒もあるだろう。
こんな山奥に寝転がしてたって治るものも治らない。
現に昨日までは一応起きている間はまともに振る舞っていたのに、もうその気力も尽きかけている。
手を動かすあいだにも何か堰を切ったように絶えず不吉な言葉が浮かんできたが、どれも鼓動を早めはしなかった。押し止める気にならないことの方がどちらかというと不気味だった。ジャンの。
ジャンの、と名を浮かべるだけで、心臓はドロリと重くなるのに。
ほんの数日前まであいつと交わした軽口のひとつふたつ思い起こしただけで、水面を殴りつけ集めた薪を蹴飛ばして、ひどいときは汲んだ水までぶちまけて、頭が空になるまでこの川で力任せに泳ぎ回っていたくせに。何だろうな、この無感動は。無感動とも違う、静けさは。事実だから。それも考慮に値しない事実だからだろうか。

あいつの悲観主義がうつったかな。

一人ごちて上げようとした唇を、ただ横に結んだ。
まただ。変なタイミングで異様に自分に苛立つ。そりゃあ確かに今のは不味かった。勝手にろくでもないことを考えて、それをあいつのせいにしようとした。にしたって何だ。そんなことよりもっと酷いこと考えてなかったか。俺は。

……やめだ。

やめよう、と思う。
あいつのものではないにしても、悲観的になっていることは確かだ。感情が伴わないのは考えても仕方ないことだからだ。俺は俺のやることをやるしかないんだから。
分かりきったことを今一度確かめて、濡れて重くなった布地を抱える。日に何度も繰り返す森との行き来は、もう少し頭をはたらかせれば減らせる手間もあるのだろうが、今は合理的に動く気はなかった。仕事が減ったって時間が余るだけだ。無闇に泳ぎ回って物思いが増えて、余計な疲れが増すだけだ。負担なく動いているあいだは俺の身体はどこまでも軽い。
この意気を分けてやれるなら俺があいつの分まで、何人分だって何十人分だって健やかでいてやれる。
思いついて、いかにもあいつの言いそうな台詞だと思った。この手のことを言われると冗談なのか本気なのか分からなくて、たぶんあいつもどちらか決めずに口走っていて、二人でいるとお互いにただ困ることが多いが。これは過去を振り返ってるわけじゃないと自分に言い聞かせてから、少し笑った。
笑って、気づく。
頭上で小鳥のさえずりが弾け、空気を揺らし遠ざかっていく。代わりに寄せた微風がほんの少し髪を揺らし、濡れた腕を撫でて冷やす。対する日差しは眠くなりそうに暖かく、見上げた瞼を温めていく。その眩しい光の中、風を目で追って。
やはり自分のこれはジャンのがうつったわけではない。そもそも悲観ですらないと気づいた。極めてポジティブな感情だと。
ジャンの死を思っても自分に苛立ちを覚えないのは、それが過去の再生ではないからだ。ここでグルグル回り続けている頭と身体と日々の、外側にあることだからだ。自分の足を未知の場所へ向けることだからだ。何のことはない。

 あいつが死ねば先を行ける。

俺が考えているのはそれだ。









あきゅろす。
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