Nobody But You




新しい線を刻んだ。
川へ下りる際に通る森の木の一本に。わざわざ茂みに覆われた幹の裏側に回って、浅く傷を入れた。
久々も久々に日を数えている。四本目を入れた辺りでこんなことをしても何の意味もないことには気づいたが、未だ続けているのは自分が腹を括るためでしかない。傷が一本増えるごとに事は深刻になっていく。その深さを認識するためだ。見誤らないように。
すっかり覚えてしまった道なき山道を行き、森を抜ける。緩やかな坂を下ると次第にはっきりと水音が聞こえてくる。斜面の途中から生えて傾いた大木の、地面までしなだれた枝葉をくぐり抜けると、山間の川に出た。水の音が一段と大きくなる。川幅はないが深く水をたたえた清浄な川だ。すぐ右手には滝とも呼べない低い段差があり、巨大な岩々が霧のような飛沫をまとって涼しげに佇んでいる。止めどなく落ちる水はどこから来るのか見当もつかないが、はじめにこの川の場所を教えてくれた時と同じ力強い低音で水面を打ち続け、清らかな流れを絶やさずいてくれる。
石の積まれた岸にひざまずき手を伸ばそうとして、チリチリと額が痺れた。汗をかいたせいだ。身体が水を欲している。手のひらに冷たい水をすくい、首を下げて口に含む。音のなく飲み干し胃袋に染み入ると、思わず目を閉じた。冷えた水はこのところの唯一の贅沢だ。続けて二杯、三杯とすするうちに額のしびれは消え、一気に頭が冴えていく。身体中が覚醒していく。視界が澄んだ気がして顔を上げる。雲のない薄い空の下、遠く見える山々が陽を受けて燦然と輝いていた。目を細めてその光景を捉えながらも腰を上げる。口元を拭って視線を落とし、今度は周囲に注意を向けながら河原を下っていく。
三日前にここで鹿を見た。
ほんの一瞬見かけただけだ。見慣れない生き物を警戒してかあれ以来姿を見せないが、ここより下流に移ったのか俺をどこかで窺っているのか。いずれにしても次に食らう肉はあいつだと決めていた。しなやかに駆け去っていった軟らかな後ろ脚を思う。その付け根の腿も、岩を蹴った前脚を支える胸も、間近に見たかのように描くことができる。若い革は使い勝手も良いだろう。すっかり狩人の思考だったが、自分を笑おうとは思わない。

「お前、すっかり優秀なイェーガーだな」

そこへふと低く呆れたように笑う男の声が頭を掠めて、すぐにそれを追い払った。
別に笑うことじゃない。今の俺は事実狩人だ。あいつだってそうだ。
とは言え今あの鹿を追うことはできない。本気でしとめるなら二、三日は山にこもる用意が要る。あれ一匹きりってこともないだろう。お仲間の居所も知りたいところだ。
塩漬けの肉が尽きたのが一週間ほど前になる。その頃に一度一人で山を回ってみたが、結局下見程度の収穫に終わった。
沢を下ってそう歩かないうちに、岩の多い岸の一画に着く。表面は変わらずさらさらと流れて見えるが、泳いで確かめればすぐに分かる。流れが分断されて揺らぎ、ところどころ穏やかな溜まりがある。そこに前の日に仕掛けておいた網かごを回収するのが今の日課だった。

「よお、悪いな」

確かな手ごたえをもって引き上げた筒状の網籠の一つ目には、そこそこの獲物が二匹収まっていた。気を良くして続けて取り上げた他の籠には合わせても小物が一匹入っているだけだったが、まあこんなものだ。待っているだけで得られる収穫としては上等も上等だと、すっかり見慣れた魚を見下ろす。黒く濁った灰色の皮は水を含んでふやけて見える。しぶとく横腹のヒレを上下させ、呼吸しようとうごめいている。海の魚と比べるのも野暮な味だったが、贅沢を言えるはずもない。こいつらを見下ろして「よお、悪いな」と挨拶のように声をかけてしまうのも、そろそろ習慣づいてきた。
時折この川で泳ぐことがある。
水底は薄暗く水は冷たすぎたが、川面越しに見上げる木々の緑と空の白さを気に入っていた。つまり今獲った魚たちは泳ぎ仲間でもあるわけで、水を腕でかき、目を開いて見据えた川底の景色のところどころ、流れに留まって小刻みに身を揺すって泳ぐ姿には、ある種の親しみを感じなくもなかった。だがこいつらとはそれも、昨日かぎりの付き合いだ。
なんて思ってはみるが、実際のところは大した感慨もない。後でこの場で粗方捌いてしまって、この川で手を漱ぐ。いざとなれば何の躊躇いもなく身を割いて腸を取り出す。多少平たい岩があればナイフ一本の仕事だった。

「お前って魚にだけはやたら好かれよるな。目が似てるからか? イデッ!」

そんなことをやはりヒトを小馬鹿にした顔で男に言われて、相手の脛を思い切り蹴りつけてやったのはいつだったか。
思い出してつい頬が緩みかけて、すぐに唇を結んだ。
このところ過ぎ去ったことばかり頭を巡る。一歩も前に進めない現状が心を過去へ向かわせる。あまり良い傾向じゃない。浸っている場合じゃないんだ。今の俺は。今の俺達は、完全に生かされている。森の豊かさに辛うじて生かされている。感謝すべきだ。おかげで互いにすべきことに専念できる。できるなら専念すべきだ。少なくともあいつは専念している。俺が雑念ばかりで良いわけがない。
そう念じ、努めて男の声を追い出す。連夜の悪夢を。ともすれば蘇りそうになる、気を抜くと思い出しそうになる自分の呼吸を握り潰し、押し込めて、川面の閃きを目に映す。









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