Nobody But You




握った手の温かさに反して、降り注ぐ陽の光とは裏腹に、肺から温度が失われていく。わざわざ水を差さずにいられない、自分の大人げなさを歯がゆく思う。
そこへ、ふと風を感じた。あの日に比べれば無いも同然の、ほんの微かな風が確かに自分の背後から、この男の背後へ。

「そのときは、構図が逆になるだけだ」

こちらの言葉を受けて、ジャンは急に狼狽えるのを止めた。そうして今、ジャンはよく分からない顔をしていた。怒りとも憂いともつかない。穏やかにも見える、ともすれば労りすら感じられる顔で。

「……構図?」
「誰かが、俺を思い出すとき。そいつはいつだって今俺が生きているのかも死んでいるのかも分からない。誰も俺を知らない。お前の他は。けどお前は知ってる」

何か、とんでもないことを言われている気がした。ぼんやりと。形のない感情が生まれた気がした。
その感覚は今日よりも後になって、長い時間をかけて俺を苛んでいくことになる。けれどもこの時はまだ分からなかった。ただ穏やかに、目の前の男の表情のとおり、静かに届いた。

「何かひとつくらいそういうものがあった方が、何ていうか、フェアだろ」
「フェア?」
「何に対してっていうわけじゃない。物事の有り様の話だ」
「ややこしくすんなよ……」
「別に難しい話じゃないさ」

ジャンのもう片方の手が伸びて、こちらの手首を掴んだ。手なんか握り合って何やってるんだろうと、ここへきて急に遅い後悔に駆られたが、がっしりと捕まれて逃げられない。構図が逆ってこれか? と、苦し紛れに余計なことを考えた。

「お前が俺の知らないうちに死んでるってのは気分が悪い。お前が俺が死んでも気づきもしないってのは癪だ。どっちも思い通りにいくことは基本的にないんだから、片方だけでも叶えたかった」

掴まれた手首が少し痛んだ。さっきは冷えて感じた胸が今は煩わしいほど熱い。出来るだけ身体を引いて見下ろすと、ジャンは薄い笑みすら浮かべていた。

「愛してるんだ。つまりは」

そりゃ後付けだろ。と思う。胡散臭えな、とも。
そうやって個人的な言葉に落とし込まれると、いつも一気に信憑性が無くなった。
この男が信用できないわけじゃない。別に何度も言われると言葉を薄ぺらく感じるとか、そんな話でもない。ただ釈然としない。何か引っかかった。
それでも事実は事実だと思う。この男の本心には違いない。俺は。
俺は、愛してるとは言えない。それは正直じゃない。自分の中に存在しない言葉は言えなかった。
俺は俺の言えることを言うしかない。だからせめて、言えることは言おうと思う。正直に。この男が答えてくれたように、真摯に。

「……ジャン。誰がいつお前を思い出すんだ?」
「……あのな、エレン。俺そういうのほんとに全部覚えてるからな。事細かに」

力を抜くと、「今からでも聞かせてやろうか」と吐き捨て、ジャンが乱暴に手を振り解いた。
口が悪いのはお互い様だってのに。それこそギブアンドテイクだ。
捕まれて痛んだ手首を擦り、肩を落とす。わざとらしく険悪な顔でこちらを見上げる、ジャンを見下ろす。
この男の言葉を反芻する。

誰もこいつを知らない。

そうして、この男の死を抱える自分を思う。俺がこいつより先に逝くってのはどうも想像出来ない。とすれば俺はいつか本当にこの男の死を迎えて、それを一人で抱えて生きていく。
それは元から一人だった場合とどう違うのか。
大した違いはない。俺は何も変わらない。そう思う一方で、まだ覚えている。毛布にくるまって闇を睨みつけ、眠りを恐れていた。それ以上に背中から聞こえる男の呼吸を恐れて、じっと耳をすまし、見じろきひとつできずにいた自分を。
既に夢より遠い出来事に思えたが、何を感じていたのかくらいは、まだぼんやりと覚えている。
これまで生きてきて目の当たりにしてきた死は、どれも怒りを呼び起こした。それをぶつける矛先があり、いつも死は、そこへ牙を剥く意思になった。
けれどもあの数日。
毛布の下で縮こまって、俺は毎晩、ただただ心細かった。寄る辺なく寂しく、途方に暮れていた。あの恐怖は。あれだけは。
この男の死だけは俺にとって、違う意味をもつのだろうか。


「……お前が死ななくて良かった」


もうひとつ。
言えることを言うと、ジャンの顔からはたちまちに険しさが消えた。元からそんなに怒ってもいなかったのだ。こいつは俺に甘い。抱き合うようになってからはますます。
ジャンの手がもう一度伸ばされる。今度はこちらの腕を掴んで、引かれるのに任せて一歩を踏み出した。するともう一方の腕がこちらの反対の肩を掴んで、肩と腕に添えられた手のひらの温かさに、既視感。で良いのか。何て言うんだろうな、こういうの。
考えながら目を閉じて、ごく自然に唇が重なった。
寝込む前と変わらない器用さでジャンの舌が挿し込まれて、舌先が合わさる。余さず触れ合って、隙間を唾液が満たす。ゆっくりと絡ませて互いの唇を食むと、こうしていない時間の方が不自然に思えた。これを含めて元の道行きだと思うのは、危険に違いないが。
それでも戻ってきたと感じるのは本心だ。俺の心だ。道を分け、糧を得て、食って寝て抱き合って。時折愛してると囁かれながら、世界を見渡す。いつもの道行きに戻って来たのだと。

薄く目を開くと、ジャンの頬と首筋が日に晒されていた。いやに白く見えるのは明るさのせいもあるだろうが、それにしたって見慣れない白さだ。病の翳りを感じさせる。あまり見れた色じゃない。
まあいいさ、と思う。そのうち血色を取り戻すだろう。俺達は戻って来て、まだ先を行くのだから。そう一人ごちて。
木漏れ日の眩しさに、もう一度目を閉じた。
色に溢れて滲んだ瞼の裏側を見つめ、手探りで男の首筋を撫でる。口の中で舌がうごめく。それに合わせて手のひらの下で喉が動く。男の脈を感じる。

遠く運ばれた風がサラサラと森を鳴らして、やがて温かに背中を押した。










あきゅろす。
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