Nobody But You



「エレン」

腹ごしらえを終えて森を行く。今日も世界は澄みきって、彩りに満ちていた。
草を踏む二人分の足音、風の枝葉をこする音。遠ざかるせせらぎ。すべてが快い。
エレン、と不意に呼ばれて振り返ると、ジャンの肩が木漏れ日に照らされていた。眩しさに目を細めて視線を落とす。落とした先で、ジャンがこちらに手のひらを差し出しているのに気づく、虚をつかれてジャンの目を見る。ジャンはニヤけた面をしまって、出来るかぎりの真摯な顔を作ってこちらを見上げていた。緩やかな坂を上るところで、ジャンが俺を仰ぐ格好になった。こいつのところだからそれを待って声をかけたのかも知れない。

「本当に世話になった。返せる借りじゃないのは分かってる。感謝してる」

日差しが身体を温めていた。
礼を言われたこと自体は、勝手に貸し借りを持ち出されたようであまり良い気はしなかったが。ただ、終わったのだという感慨が、光とともに胸に下りた。元の道行きの戻ることができた。あとは恵みに満ちたこの深い山々と、気の知れた狩りの相棒がいるきりだ。

「……言うなよ。ギブアンドテイクなんだろ」

そう言いながらもジャンの手を握り返す、固く固く。
ジャンは少し驚いた顔をして、それから小さく息をついて、少し笑って。そして怪訝な顔をした。一向に離れない手に力を込めて、手を引き抜けないのに気づいてか、おい、と眉を顰める。

「ジャン、お前。ほんとに何でついて来たんだ」

礼を言われたのは不本意だったが、それでも握手に応えたのは逃がさないためだ。握り合った手に空いた手も重ねて両手でジャンの右手を捕らえると、露骨にうんざりした顔のジャンを正面から睨む。

「違う、ジャン。別に足手まといだとか、そういうことを言ってるんじゃない」

正直な話少しはそれもあるが、今訊きたいのはこの前はぐらかされた話だ。もっと根っこの話だ。別にこいつを傷つけたいわけじゃない。足手まとい、の一言にジャンはますます渋い顔をして、もう既に傷つけてしまった感はあるが。今日は逃がすわけにはいかないと思った。

「……ああー…」

肩から腕を引こうとしたジャンを引き止める。簡単には抜け出せないと分かったらしく力を抜いて、ジャンが空いた手で自分の首を撫で擦る。目を逸らし俯いて、ああ、としつこく意味もなく口ごもる。

「……その……誰かが…」

愛してるなんてふざけたことは平気で言えるくせに何がそんなに気まずいのか、誰かが、と言ってから次の言葉を継ぐまで、ずいぶん間があった。

「誰かが……お前を……」

言いかけて言いよどんで、意を決したかのようにジャンがこちらの目を見る。
怖じ気づいた緊張した顔で、それを無理矢理押し込めてしまい込んだ顔で。やがて礼を言ったときと同じ、誠実な真顔になる。

「誰かが……お前を思い出すとき。そいつはいつだって、今お前が生きているのかも死んでいるのかも分からない。そいつの命が、どれだけお前に救われたものだったとしても。お前がいつどこで死のうが、そいつは気づきもしない。誰もお前を知らない」

初めて愛していると告げられたのは、星の降り注ぐ海だった。
目の前で自分を見上げるジャンに、不思議とあの嘘のような光景を思い出した。
あの時は俺がジャンを見上げていた。二人して温かな夜の海に浸かって、俺はジャンの肩越しに空を仰いでいた。星々が絶え間なく零れ落ちていく、夢のような夜空を。
あの現実味のない夜よりは、今のジャンはずっと真に迫って見えた。真実に接していると感じさせた。

誰も俺を知らない。

「そんなことは……エレン。俺は許せなかった。甘んじて良いことじゃない。お前は降って湧いた幸運じゃないんだ。一人の兵士だ。生きて戦い抜いた生身の人間だ。最期まで生きた人生を歩むべきだ。お前を亡霊には出来ない。そんなことは許すべきじゃない」

男のまわりだけ、時が戻った気がした。かつての草原を思い出した。吹き荒れる風の下で、怒りに満ちた声で俺を呼んだ。あれは俺に対する怒りじゃなかった。

「……とか、まあ、な。てなことを、思ったりなんか、したり……うん」

いつの間にか握った手はジャンの力の方が強かった。言い切った途端にジャンは何故か急に言葉を濁して、込められた力は照れ隠しのためなのだろうが、何を照れているのかが分からない。
皮膚が引きつれる感触に手を見下ろして、ともあれ。と、少し考える。
生きて戦ったのは俺だけじゃない。人知れず死んだ仲間は俺だって大勢知らずにいる。「見つからない」という理由で名前だけを記された仲間が、その名前も顔も知り合うことなく、言葉も交わさないうちに失った仲間が何人いたことか。それはこの男だって分かってるはずだ。きっと俺以上に分かっている。
ジャンの言葉は、何も俺だけを指したものではなかった。あの日俺を呼び止めた男の顔にあったのは怒りなどではない。義憤だ。この男からすべてへ。俺を含め、俺を通り越して。すべてに等しく向けられた深い憤りだった。
今になってようやく、この男の実際のところに一番近い言葉を聞けた気がした。
「俺にとって」こいつが必要だとか。こいつが「俺を」愛しているだとか。少なくともそんな個人的な言葉よりは、ずっと腑に落ちた。
だから俺も、思ったままを返す。


「……お前が死んだら、また誰も俺を知らない」









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