Nobody But You




「……は?」

腕の力が抜けてジャンの胸に倒れ込みそうになる。どうにか持ち堪えたものの頭は混乱するばかりで、間の抜けた声を返したきり、またジャンの言葉を待ちぼうけた。既視感って言うのか、こういうのは。何て言えばいいんだ。この、待ち構えて用意したものを全部吹っ飛ばされる感覚を、俺はついさっきも味わわなかったか。そんなどうでもいいことばかり巡る。
今になってようやく目が慣れはじめてジャンの表情が見えてくる。ジャンは息苦しそうにも単に面倒臭そうにも見えるしかめ面をして、わずかにこちらから顎を逸らし、どこか宙を見ていた。その目がチラとこちらへ流されて、視線が合わさった気がして、またすぐに宙へと戻る。

「俺だって……好きでブッ倒れてるわけじゃねぇよ……」

拗ねた声でまたしても要領を得ない言葉をよこして、ジャンはわざとらしく溜め息まで吐いて、ようやくこの男の息が頬に触れた。
意図の見えない言葉よりも、その呼吸に意識が向いてしまった。おかげでジャンが自分の質問を『お前はブッ倒れて看病されるために俺について来たのか?』という意味に捉えていることに気づくまで、馬鹿みたいに時間がかかってしまった。

「……違う」

また既視感があった。これと同じ言葉を確かについさっきも叫んだ。

「違う。ジャン。違う」

思わず肩を揺すって言い聞かせる。正直な話違わないこともなかったが、今訊きたいのはそんな差し迫ったことじゃない。もっと根本の話だ。

「じゃあ何だよ……」

鬱陶しそうに目を閉じてジャンが眉根を寄せる。気づけばその眉間の皺まで見えていた。声だけなら平素と変わらなく聞こえたが、薄くなった闇の下に現れたのはやはり、苦悶に歪んだ病人の顔だった。

「もう、話したろ、前に……連れは必要だって……」
「足手まといでもか」
「ハ……お前今日、マジで、ひでーな……いつもは……気持ち悪いくらい、優しいのに……」

笑うのも辛いらしいのは、力が入らないからか、結構本気で傷ついているのか。ハハ、とそれらしい音を作ってはみせるものの、ジャンの顔は泣いているのと変わらなかった。

「そう責めるなよ……ギブアンドテイクだろ……」
「明らかに俺が与えてるぶんの方が多い」
「お前な……そういうの俺、全部覚えてるからな……何言われたか、一言一句……」

次、お前が寝込んだら、一晩中聞かせてやる。とか何とか。
えらく陰湿なことを言って、ジャンが「どけ」と肩を捻った。反射的に押し留めていた手を離すと、力を振り絞るように、やけくそのようにジャンの腕が持ち上がり、こちらへ伸びた。

「エレン……」

毛布が剥がれ、手のひらが頬の片方を包む。指の腹が目の下の皮膚をこする。

「死なねぇよ」

嘘吐け、と思った。

「おかげでだいぶ良くなった。もう少し休めば、動けるようになる……」

ジャンの両の目に炎を見た。夢の中でも見た、深く苛烈な怒りの火だ。

「だから泣くな」
「泣いてない」
「濡れてる」
「これはお前の汗だ。起きろ」

頬に押し当てられた手のひらは焼けるように熱かった。熱が下がらないのは全く喜べたことではないが、今だけはその熱が有り難かった。

「お前脱がすの上手くなったよな……」

病人は殴らない。病人は殴らないと念じて、男の軽口は無視する。
水を飲ませ、汗を軽く拭いて、シャツを替えてやって寝かしつける。こんな一連に慣れてしまうなんて、とても冗談にはできなかった。まして男が眠ることは、また剥き出しの真実と向き合うことだ。
呼吸も言葉も炎も、頬を包んだ熱も、すべて夢だったかのように。ジャンは寝ついてしばらくすると、今夜もうなされ始めた。瞼を歪め、ひび割れた唇から絶えず浅く息を吐いて、毛布の下で小刻みに胸を上下させ。一晩をかけて山道を駆け続けるのと変わらない。ジャンは夜ごと死に追われている。追いつかれるのは時間の問題だった。
いつもと変わらない姿に、それをいつもと変わらないと感じたことに耐えがたくなって、這いずって寝床を出る。
外へ出ると、夜の頂を月が白く照らしていた。
一晩中眺めていても飽きない見事な満月だ。自身の模様を青く浮かび上がらせ、わずかに浮かんだ雲の縁を、黄味がかった灰色に透かしている。微かな風が音もなく身体を撫で、そのまま過ぎることもなく、小波のようにそこで消えた。音がないと感じたのは錯覚ではなかった。森はどこまでも穏やかで、健やかなまどろみの最中にあった。
その中で、一人、息を吐く。
長く長く、深く。
衝動に任せて力のかぎり叫ぶ代わりに。拳を握る。骨が軋むのを感じながら、歯を食いしばる。


 お前を失いたくない。


そうしてゆっくりと、肺が空になるまで。
音を立てないようにゆっくりと、寝静まった森の底で一人、息を吐き続けた。









あきゅろす。
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