Nobody But You




また風が止んだ。
止んだと思った瞬間に、今までとは比べものにならない大気の奔流が押し寄せた。反射的に目を瞑って、自分が風下を向いていることに気づいて、ただの瞬きになる。風は自分の背後から迫り髪をかき回して、目の前の男の背後へ流れていた。雲は互いにぶつかり合って音を立てながら、やはりこの男の頭上を抜けて流れていた。これは現実にはなかった光景だ。やはりこれは夢なのだ。そしてこれは紛れもない、自分の心だった。

「どこで生きようが、どこで死のうが、エレン。俺はもう、自由だ」

自分の後ろにある空気のすべてが、この男へ流れていた。この男を通り過ぎた後の行方など知らない。ただ背中を押す巨大な風圧と、自分の肩と腕にあるこの男の手のひらの温度があった。これは俺の心だ。現実の再生には違いない。瞬きを忘れている気がしたが、不思議とあおられた髪が目を刺すことも、眼球が乾くこともない。ただただ有無を言わせぬ風が俺の背を押し続け、前へ押しやろうとする。
風はきっと現実には方向などなく、無秩序に吹き荒れていた。横から肩を殴り、胸を押してもいただろう。その中で俺は、要はあの時、現実には俺は単純に、足を踏み出そうとしていたのだ。前に。

「……は」

息を吐いてから息を止めていたことに気づいた。心音が骨を打つ。

「驚いた……」

深く息継ぎをして、浮きかけた踵を戻した。地面を踏みしめて、ハッと零した自分の息は、何故か笑みを含んでいた。

「お前もっと、保守的な奴じゃなかったか」
「腰抜けだったって言えよ、正直に」
「そんなこと……」

俺のふやけた笑いにジャンは皮肉な笑みを返して、それは確かにこの男の持ち物だ。現実味がない、と感じたのはあの時の自分で、これは確かに現実だった。馬鹿正直に記憶をなぞる夢だ。その証拠に瞬間、背中とは全く別な方向から一陣の風が抜けた。俺が進もうとしていた丘の上から吹き下ろされた風が、ジャンの来た方角へ。現実にも吹いた風だ。凛々しい牡馬のような風が、俺達の間を走り抜けていった。

「……いつまでも同じ人間じゃいられない」

二人、風の行き先に目を移す。
遠く地平を見つめ、ぽつりとジャンが呟いた。それを聞く頃にはもう、この男を止める気はなくなっていた。

「エレン」

置いたきりの手のひらで俺の肩を軽く叩き、腕を叩きして、手を離した。ジャンがどこか緊張した面持ちでこちらに向き直る。

「お前が昔から見たがってたものを、俺も見てみたくなったんだ。どうせなら一緒に行こうぜ。ここで別れるってのも、妙な話だろ?」

畏まった口調がおかしかったが、笑いはしなかった。ジャンにも笑みはなかった。どうもこちらまで緊張してきて、思わず目を伏せる。男の手のひらの置かれていた箇所がまだ温かく、それがひどく居心地が悪かった。

「……けど、俺とお前じゃ絶対喧嘩になるぜ?」
「ハハッ!」

一緒に行くと言われて真っ先に浮かんだ言葉を最後の念押しでおそるおそる言ってみる。あまりに子供じみていてすぐには言えなかった言葉は、案の定ジャンに笑い飛ばされた。まるで俺達が揉めたことなんて一度もなかったかのように。
事実、俺の言葉はほとんど嘘になった。
連れ合ってみれば案外お互い自然に互いを労ることができた。それは多分、一人旅の最中に自分自身を労ることに比べれば、ずっと容易かった。もちろん些細な喧嘩は絶えなかったが、道を分かつほどの諍いは今のところ、あの日からただの一度もない。

「会話に困るよりゃマシだろ。良い旅にしようぜ」

俺の言葉を笑い飛ばしてから、ジャンは冗談とも本気ともつかない笑顔でそう言った。まるで俺達なら当然にそうなることが決まっているかのように。
あの時は正直どの口が言ってやがると呆れたが、事実、ジャンの言葉に嘘はなかった。
本当に良い旅になった。
何かに目を奪われたとき、足を止めたとき、心を捕らわれたとき、息を呑んだとき。しばらく見とれてからふと振り向くと、今自分がしていたのと同じ顔の男がいた。あるいは別な方向を向いている男に声をかけて、腕を引いて、一瞬の後に、やはり少し前の自分の顔を確かめることがあった。
夜。飽きずに月を見るとき、音に溢れた山々を、星の落ちる海を見ているとき。ふと背中が冷えたと思ったところで、それが熱に包まれることがあった。以前は毛布だったし、肌を合わせるようになってからは、この男の胸であり腕であった。抱きすくめられると毛布よりもずっと深く、湯に浸されたように熱が染みた。あるいは外側から伝わるのを待たず身の内から熱が沸き上がって、指の先まですぐに温まった。

「寒いんだろ?」
「もう少し……」

あまりの熱に身震いすると、寒がっていると勘違いして呆れた声が、耳のすぐ裏に響いた。吐息に皮膚が痺れる。そこへ唇が押し当てられると、鼻先を埋められると、いつも訳もなく瞼が熱くなった。何か感情が起こるわけじゃない。ただ急に上がった熱に眼球が潤んだ。そうして瞬きをしてから、もう一度空を仰ぐと。山々を見下ろすと、黒い海を見渡すと。さっきよりも澄みきった視界に、世界は輝いて見えた。これは自分の眼の光だと分かっていても、より美しく映ることに変わりはなかった。
そんなひとつひとつが、どれだけ贅沢なものか。
今では何となく分かる。多分この世界のどこでどう生きるにしても、これは得難いものだ。生涯をかけても得られるとは限らないものだ。まして一人では得られるはずもない。
俺は幸いだ。
幸運に恵まれて、この上なく良い旅を送っている。けれど。
それは、俺が元から欲しかったものじゃない。


……行くな。


俺が俺から離れる。
夢の中の俺は記憶をなぞるだけだ。俺は俺を見てなどいないはずなのに、今目の前には俺がいる。何がおかしいのか、笑みを堪えきれずいる。それを俺はどこからともなく、どこでもない場所からただ見ている。俺の視線をないものとして、目の前の俺は嬉しさを隠そうともせずにいた。良い旅にしようとなどとジャンに言われて、初めて出立の目的を得たような気がして、浮かれていた。
違う。
そう叫ぼうとする。声にはならなかった。俺はここにはいないのだ。傍観者でしかない。
そんな面していやがったのかと、自分を忌々しく思う。俺は間抜けに薄く口を開いて、はにかんでいるとしか言えない顔でいた。向かいでその俺を見たジャンはあからさまに狼狽えて目を泳がせて、引き結んだ唇の端を上げようか下げようか迷っている様子だった。さんざん驚かされただけにそれは少し良い気味だと思ったのか、俺が今度ははっきりと笑顔を見せると、ジャンはわざとらしく顔をしかめた後で、観念したように肩を下げ、少し困ったように笑った。
違うんだ。
俺は思う。思うだけだ。叫ぶ咽喉もない。肺もない。風は俺を透かして吹き抜け、飛ばされてしまわないのが不思議なほどだった。
目の前の俺は生まれて初めてこの男と笑い合って、何も考えずにいた。その自分の首の根を掴んで絞め上げたいと思う。ジャンはジャンでまんざらでもないニヤけた面で、元からそういうつもりでいたんじゃないと、抱き合い始めたばかりの頃に繰り返し聞かされた弁解が、今その面を見るとどうも疑わしかった。その弛んだ頬に拳を叩きつけてやりたいとも思う。思ったところで掴みかかる手も振り上げる腕もない。
ジャン。違う。違うんだ。
声になった瞬間届くように、強く念じ続ける。違う。お前は俺が望んで得たものじゃない。俺が欲しかったものじゃない。お前は元からいなかったんだ。俺は身ひとつで良かった。俺は俺のほかは何も要らなかった。もう何も残っていないはずだった。ジャン。

「ジャン…!!」

突然声が出て、身体が重くなった。いつの間にか身体がある。心音は感じないが、視界にも入らないが、風が皮膚を撫でる冷たさはあった。構わない。吸い込んで吐き出せる息があれば十分だ。

「ジャン! 行くな! ジャン……!!」

荷を移し終えて、俺もジャンもこちらには目もくれず、再び馬に跨る。そのまま遥か彼方、俺が元から目指していた丘へ走り出す。風に消されて聞き取れないが、二人してきっとまだ笑みの残る声で、他愛もない言葉を交わして。遠ざかっていく。進む足はなく、俺は取り残される。

「頼む…行かないでくれ……!」

行かないでくれ。来ないでくれ。ジャン。俺は良い旅がしたかったわけじゃない。ただ自由でいたかっただけだ。だからお前の言葉を聞いてしまって、お前を止められなくなっただけだ。俺は馬鹿だった。何も考えちゃいなかった。少しも分かってなかったんだ。お前を伴う意味を。

「ジャン…!!」

頼む。行くな。来るな。でないとお前は。




「死ぬ」









あきゅろす。
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