恋 を する
1

疲労を感じると寄る場所がある。
学校から駅に向かう途中の路地を入った先にある喫茶店。
個人経営のこじんまりとしたその店の、白髪のマスターが淹れる美味いコーヒーとマスターの奥さんが作る美味い食事が気に入っている。

このところの立て続けで起こるトラブルに疲れていた。
見慣れた喫茶店のドアにほっと息を吐く。
「いらっしゃいませ〜」
ドアを開けたらいつもより格段に若くて間延びした声がする。
店、間違えた?
そんなことないのはすっかり馴染んだ店内のイスやテーブルで確認できたけど。
いつもマスターが立つカウンターに視線を遣る。
立っていたのは限りなく金に近い少しウェーブのかかった髪の毛とピアスが複数刺さった耳朶に違和感が無い印象の男。
こちらを見た瞳が大きくなる。
「かいちょー…?」
零れ出た言葉に眉間にシワが寄るのを感じた。
俺を役職名で呼ぶということは…
「バイトは禁止だろうが」
吐き捨てるように出た言葉はかなり低くなった。
「えっ、や!あのっ、バイトじゃなくて」
「あ?」
ジロリと睨むと首を竦める。
「ここ、俺んちだからっ」
よく見てみれば慌てたように言い募る顔に見覚えがあった。
このチャラチャラした姿は校則の緩い校内でも目立つからか。
「留守番頼まれただけだし…」
あのマスターに子どもがいたのか?
意外な言葉に固まった俺にしどろもどろに席を勧める。
「ぇ、と…ご注文は?」
「……」
「っても、コーヒーしか出せないけど」
「…は」
思わず抜けた声が漏れたのは仕方無いだろ。
「や、だって…」
本当にたまたま留守番を頼まれただけで、いつもは店に立つことはないのだと小さな声が告げる。
「……奥さんは」
「風邪、で…寝て、ます」
注文はしてないけど、サーバからコーヒーを注ぐとカウンターへ置く。
「どう、ぞ…?」
促されてカウンターへ座る。
「かいちょー、いま帰り?」
「…あぁ」
鼻を擽るコーヒーの香り。
目の前のチャラチャラした男はたしか学年は同じはず。
名前は知らない。
「名前は」
「…羽鳥、デス」
「羽鳥?」
ふ、と脳裏に浮かぶ名前。
いやでも、と否定をするのは信じられないから。
「羽鳥智尋(ハトリチヒロ)…?」
「うん」
頷いた顔をじっと見た。
信じられなかった。
試験の度に張り出される順位。
上位5位までは並びが変わることはあっても、メンツはほぼ変わらない。
羽鳥智尋はその中の1人。
「かいちょー、どしたの?」
「いや」
俺が知っている羽鳥智尋は成績上位者、それから…
生徒会入りを強く拒んだ、ということ。

──家の事やりたいからって、断られた!

そんな風に生徒会の顧問が愚痴るのを聞いただけ。
「マスターは?」
「町内会の会合で……だから、人も来ないだろうから」
それで、留守番か。
「かいちょーはよく来るの?」
落ち着いてみれば、ゆっくりというよりのんびりとした喋り方。
見た目とそぐわなくて見つめた。
「かい、ちょ…?」
「あぁ、たまに。ここのコーヒー美味いから」
そう答えると眉毛が情けなく下がる。
「ぁー…、したらごめんなさい」
「え?」
「おじさん居なくて」
「おじさん…?」
ここは家だと言っていた。
「あ!俺、居候というか…ゃ、違うか!」
「羽鳥?」
わたわたと慌てたように黒いエプロンを弄る指。
「俺、親がいないからおじさんに引き取ってもらって…それで、ぁの〜」
困ったのか天井を仰ぐ。
「………そんなカンジです」
へらり、と笑う。
「生徒会を断ったのは、それでか」
「あー、ぁあ、まぁ、はい」
家の事したいから、と小さな声が言う。
正直、驚いた。
俺たちの通う高校は進学校であると同時に所謂金持ち学校。
それにプラスしてバイトは禁止されているけど比較的緩やかな校則に企業の子息が遠方から通うほどだ。
そんな中で羽鳥のような生徒は珍しい。
「そうか」
呟くように頷くと、くるりとした瞳が大きくなる。
「…なんだ」
「えー、やぁ…かいちょーってもっと怖いのかと思ってたからぁ……意外で」
なんというか。
そういう印象を持たれるのは当然だと思っている。
特に最近は頻回に起こるトラブルに不機嫌な表情が和らぐことがないから。
「理由がなくて不機嫌なわけじゃねぇよ」
普通に言った、と思う。
それなのにきょとんとして、それから笑った。
そりゃもう自然に。
あぁ、笑顔ってこういうものだよななんていやに納得した。
美しく見えるように作られた笑顔。
誤魔化すために作られた笑顔。
俺に向けられる笑顔はそんなものばかり。
自然な笑顔を向けられたのは、ずいぶん前のような気がする。
「かいちょー?」
首を傾げて俺を見る羽鳥の瞳はきらきらと光るグレイ。
「それ、地毛か?」
日本人にしては珍しい色合いの瞳から髪の毛に視線を移す。
「ふぇ?」
「髪の色、もともとか?」
一房、前髪を摘まんですぐに離す。
「うん、そー」
ほわりと染まる頬とやけに嬉しそうな笑顔。
「自慢の母譲り」
大事なんだよ、と言わなくても伝わる思いは何とも羨ましいもの。
「仲良いんだな」
「………もう、ないからねぇ」
あっさりとした言葉に息を止めた。
俺は何を言った。
さっき親はいないと言っていたじゃないか。
「なくなったら、やっぱり当たり前だったことが大切ってわかったよ」
固まった俺に、変わらない笑み。
「羽鳥、は」
「うん?」
「店は手伝わないのか」
「…あー、うん。俺ねぇ手際が悪くってねぇ……家の事で精一杯なんだぁ」
パタパタと揺れる黒いエプロン。
「………俺が来たら」
「え?」
揺れていた黒いエプロンが止まる。
俺を見るグレイの瞳。
「いや、何でもない」
「そう?」
いま、何を言おうとした。
コーヒーカップにはまだ口を付けていないコーヒー。
すっかり忘れていた。
少し冷めたコーヒーは、それでもいつもと変わらなくて良い香りと味。
「羽鳥」
「はぇ?」
「お前、俺の名前知ってるのか?」
「知ってるよー」
なんで、と聞かれたのにうまい答えが見つからない。
「桐生隆哉でしょ〜」
きりゅうたかや、なんて聞き慣れた自分の名前。
それなのに。
なんだ、これ。
「かいちょー?」
「いや、なんでもない」
なんだかあっちこっちが擽ったくて。
残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさま」
一瞬だけ固まった羽鳥は動いたと思ったら俺を凝視した。
「…なんだよ」
低くなった声にぶるぶる頭を振る。
「驚いて!」
「あ?」
「だって、かいちょー…が、ごちそうさまとか言うから」
「………」
俺はどんな評価されてんだ。
がしがしと髪を掻いて羽鳥を見る。
なんだか眉を下げている表情に力が抜けた。
「羽鳥」
「うん?」
「…名前で呼べ」
あ、目が丸くなった。
「ちょ…っ、それ無理だからっ」
下がった眉のままなんだか泣きそうな顔になる。
「なんでだよ」
「俺がかいちょーの名前を呼んだらいじめられるでしょっ」
「……バカか」
呆れた声に羽鳥は顔を赤くする。
「だって、俺…ただの一般人だよ」
「それ、本気で言っているのか?」
「ホンキです〜」
「…お前だったら平気だろ」
うちの学校の悪い慣習だと思っている。
見た目を重要視して騒ぎ立て、対象人物を特別扱いする。
でもそれに助けられている部分も少なからずあるから、どうしようもないんだけど。
クラス内のことにも興味を持たない俺が羽鳥の周りを知ることはないが、成績上位者であることに加えてこの容姿はかなり人気があるのではないかと思う。
「名前で呼べ」
「無理だってば…!」
カウンター越しの身長はあまり変わらない。
「羽鳥」
「…ぅ、ぅー…もぅ、わがままっ」
「わがままじゃねぇよ。会長なんて役職名で俺の名前じゃねぇだろが」
「そ…だけどさぁ」
もごもごと文句を言いながら視線が泳ぐ。
「………き、りゅー」
「そりゃ苗字だろ」
「えーっ、だってだって!かいちょーだって羽鳥なのになんで俺だけっ」
言われてそりゃそうかと頷いた。
「智尋」
「ぅ…え?」
「智尋、俺の名前」
顔面に赤いペンキをぶちまけたみたいになって、口をパクパクする。
その赤さが見た事ないくらいで、顔が緩んでいくのが分かった。
「ちょ、いじわるな顔してるっ!からかわないでよっ」
「……あのなぁ」
意地悪とかからかうとか…
してねぇって。
「………か、や」
小さく唇が動く。
吐息が漏れるような小さな声。
「え?」
よく聞き取れなくて。
「もう言ったから!俺、言ったからねっ」
「聞こえねーよ」
でもあまりに必死な様子がおかしくて笑ってしまった。
こんな風に自然な流れで笑ったのは久しぶりかもしれない。
「じゃあ、次までの宿題だな」
「ななななにがっ」
「俺の名前を呼べるようになっていること」
カウンターに小銭を置く。
「マスターによろしく」
そう言ってドアへ向かった。
振り返ってみた羽鳥はやっぱり真っ赤で、でもぴょこんと跳ねるように頭を下げた。

苛々と疲労が溶けていた。


[→#]

1/5ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!